別れのトランペット BY 『音楽の部屋』様                                                 17年2月5日(土)

橿原市初期天皇陵


 橿原市は、東は桜井市、西は大和高田市、南は高取町・明日香村、北は田原本町に接していて、古代都市の藤原京はここにあったのです。
藤原京以前を見れば、縄文時代には集落が点在し、5世紀頃には日本建国神話の表舞台となっていました。

 今日は近鉄橿原神宮前駅に集合して歴史探検の開始といたしました。


駅前の道を真っ直ぐ歩いていくとすぐに橿原神宮に着く。
今日は市会議員選挙の前日とみえて、朝の10時、ヒッソリとした町に、候補者の選挙カーが大きな声で最後の最後のお願いに回っていました。


右の写真の遠景に見える山は畝傍山、その手前に見える森が神宮の森です。




橿原神宮                            

橿原市は流石、古代からの町ですね。
この道を歩いていると、道端の和菓子屋さんの店先には左のような埴輪饅頭なるものが売られていました。

というのも、この辺りは多くの古墳があり、そこから埴輪も出土しているという土地柄なのです。
祭神: 神武天皇
     媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)
     (日本書紀にでてくる神武天皇の皇后)
場所: 橿原市久米町934

 明治8年に奈良県が当時の教部省に対し、神武天皇即位の地である橿原宮の旧地に神宮創建の請願を行いました。
それが認められたのが明治22年。そして翌23年に明治天皇から下賜された京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿(しんかでん)をもって本殿と拝殿として創建されました。

 橿原のとほつみおやの宮柱
   たてそめしより国はうごかず

 橿原の宮のおきてにもとづきて
   わが日本
(ひのもと)の国をたもたむ
                             明治天皇御製


この、明治23年という年は日本書紀にいう、神武天皇即位から2550年目に当たる年で、それから更に50年経った昭和15年には紀元2600年の記念行事として社殿および境内が拡張整備され現在の姿になりました。


盧溝橋事件が起こったのが昭和12年。軍国主義へとひた走っている最中の昭和15年というのは、「贅沢は敵だ」の言葉が生まれ、日本軍が北部仏印に進駐し、日独伊3国同盟が調印され、大政翼賛会が発足した年なのです。
そして翌年には真珠湾攻撃から泥沼の戦争へと進んで行くのでした。
紀元2600年と言う事態が軍国主義者に利用されたということは間違いないでしょうね。
もっとも、現在では神武天皇が2600年以上も前の天皇と信じている人は殆どいないと思いますが。

     昭和14年に完成した外拝殿(げはいでん)
両側に長い廻廊を連ねた入母屋造りで、この日は廻廊で書道展が開催されていました。

             内拝殿(ないはいでん)
この日は2月11日の紀元祭の準備のためでしょうか?外院斎庭(げいんゆにわ)にはご覧のようなテントが張られていました。
内拝殿の奥にツノのように見えているのは幣殿の千木で、幣殿は、神饌(しんせん)をお供えし、祝詞(のりと)を上げる場所となります。その奥に本殿があるのですが見ることは出来ません。

橿原神宮の境内から畝傍山山頂への登山道があります。  若者の集団?である歴遊会メンバーは登ることにしました。
畝傍山は標高199.3m、面積41haの死火山との解説がありました。
橿原神宮は標高70mぐらいですから130mぐらいの登山となります。
途中、東大谷日女命(ひがしおおたにひめのみこと)神社がありましたがここは素通りして山頂を目指しました。
  香具山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と 相争ひき 神代より かくなるらし
  古へも 然(しか)なれこそ うつせみも 嬬(つま)を争ふらしき
    (中大兄皇子)
【香具山の神は、畝傍山の神を愛しいと思って、耳成山の神と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神の昔もそうであったからこそ、今も、人は結婚相手をめぐって争うものらしい】
ということで畝傍山は昔から女性らしいのだ。
左の写真は登山途中に見えた二上山方面です。

その下の写真が畝傍山の山頂です。

ここの下の写真は山頂から耳成山方面を見たところです。
その右端のところが藤原宮(藤原京でない)のあったところですよ。

ここで、毎日散歩代わりに登っているというおじさんの話を聞いてきました。
北北東方面に奈良の大仏の建物も見えるとおっしゃってましたが、今日は残念ながら霞がかかっていて生駒山すら見えませんでした。

畝傍山から下りてきたところに「絆の錨」というのがありました。
なんでも、平成8年、海上自衛隊に保管されていたものが廃棄
処分となり寄贈されたということらしい。。

昭和48年1月13日、第1回甲飛13期全国大会が開催され、その席上、生存者の我々の手で散華した同期生の慰霊祭を行おうということになり、同年11月18日、「第13期海軍甲種飛行練習生殉国の碑」の竣工除幕式が行われました。
さらに「慰霊碑周辺整備計画」が進行し、昭和53年3月「若桜友苑」が竣工しました。
写真左の船のマストをイメージしているのは空母瑞鶴の乗組員の生存者で組織する「瑞鶴会」によって建設されたそうです。
戦争は暗くて、怖くて、悲惨で、人を狂気にさせてしまうけど、国の命令で苦悩や我慢や凌辱的屈辱を受けた加害者も被害者もみんな戦争の被害者だと思っています。
戦争で亡くなられた方の悲しみと無念さに心を痛めています。



神武天皇陵
 神武天皇から光仁天皇までの歴代天皇の漢風諡号(かんふうしごう)は奈良時代後半、淡海三船の奉勅撰によって定められたということになっています。
元々の和名は神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)、諱(ただのみな)(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)といいます。
父は天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は海神豊玉彦(わだつみとよたまひこ)の二番目の娘の玉依姫(たまよりひめ)で第四子として生まれました。
以下『日本書紀』巻三を参考にして作りました。

神日本磐余彦は生まれながらにして聡明で気品がありました。成長したとき日向国吾田邑(ひむかいのくにあたのむら 鹿児島県西部)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って、手研耳命(てきしみみのみこと)をもうけました。
やがて、45歳になった彼は兄や子供達を呼び集め決意を語り始めました。

『昔、吾が天神(あまつかみ)であらせられる高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と大日霊女貴尊(おおひるめのむちのみこと 天照大神)が、この国を曾祖父である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にお授けになった。
瓊瓊杵尊は地上に下られ、西の果ての地を治めになった。
この国を治めて代々父祖の神々は善政をしき、恩恵が行き渡った。
皇孫が降臨してから、1719万2470年が過ぎ去ってしまった。
しかしまだ葦原中国(あしはらのなかつくに)全土に天孫(あまみま)の恵みが行き渡っているわけではない。

また塩土翁(しおつちのおじ)が言うには、東の方に良い土地があって青い山が四方を取り囲んでいるという。
私が思うにその土地が国の中心地ではあるまいか。今こそ、そこへ行って都を定める事としたいがどうか?』
衆議は今こそ東に向うべしと決定されました。この年は太歳の甲寅(たいさいのきのえとら)でした。
塩土翁というのは海の神霊であり、各地の情勢をよく知っている神と思われる。

ここで解説をしておきます。
瓊瓊杵尊は太陽神である天照大神の孫であることから神武天皇は天照大神の子孫であること。
また、瓊瓊杵尊は天孫降臨を果たし、地上の山の神の子である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との間に火闌降命(ほのすそりのみこと)、火明命(ほのあかりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の3子が生まれている。
火闌降命は海幸彦で、彦火火出見尊は山幸彦なのです。
50代以上の方ならおとぎ話としてご存知でしょう。山幸彦は失くした釣り針を探しに海に入り、海神(わだつみ)である豊玉彦(とよたまひこ)の娘の豊玉姫(とよたまひめ)との間に子供をもうけます。
この子(天津日高日子波限建鵜草葺不合尊 あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は成長して叔母の玉依姫との間に4人の子供を設けますが、第4子こそが神日本磐余彦なのです。

日本書紀の巻3までは「神武天皇は天神の最高神の子孫であって、天神、山神、海神の血統を引いていて、日本国を授かった神の子孫で統治することの正当性を示す」のが目的だったのでしょう。


磐余彦は三種の神器を持ち、日向国の美々津の浦輪を出航しました。
その途中で豊国(大分県)の宇沙(宇佐)、つぎに筑紫の国の岡水門(おかのみなと 福岡県遠賀郡芦屋)、安芸の国の埃宮(えのみや)、吉備の国の高島宮(たかしまのみや)、そして難波の津に着いたのです。

初め、生駒山の方から大和に入ろうとしますが、そこで長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に合い進路を阻まれます。この戦いで長兄の彦五瀬(ひこいつせ)を失しないました。

太陽に向かって攻撃するのが良くないとして、熊野のほうに迂回することにしたのです。

熊野からは道に迷いながらも、八咫烏(やたがらす)に導かれ、兄猾、八十梟帥、兄磯城ら倒して、ついに長髄彦を滅ぼしたのでした。
実に、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位したのでした。





綏靖天皇陵
奈良県橿原市四条町
綏靖天皇の和風諡号は神淳名川耳(かむぬなかわみみ)
これから以下の天皇は欠史八代と言われ、殆ど情報はありません。




日本書紀によると天皇第2代は綏靖天皇で神武天皇の第三子だった。
48歳の時に神武天皇が亡くなり悲嘆に暮れていた。
謹んで喪に服すが異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は違っていた。
手研耳命が自分たち異母弟を殺害しようとしているのを知り、これを討って即位する。
皇居は葛城高丘宮(奈良県御所市森脇)
皇后は母の妹である五十鈴依媛(いすずよりひめ)
(一説によると磯城県主の娘、川派媛)
在位33年で没し、大和の桃花鳥田丘上陵に葬られた。





安寧天皇陵
奈良県橿原市吉田町
安寧天皇の和風諡号は磯城津彦玉手看(しきつひこたてみ)




皇居は片塩浮孔宮(かたしほのうきあなのみや 大和高田市片塩町)
皇后は渟名底仲媛命 (ぬなそこなかつひめのみこと)
(一説によると磯城県主の娘、川津媛)
在位は38年、57歳で死亡



懿徳天皇陵
奈良県橿原市西池尻町
和風諡号は大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)



皇居は軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)
皇后は天豊津媛命(あまつとよひめのみこと)
あるいは磯城県主の弟の娘、泉媛、または磯城県主の娘、
飯日媛。

在位34年、77歳で死亡。


       今日は2月5日という真冬なのでしたが、暖かな日和に恵まれて楽しい一日を過ごせました。







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