16年5月22日
   真珠の涙 by 音楽の部屋様

近江八幡  


 第104回目の歴遊会例会は近江八幡市(2004年4月現在人口68,550人)に行く事にしました。
何故、近江八幡かというと特に理由はなく、単なる会長さんの思いつき?だけなのです。

5月22日10時JR近江八幡駅に集合、今回は8歳の乙女の参加もあり平均年齢はグッと下がりました。
これまでの子供の写真を拾ってみました。

平成6年11月23日、第7回の歴遊会

この子は今、高校3年生。

受験勉強中です。
平成9年7月6日、第33回歴遊会

今、高校受験の勉強中だったかな?

今回初登場。

歴遊会が発足した時には生まれていませんでした。

元気で健やかに育って欲しいです。




近江八幡といえば豊臣秀次。
それでは近江八幡と秀次の関係を見てみましょう。
1568年、豊臣秀吉の近臣三好吉房と秀吉の実姉「とも(日秀)」との間に生まれた治兵衛(秀次)は、戦国時代の慣わしでしょう、秀吉の人質となって四国の三好康長のもとに養子に出され名を三好孫七郎信吉と名乗っていました。
14歳の時、秀吉の跡継ぎとして羽柴孫七郎秀次に改名しています。
そして本能寺の変の後、秀吉とともに明智光秀を討ち、翌1583年には伊勢の滝川一益攻めや賤ヶ岳の戦いに軍功をあげ、河内北山2万石を与えられました。
同年、小牧長久手の戦いでは、家康の本拠地の岡崎城を攻めることになっていましたが大敗し大垣城で謹慎を命じられています。
1585年3月、謹慎を解かれて和歌山の根来衆を討ち、四国の長宗我部元親も倒し、ここ近江の国に43万石を与えられ8月に八幡城の建設を始めたのです。

城下町の建設・整備については秀次には自由都市構想とでも言うべきなのでしょうか、織田信長の楽市楽座に見ることのできる「定、安土山下町中」十三箇条の掟書きを模して「八幡山下町中」十三箇条の掟書きを定めました。
内容はほぼ信長のものと同じです。
この掟書きに合わすように秀次は全長6kmの運河「八幡堀」を建設しています。つまり水上交通を利用するものはすべて八幡の町に入ることを定め、陸路を通る者も八幡を通ることを義務付けています。


このように城下の経済発展のために造られた運河は、これらの写真のように風情ある景色を今に残し、観光する私達にとって心の安らぎを与えてくれるのです。

チョット誤解していたことがあって、水郷めぐりとこの八幡掘りの観光船のことです。
同じものと思っていました。
八幡堀りは秀次が掘った市街地の中心部の堀、水郷めぐりは近江八幡から安土にかけて広がる西の湖一帯のヨシが茂る広大な水郷めぐりです。

八幡掘りもなかなかいいのですが、水郷めぐりの和船にも乗ってみたかったですね。
時間の関係で乗り場までも行けなかったのが残念です。

 秀次は1590年に北条氏と戦い箱根山中城、小田原城を次々の陥落させ、この恩賞により尾張と北伊勢100万石を与えられ清洲城主となります。
さらに「奥羽平定総大将」に任ぜられ、近江八幡には新しい城主として京極高次が入ってきましたが秀次の築いた制度と城下町は行き続けたのでした。

1591年には秀吉の子供鶴松が3歳で夭逝したことにより、羽柴から豊臣姓を名のり「関白」職に就き、住まいも京都の聚楽第に移り名実ともに秀吉の跡継ぎになりました。
 ところが皮肉なもので、1593年8月に秀吉に男の子秀頼が誕生したのです。秀吉は既に京都伏見の地に隠居城を建てて完成間際だったのです。

そうなると俄然張り切ってきたのが秀吉です。朝鮮征伐も明国の進出により思うように行かず講和をせざるを得ない状況でありましたが、明国の使節を迎え秀吉の権威を誇示するため急に新しい城を建てることを思いついたのでした。
そして次に考えついたのは跡継ぎの事。養子の秀次より、自分の子秀頼に継がせたいと考えたのでしょう。
もはや、秀次は邪魔な存在でしかありませんでした。

1595年6月、ポルトガルの宣教師が聚楽第を訪れ、豊臣の跡継ぎについての質問しました。このとき秀次は「世継ぎはこの秀次だ」と回答しています。
この回答が誤解を招いたのかこの話が秀吉に伝わった時にはどういうわけか「秀頼は実の子ではない」なんて言ったということだったらしい。
秀吉は激怒し、詰問書を秀次に出します。すぐさま秀次は手紙を返しましたが、秀吉はそれを読まずに破り捨てたということです。
こういう状態ですから秀吉の結論は次のようなものでした。
 『豊臣氏追放。関白・左大臣罷免。領地没収。高野山出家』


この結果、秀次は高野山で秀吉の更なる命令で自刃しましたが、これだけでは終わらなかったのです。
首は京都三条河原に晒され、正室・側室・乳母・子供ら30余人が処刑されたのです。
生き残りがいたなら必ず復讐があると思ったのでしょうか、秀次憎しで凝り固まっていたのでしょうか、私には分かりませんが本当に悲しい歴史の一幕をこの地で感じたのでした。
同年秀吉により八幡城は廃城となったことは言うまでもありません。


駅から八幡城に向って歩いていく途中、季節ですねツバメのヒナが親鳥から餌を貰っていました。
2km半ぐらい歩いたところに朝鮮人街道というのがありました。


この街道沿いには数々の史跡があります。


伴家住宅もその一つ『滋賀県近江八幡市新町で進められていた江戸時代の近江商人の本宅「旧伴家住宅」の修理、復元工事がこのほど完成し、4月から市資料館の別館として活用される。
 伴家は畳表、蚊帳、扇子、麻織物などを扱った商家。本宅は江戸時代末期、7代目の庄右衛門能尹(よしただ)が13年かけて作り、伴家が明治期に家業をたたんだ後、八幡尋常高等小学校、八幡町役場などを経て、1996年まで市図書館として活用された。
市は建物を復元して市民に開放することにし、98年に着手。旧伴家に建設資料がないため、八幡小に残されていた尋常高等小学校の図面をもとに復元工事を進めた。
完成した建物は木造3階建て(延べ約730平方メートル)で、商人屋敷を一部保存し、内外装に明治時代の尋常高等小学校当時のデザインを取り入れた。旧伴家で使われていた土間とたたきも工事中に見つかり、保存されている。』   2004年3月15日京都新聞より


この伴家の資料館の中にあった瓦人形。この人形を見たときすぐにビビーンと来ました。京都の伏見では桃山時代に瓦を焼いていました。
そのことと伏見人形。伏見人形というのは素朴で可愛い人形で、写真のような感じではないのですが秀吉の伏見、秀次の近江八幡。
何かの関連を感じました。

説明によると近江八幡の地場産業の一つである瓦は江戸時代中期、洛南深草の瓦師によって伝えられたとされている。
その元祖もいわれた多賀町寺本家より寄贈されたもので朝鮮通信使をモデルとして作られた市内唯一の瓦人形である。
となっていました。
味のある顔つきですね。気に入りました。




旧西川家住宅と町並み

江戸時代の大商人・西川利右衛門の旧宅(1706年築)です。
利右衛門は屋号を大文字屋といっていました。
畳表や蚊帳を取り扱い、江戸日本橋、大坂、京都等に出店しましたが、昭和5年に後継者がないままに11代目が没し途絶えてしまいました。
西川家の家訓は「先義後利栄・好富施徳」で義理人情を大切にすることが商売繁盛に繋がり、また、得られた富に見合う人間形成を行えと説いています。

左下は表側の写真、下はこの建物を横から見たところです。
裏に続く屋根が2階から1階まで続いている斬新なデザインではないでしょうか。





中庭には松が植えられているのがスタンダードな作りなんでしょうね。 家と家の間にはウダツがあります。屋根より少し高い塀のような壁。
「ウダツが上がる」というウダツのことです。

白雲館


白雲館は明治10年に八幡東学校として建築されました。

貴重な擬洋風建造物と説明にはありましたが、2階には左の写真のような和式の教室もあり擬洋風建造物と呼ばれるのでしょうか。

平成6年に解体修理され往時の姿に復元され、現在は観光案内所が設けられ、お土産や特産品も展示販売されています。












日牟礼八幡宮
 名前からして分かるように八幡宮ですから、御祭神は譽田別尊(ほむだわけのみこと:応神天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)と他に田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫神(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。

左の写真は上の白雲館の2階の窓から撮ったものです。

 伝記によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。
応神天皇6(275)年に天皇が近江に行幸し、奥津島神社に参詣した時に宇津野々辺で休憩しました。そのときご座所が設けられたのですが、時が経てそのご座所跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられたということです。

 天正18(1590)年、豊臣秀次が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮を麓の比牟礼社に合祀しました。

1595年、秀次の自刃で八幡城が廃城となったのは上述のとおりですが、城下町は商人の町として発展し、名にし負う近江商人が生まれ、財を蓄えていったのでした。
この神社は近江商人の守護神として崇敬を集め現在に至っているのです。

毎年3月第2か第3土曜日に左義長祭りが行われます。
近江商人の隆盛によって、商売繁盛を祈願する祭りとされていますが、織田信長が安土城下で毎年正月に行っていたものが秀次により近江八幡に移されたものらしい。
左義長は、新藁を編んだ約3mの三角錐の松明の上に青竹を立て、細長い赤紙、薬玉、巾着、扇で飾られたものだそうです。
これが十数基もあり、日牟礼八幡宮から出て町を繰り歩いた後、再び神社に戻ってきて、さらに翌日町に出て左義長どうしが「けんか」をします。
最後のクライマックスはやはり火をつけて燃やします。
燃え盛る左義長が夜空を焦がし、火の粉を飛ばす姿は湖国に春を告げる風物詩となっています。






ん?今日はなんなんだろう。
見ると舞殿に人がいっぱい居るではないか。
これだけの人数になれば本殿の前(前殿)に集まることができないため臨時に舞殿を使ったのか?

お祭りでは無いようでした。

こちらが拝殿。
いづれの建物も桃山期の建物じゃないでしょうか妻側の破風にその特徴を見出す事ができる。












近江八幡と言えばもう一つ思い浮かぶものがあった。
昭和中期以前の生まれの人だったら知らない人はいないだろうと思うほど有名な薬のこと。そうです「メンソレータム(メンターム)」です。
その薬を作っているの近江兄弟社があるのがここ近江八幡なのです。
明治19年、滋賀県立商業学校が開校しました。この学校へ英語教師として、W・メレル・ヴォーリズがアメリカからにやって来たのです。
ヴォーリズは建築家でもありました。大阪心斎橋の大丸百貨店、東京駿河台の山の上ホテル、神戸女学院などを建てた人です。
そのヴォーリズが近江兄弟社の創立者なのです。
で、近江兄弟社に行って見ました。


近江兄弟社に行ってみるとチャリティーバザーを開いていました。
お腹もすいていたので食べ物の方が気になって。

ん?!「越乃寒梅」が3000円!

滅多に飲めるお酒じゃないですか。

「オイオイ、今日のメンバーなら1升ぐらいならヘッチャラやないか」
「買おか?」
だれも反対する者が無くて、購入決定。

さっ場所を変えて食事としますか。
ということで、図書館裏の八幡公園に。


「まっ一杯」 早速宴会が始まりました。(笑)

「歴遊会」、またの名前は「酒を愛する会」なのです。

本当は地酒が飲みたかったのですが・・・・・・・・。
近江八幡のお土産に買ったものは「でっち羊羹」
(ここNHKで紹介されてました。
 もう一つは赤コンニャクを買って帰りました。



今回も楽しい史跡巡りと日本酒の旅でした。  今回はここまでといたします。



           第103回御室へ         第105回明日香 西部 





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