第102回   16年3月27日
   密かな祈り by 音楽の部屋 様

大阪府枚方市


9時30分京阪電鉄交野線の宮之阪駅に集合。 天気は晴れ、気温は16〜7°ぐらいでしょうか。
桜も咲きだしたころ、今日は史跡めぐりに加えて花見も兼ねてここ枚方の地を歩く事にしました。
というのは平安時代この地は交野ヶ原と呼ばれており
またや見む 交野のみ野の 桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの
と新古今和歌集春歌下に詠われている桜の名所だからです。




禁野車塚古墳


          後円部

      前方部から後円部を望む

      後円部から前方部を望む

駅から交野方面に線路伝いに歩く事5分で禁野車塚古墳に到着します。
「全長110メートルの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。
後円部の直径は57メートル、同高さは9.9メートル、前方部の幅40メートルを測り、前方部を西に向けています。
前方部はかなり削られていますが、後円部は2段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められます。
内部構造や副葬品については明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末〜5世紀初頭頃と推定できます。
この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。」

                                                                     (現地案内板より)



百済神社、百済寺跡
 駅の東側歩いてこれまた5分ぐらいの小高い丘の上にあります。
飛鳥時代の頃、百済国王の禅広は、新羅と唐の連合軍によって祖国が滅亡した際に亡命してきた。
やがて朝廷に仕える事となり、百済王(くだらのこにきし)氏という姓を賜り難波の地に居住した。
奈良時代に入り、子孫の敬福(きょうふく)は陸奥守となっていたが、聖武天皇の時代の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥の国で産出した金を献上しまし、その功績により河内守に任ぜられました。

敬福は中宮の地を賜り氏寺として百済寺を造営し、難波津の一族ともどもこの地に住みついたものかんがえられています。
やがて百済王氏一族は朝廷や貴族と姻戚関係を持ち朝廷内での地位を高めていった。
桓武天皇で「百済王等は朕の外戚なり」と言うほど親交を深め、行幸や遊猟などに何度も交野ヶ原の地を訪れています。
百済寺の中には桓武天皇が祭祀を行った場所もあったそうです。

その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退しました。やがて奈良の興福寺の支配を受け再興が図られました。
神社の本殿は春日大社の本殿を移築した「春日移し」です。


         百済神社

     百済寺跡 南門から撮影

        西塔跡の礎石



百済寺跡からラグビーで有名な啓光学園横を通って北へ2Kmぐらい行ったとこでしょうか、本日の目玉「渚の院」跡があります。



渚の院跡
渚の院跡は惟喬親王(844〜97)の別荘であったとされています。
惟喬(これたか)親王は文徳天皇(850〜58在位)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ、
憂さをはらすためしばしば渚の院にきたようです。
「伊勢物語」には親王一行が交野ヶ原に遊猟にきたものの、
渚の院で観桜や酒宴に興じ歌を詠むばかりであったと記しています。
世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  業平
この歌は、この時同行した在原業平が「院の桜ことにおもしろし」として詠んだものですが
失意のうちにあって「のどか」でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されます。
渚の院跡には観音寺が建立され12面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、
本尊は渚の西雲寺に移されました。
今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳型で河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家次の作です。
                                                       
(現地案内板より)


惟喬親王の母は紀名虎(きのなとら)の娘静子で当然に皇太子になるべき人物である。
ところが藤原氏の北家で右大臣で且つ文徳天皇の伯父であり義父でもある藤原良房が立太子問題に絡んできました。

良房は娘明子(あきらけいこ)と文徳天皇の間にできた惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)を皇太子にしてしまったのです。

現地案内板にあったように立太子争いというものがあったのかどうか知りませんが、力関係では太刀打ちできない状況だったのねしょうね。
惟喬親王は太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守などを歴任しましたが、28歳で出家し小野の里(京都市左京区大原上野町)に移りました。

ここで惟喬親王には意外なというか理解しがたい話があります。

それは轆轤(ろくろ)木地師の業祖とされているのかということです。
轆轤木地師とはグルグル回る轆轤を使ってお椀や丸い盆を作る人のことです。
俗説では藤原氏が差し向けた刺客から惟喬親王が逃れて、滋賀県神崎郡永源寺町の山奥の小椋谷(おぐらたに)に隠れて、ここで里人たちに轆轤の技術を教えたことに始まったとされているのですがこれは信じ難い話です。

勝手な推測ですが親王は出家した「小野の里」から小野の宮と呼ばれていました。
小野の里から途中(地名)を越えて滋賀県に入ると小野というところがあります。「小野妹子」「小野道風」「小野小町」「小野篁」ら小野一族の出身地です。
小野氏の祖先は米餅搗大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)です。名前からも想像できるように小野氏は元は鍛冶師だったのです。
鍛冶師も木地師も平安時代では同一の分布をなしており木地師も小野氏から派生して行ったのではないだろうか。
この辺が惟喬親王と轆轤木地師を結び付けているのではないかと思うのは素人の興味本位の説として無責任にも発表できる強みなのです。


話を本題に戻します。

                     鐘楼                          梵鐘

渚の院に到着すると網のフェンスで囲まれており、その扉は鍵が架けられて中に入れませんでした。
しかし、中に入る方はお申し出くださいと書いてありましたので鍵を受け取り行って中に入らせていただきました。
遠くから見るのと直に見るのとでは大違いです。
中に入れた事で大満足して記念撮影等をして次に向います。




牧野車塚古墳
穂谷川左岸に臨む交野台地上の標高22m付近に立地する前方後円墳である。
墳丘は2段落築成で、全長107.5m、後円部計54.5m前方部幅44mを謀る。
主軸線をほぼ東西にとり、前方部を東に向けている。周囲には、幅10mほどの空濠をめぐらせ、さらに西側から南側にかけて外堤が設けてある。葺石は認められず、かつては埴輪も散乱していたというが今は見られない。

昭和54年の後円部側外堤西側の発掘調査で、幅4〜5m、深さ20から30cm濠痕跡が確認され築造当初には2重濠であったことが判明した。
また壕内からは円筒埴輪も検出された。

主要部の構造や副葬品の内容も不明のため、正確な築造年代は決められないが、墳丘の形状からみて5世紀前半代の築造と考えられる。
なお、付近には赤塚・権現塚・子供塚。ショーガ塚等の地名が知られており、かつては牧野車塚を盟主墳とする古墳群が形成されていたものと思われる。
                                                       (現地案内板より)


南側外堤

後円部辺りの周濠

後円部から前方部へ




片埜(かたの)神社

主祭神 建速須佐之男大神
配祭神 菅原道眞、櫛稻田姫命、八嶋士奴美神
合祀神 天照皇大神、品陀和氣命、天兒屋根命、久那戸神、八幡大神、久須須美大神、事代主命





社伝によれば、野見宿彌が大麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、須佐之男命を祀ったとなっています。
そういう由来を持つ神社ですから延喜式の式内社です。桃山時代には大阪城の鬼門を守る神として豊臣氏の庇護を受けて、現在の本殿は秀頼により再建されています。
左の写真は拝殿です。



枚方市の大阪市寄りの守口市も「まもりぐち」から付いたとされていることからも重要視されていた事が分かります。










牧野公園
平安時代、このあたりは交野ヶ原と言われ桜の名所でした。
今は住宅地となって桜は少なくなってしまいました。この公園は片埜神社の北側にあり、阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の首塚があります。


阿弖流為と母禮について
アテルイとモレが最近脚光を浴びるようになったのは高橋克彦さんの小説「火怨(かえん)」がブームに火を付けたからでしょう。
約1200年前、東北には朝廷に対抗する勢力がありました。蝦夷(えみし)と呼ばれた部族のことです。

胆沢の部族の長がアテルイです。陸奥(みちのく)の蝦夷をまとめ、朝廷軍を打ち破ったことがある勇将だったのです。
しかし802年、3度目の戦いの後、征夷大将軍坂上田村麻呂の前についに降伏したのでした。

田村麻呂は、アテルイとモレらを連れ上京、「蝦夷支配に活用できる人材」と朝廷側に2人の助命を嘆願したにもかかわず、河内国(大阪府枚方市付近)で斬首された。

「日本紀略」には、「田村麻呂等申す。夷大墓公阿弖利為(いのたものきみあてりい)、盤具公母禮(いわぐのきみもれ)等、種類五百余人を率いて降(くだ)る」と書かれています。アテルイとモレは田村麻呂に降伏したことになります。

その頃の都では長岡京の造営長官だった藤原種継が暗殺されるという事件があり桓武天皇の弟の早良親王が関係ありとして捕縛され死去し、その祟りと考えられる騒ぎや自然災害があり、更には京の造営や蝦夷遠征による財政逼迫が追い打ちをかける状態が続いていました。

坂上田村麻呂はそんな都にアテルイとモレを連れて都に帰ってきたのです。
「百官、表を抗(あ)げて、蝦夷を平ぐことを賀す」と喜びあう姿が記されています。
田村麻呂とアテルイには既に友情で結ばれており、
朝廷に「二度と戦わないと約束しているので、陸奥へ返してほしい」と必死にアテルイの命乞いをしています。

しかし、朝廷では勝った喜びと蝦夷に対する疑心暗鬼から、ついにアテルイは胆沢の景色とよく似た河内国宇山で処刑されました。
その宇山がここ牧野公園だと言われているのです。

写真にあるように高さ約60cmの自然石が北面してある。石には文字が刻まれてないのですが、地元では「エゾ塚」と呼ばれてきたということなのでこれをアテルイの墓と見る事は妥当なことでしょうね。



左上の写真が阿弖流為と母禮の墓?

上の写真はこの墓の上に咲いている桜です。
他の桜はまだ蕾のままでした。


左は記念撮影。





            第101回奈良市北部        第103回御室仁和寺





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