秋浪漫 by 音楽の部屋 様

明日香西部                               16年6月19日      第105回



 今回は久しぶりの古墳めぐりです。以前に来た事もあるのですが、当時デジカメも持っていなかったこともあり
ページのアップが出来ていませんでした。
ですからデジカメで写真を撮りページのアップをする事も目的の一つだったのです。



 出発駅は奈良県高取町の壷坂山駅です。お里、沢市の『壺坂霊験記』で有名なところです。
この辺りから北側には多くの遺跡や古墳があります。15年2月16日には森カシ谷遺跡の見学にも来ています。
上の写真は岡宮天皇陵から見た高取町ののどかな景色ですが、森カシ谷遺跡はこの写真の左側になります。


岡宮天皇陵


 岡宮天皇といっても聞いたことがないとおっしゃる方も多いと思います。
実際には草壁皇子のことです。

生前には皇位には着いていませんが没後に天皇号を贈られた天皇を「追尊天皇」と言います。
つまり草壁皇子は天皇にはならずして薨去して、そしてこの高取町の辺りに埋葬されました。
その後、岡宮天皇という号を贈られたのです。

左の写真は岡宮天皇陵の全景です。

 草壁皇子を埋葬したとされるのですが、実際ここかどうか分からないのです。
この次に行く束明神古墳のほうが、それらしいという事なのです。
その辺の事は束明神古墳のところで明らかにしてみましょう。

草壁皇子についてどういった人物だったのかを見て見ましょう。

 天智天皇は中大兄皇子のことで大化改新(645)で有名ですね。
天武天皇は天智天皇の弟ですが、天智天皇の子である大友皇子と壬申の乱(672)を起こし勝者となりました。
大田皇女は鵜野皇女(鵜は上の系図内の字)の同母姉で天武天皇の皇后ですが667年には亡くなっています。
したがって天武天皇の皇后は妹の鵜野皇女に変わりました。

 天武天皇には大田皇女との間に大来皇女、大津皇子。 鵜野皇女との間に草壁皇子
他に長皇子、弓削皇子、舎人皇子、但馬皇女、新田部皇子、穂積皇子、紀皇女、田形皇女、十市皇女、高市皇子、
忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女と多くの子供がいます。
この多くの子供達にも序列がありました。それは年齢ではなく母親の出自に拠るものであります。

 この中で次期皇太子の候補は2人いました。大津皇子草壁皇子です。
「日本書紀」「懐風藻」によれば草壁が平凡な人物であったのに対して大津は人望もあり才能もあったらしいのです。
  (幼年にして学を好み、博覧にして能く文を綴る。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣を撃つ。というふに)
686年9月9日、50歳で天武天皇が没すると10月2日には大津皇子に謀反の動きありとして捕まえられ翌3日には
大津皇子は自害してしまったのです。
謀反の内容は明らかではなく、この時捕まった30余人の内2人を除いて罪を許されています。
どうも不可解な事件です。これは鵜野皇女が自分の子、草壁皇子の地位を磐石にするための謀ではなかったので
しょうか?
現在、この説が最も有力視されています。

 にもかかわらず、草壁皇子は即位できませんでした。大津皇子の事件の反発、天武天皇の2年間にわたる殯(もがり)、
草壁皇子はその疲労からでしょうか天皇になることなく689年4月皇太子のまま没したのでした。
次期天皇となったのはなんと、鵜野皇女(持統天皇)です。
想像するところによれば鵜野皇女は草壁皇子の子供である軽皇子を天皇に就けたかった。
しかし、歳はまだ4歳。「これでは天皇にする訳にはいかない。成長するまで私が天皇になっておこう」と考えたのでしょう。
以後11年間持統天皇の統治が始まったのです。11年後天皇になったのは軽皇子(文武天皇)であることはいうまでもあ
りません。




束明神古墳


岡宮天皇陵から北へ300mぐらいでしょううか左の写真の春日神社の境内に束明神古墳というのがあります。




現地の説明版には以下のことが書かれています。

『この古墳は明治二十六年の野淵滝潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われなかった。
橿原考古学研究所では、高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。
こうした認識にたち、昭和五十三年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和五十九年四月十六日から発掘調査を行った。

調査は、由良大和古墳研究会の助成をうけて奈良県立橿原考古学研究所が高取町教育委員会と共同で実施した。

 古墳は尾根の南側を直径約六十メートルの範囲で造成しその中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模などについてもこれまで調査された終末期古墳に見られなかった大規模な物である。
石槨の変遷、棺の構造、須恵器などから総合的に判断して、七世紀後半から末ごろと考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期か壮年期と推定される。

 草壁皇子(天武天皇と持統天皇とのあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。』



束明神古墳からマルコ山古墳に向かう途中に見つけた花をどうぞ。

この花はイメージどおり「時計草」というそうです。


梅雨晴れ間
 二人で歩く
   明日香の地 
     時の流れを
       止める花見て


  仙道作の下手な歌です。岡山のネット友達の「たんぽぽ」さんにチョット教えてもらいました。
  そして返歌を戴きました。

いにしえの
 恋の行方を
  いつまでも 
   あなたと見つめる
     刻 止めたまま

                     by たんぽぽ

ベゴニアというのは八重咲きもあるんですね。
なんでも、ドイツ人の育種家、リーガー氏がが多くの品種を開発したことからリーガース・ベゴニアというらしいですね。
別名リーガル・ベゴニアです。



マルコ山古墳
17日の夜、テレビニュースを見ていると『マルコ山古墳の墳丘西側で、排水のためのバラス敷きとその下を走る暗渠を確認した』という
内容が放映されていた。
ここは我々が19日行く予定のところである。
発掘現場だから立ち入り禁止なんてことになっていないか、一抹の不安も感じたのだが、逆に発掘現場を見られるかも知れないと期待
も膨らんだ。


@

A












B

C

上の写真にも説明があるのですがマルコ山古墳は横口式石槨をもった直径24mの二段築成の円墳となっています。
しかしながら下段の形は分かっておらず上円下方墳であるかもしれない。
というのも写真のバラスですが円形に敷かれているのではなく、直線的であるためにそういうこと思いついたのです。

今回の発掘で出てきたバラスや暗渠部は実は昭和52年、平成1年の調査でも出てきており、テレビニュースで放映されたような大発見ではないのです。
Aの写真の中央部バケツが被せてある部分が暗渠排水溝部分です。
右奥から左手前に排水されるようななっていました。
暗渠は地山を幅やく30cm掘り込んで川原石を充填したもので、平成1年の北東部の調査区で検出されたものと繋がっていると考えるのが妥当でしょう。
そうなると30m以上の長さがあると見ることができます。

同時期の古墳高松塚古墳はバラスも暗渠もありません。キトラ古墳はバラスはありませんが暗渠がありました。しかしこの暗渠は谷側なのです。
奇しくも本日の朝刊にキトラ古墳で人骨や金具が発見されたと載っていました。
その記事の中に『石室内が雨水に浸かるなどして水没し、木片の断片が浮き沈みを繰り返したと推定する』とありました。

キトラ古墳は水対策ができていなかったのでしょうね。

もう一つ、マルコ山古墳と高松塚古墳・キトラ古墳の違いを挙げてみます。石槨同じ大きさぐらいですがマルコ山古墳が長さ271.9cm、幅129.7cm、高さ135.3cmで全て一番大きいものです。さらにどれも全面漆喰が施されています。ただ、マルコ山古墳だけ壁画がないのです。

今日は管理人さんというのか、多分、明日香村教育委員会の人でしょう。いろんなお話を伺ってきました。
現地説明会と違って自分の思いやロマンを語っていただき痛く感動しました。

『猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)の話 墳丘の土を突き固める「版築」の技術は寺院建築のもの。寺院では土壇の周りを石で化粧し、また雨落ち溝として排水機能を持たせていた。マルコ山古墳の築造にも、寺院建築に携わった人がかかわったのかもしれない」という記事も載っていました。


ここで、恒例の昼食タイム。
この日は暑かった。
みんな、500ccの発泡酒を買って、グビグビと。

これがまた う ま い!






下の花は白桔梗とカワラナデシコ。 心を癒してくれますね。




岩屋山古墳

近鉄の飛鳥駅から歩いて10分かからない住宅地の中にある古墳です。
墳丘の西側は削平されているが、三段築成の方形墳。
築造時期は7世紀前半であることから、被葬者に巨勢雄柄、吉備姫王、斉明天皇などの説があるが何れも根拠が無い。 


羨道の大きさも長さも特大です。
天井は一枚岩。側壁は下段三枚、上段二枚。奥壁は二段。
上部はやや内側に傾斜した玄室で羨道と共にきっちりと花崗岩が積み上げられています。


エンドウの花と蛍袋の花が何故か印象に残りました。
純白の感じと清楚な感じが素敵です。




鑵子塚古墳


   上の写真は鑵子塚古墳の全景です。
   左の写真は南西側の羨道の入り口です。
玄室の中は真っ暗。ライトがないと歩けない状態です。
今にも落ちてきそうな石組みなんですが、これが又感動的なんです。




牽牛子塚古墳

この古墳を調べていると分かったのですが石槨は高さ2.7m、幅6m以上、奥行き4mの巨石をくりぬいて棺をおさめる2室をつくっているということです。
この石槨の石材は二上山の寺山付近の凝灰岩だということなので、くり抜くには花崗岩のように硬くは無いものの、大変な作業には違いない。
ここの追葬型石槨を見ていると次に行く益田岩船石との共通点があるように思われる。


下の写真は左の鉄格子の隙間から撮った左右の棺台です。



益田岩船

この巨石はなんだろう?
用途についてはこの地に築造された益田池の碑の台石、古墳の石槨、占星台、異星人の目印説等がありますが、牽牛子塚古墳に見ることができるように追葬型石槨と見るのが妥当でしょう。
ただ、石槨と見るには穴の深さが1.3mしかなくこれでは子供サイズとしか言えないのですが。
大きさは東西11m、南北8m、高さ4.7m。石の上面は写真のように1.6m四方の穴が2個空いています。
ここは独自の推測ですが、右下の写真で穴にたまっている水の量に注意していただきたい。
「手前の穴には底にヒビがあります。北側のヒビから水が漏れているのがわかります。この穴を掘っている時ヒビ割れが生じました。
この石槨には高貴な方を収める予定だったから、完璧でなければなりません。 恐らく斉明天皇が入る予定だったのかもしれない。
したがって、ここで作業は中止となり捨て去られた」
というのはこれはかなり飛躍した発想でしょうか。





           第104回近江八幡へ       第106回京都宇治六地蔵


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