16年2月11日 第101回
    北国 BY 『音楽の部屋』様

奈良平城宮

今回は第101回目ということで第1回目に行ったところの平城宮とその周りに行く事にしました。
朝は寒かったのでしょう、天皇陵の周濠は氷が張っているような状況だったのです。しかし、我々があるくころは暖かく、風もほとんどありませんでした。

話を展開する前に予備知識を頭に入れておきましょう。
先ずは神代から人代に代わる頃の事です。
初代天皇は神武天皇ということになっています。始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)ですね。ところが第10代の祟神天皇も御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)の尊称を持っています。この二人が同一人物であるという説も否定は出来ないのですが、支配地域を拡大して統治していった天皇なのでしょう。
さて、記紀によるとこの祟神天皇のお父さんが開化天皇、子供に垂仁天皇なのですが、垂仁天皇の皇后が日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)です。
その孫が成務天皇です。成務天皇の異母兄弟に日本武尊がいて、日本武尊の子供が仲哀天皇なのです。そして仲哀天皇の皇后が気長足姫命(きながたらしひめのみこと)こと神功皇后(じんぐうこうごう)なのです。
言葉ではどうも分かりにくいので図にすると下図のような関係になります。本日訪れるのは下図の赤で囲った方の陵墓になります。



時は流れて奈良時代から平安時代のことになります。
言葉ではとても分かりづらいので図で示します。 藤原宮子は藤原不比等の娘ですし、上図と比べて藤原氏の影響がはっきりと分かりますね。
下図の赤で囲った方の陵墓にも行きました。






 予備知識はこれくらいにしておき本題に入ります。
今日は9時30分近鉄西大寺駅に集合しました。最初に訪れたのは駅から5分のところにある西大寺です。


西大寺

 創建は765(天平神護元)年、称徳天皇によって建てられました。東大寺は聖武天皇が建てたのですから実に親子で大きな寺を建てたものですね。
西大寺は今でこそそんなに大きな寺ではありませんが、創建当時は東限佐貴路除東北角喪儀寮、南限一条南路、西限京極路除山陵八町、北限京極路、つまり東西十一町、南北七町という大きさですから相当なものだったのでしょう。
あまり知られていないのですが創建当時のこの寺の名前は高野寺だったのです。この名前は後述する称徳天皇陵のところでも出てきますので憶えて置いてくださいね。
堂塔も110を超えたといわれていますが平安時代度重なる火災で創建当時の建物はほとんど焼失してしまい荒廃していきましたが、鎌倉時代に叡尊により再興されました。
戦国時代には再び火災で焼失してしまい、現在残っている本堂(重文、左写真)、愛染堂(重文)、四王堂(重文)などは江戸時代中期に建てられたものです。
下の写真は東塔址。
北西400mのところには再興主叡尊の墓である五輪塔がある奥の院があります。


西大寺の北門を出て寺の西側の道を北に向かいます。



秋篠寺

秋篠寺は何度か来ていますので今回は境内を通過だけしました。
実は拝観料500円が痛かったのですが(笑)

奈良時代末期、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。
この寺も火災に遭い伽藍は消失しており、雑木林の中に左のような建物跡の礎石を見る事が出来ました。
説明はなかったのですが、位置と規模から見て東塔の址でしょうか?




神功皇后陵  (狭城盾列池上陵 さきのたたなみのみささぎ)

秋篠寺から東に向かうと神功皇后陵があります。
全長275m、後円部径195m、前方部巾155mという大きなものです。
この日は暖かな日になったのですが、朝は寒く濠には下の写真のように氷が張っていました。
この皇后様の凄い事といったら、本当に凄い。この人が卑弥呼だという説もあるぐらいですから。

神功皇后は第14代仲哀天皇の奥さんなんですが、24才の時45才の仲哀天皇に嫁いでいるんすが恋愛感情なんてなかったのでしょうね。
仲哀天皇が九州の香椎宮にいて朝廷に反抗的な熊襲(くまそ)を討伐しようとした時に、神功皇后が神懸かりしました。
「西の方に国がある。その国は金銀をはじめ目のくらむような財宝がある。今その国をお前に服従させてやろう」と託宣しました。
ところが仲哀天皇は、「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっているだけだ」と託宣を信じません。
そして引いていた琴を止めてしまいました。
するとその神がひどく怒って「そもそもこの天下はそなたが統治すべきでない。そなたは黄泉の国へ向いなさい」と言った。
建内宿禰が「おそれ多い、天皇様どうぞ琴を弾いて下さい」と言うので、しぶしぶ弾き始めたところ、やがて琴の音が聞こえなくなってしまいました。
そこで、明かりを灯して見てみると既に亡くなっていました。
さらに建内宿禰が神託を求めると「すべてこの国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」とおさとしになった。

天皇を葬ったあと自ら男装して軍船を率いて朝鮮半島に渡り、神託に従って新羅国の征伐に出かけています。
こうして新羅国征伐の時には、すでに後の応神天皇を身ごもっていて、さらに臨月で産気づいていたのです。
出産時期を遅らせるために、腰に石を巻き付け、産気を鎮めていました。
凱旋して筑紫に着いてから応神天皇を生んだというからただ者ではないですね。
懐妊から分娩まで、実に十五ヶ月かかったことになります。
生まれた子供の応神天皇というのがというのが八幡神のことで全国の八幡宮に祭られています。
神功皇后の話は大体こんなところなのですが勿論このような話を信じるわけには行きません。
先ず神懸かりしたり、神託を下すというのはシャーマン的であり古代日本人の宗教観から出てきたものであろう。
応神天皇が15ヶ月かかって産まれたというのが真実であるなら当然に仲哀天皇の子ではありえないが、記紀が書かれた頃の天皇の正当性を主張するためにも応神天皇は仲哀天皇の子でなくてはならなかった。
そのために無理矢理事実を捻じ曲げて各地の伝承を合わせて作り上げられた話ではないだろうかという見方が大勢を占めている。

神功皇后陵はこれから行く成務天皇陵、日葉酢姫陵、称徳天皇と共に佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の西部を形成しています。
東部の古墳群よりは大きいのが特徴と言えるでしょう。



成務天皇陵  (狭城盾列池後陵 さきのたたなみのいけじりのみささぎ)

成務天皇は景行天皇の子供なのですが、異母兄弟にあの有名な日本武尊(やまとたける)がいます。(上部の系図参照)
日本武尊は日本中を駆け巡り大和朝廷の統治地域を拡大した人です。
遠征途中で薨去しなければ当然に次期天皇に成るべき人だったのでしょうね。
古事記には「若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、近淡海の志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐して天の下治らしめしき・・・・」とある。
高穴穂宮は滋賀県大津市坂本穴太(あのう)町にあったことは容易に想像が出来る。
成務天皇は国造、県主を定めるなど、地方行政組織を整備した天皇ですが日本武尊の働き無しには考えられない成果だったのでしょう。
古事記ではこの成果のみの記述で他の事は何も分かりません。

ですから成務天皇の皇太子は実子の和訶奴気王ではなく、日本武尊の息子を皇太子にしました。
この皇太子が先ほど登場した神功皇后の旦那様である仲哀天皇なのです。
写真の中央の木が茂っているところが成務天皇陵なのですが、
ヤヤヤッ!なんなんだ。この人また人は
この10年間の歴遊会の活動を通して、天皇陵でこれだけの人に出くわしたのは初めてのことです。

毎日放送、毎日新聞の主催なのか新聞を持っている人の記事を盗み撮りしてきました。

「平城山(ならやま)ラジオウォーク」なんだって、やっぱりマスコミの力は偉大ですね。
どんなに頑張っても我々ではこれだけの人を集める事ができません。

我々が話をしていると割り込んできてこの人たちに古墳の解説をさせられました。
その人は「やっぱり解説してもらうとよく分かる」と言って「次もお願いします」だって。



日葉酢媛命陵 (狭木之寺間陵 さきのてらまのみささぎ)

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)とは誰のことなのか?
第11代垂仁天皇の皇后様なのです。
古事記では氷羽州比売とか比婆須比売と書かれています。
垂仁天皇の皇后は初め沙本毘売命(さほひめのみこと 狭穂姫)ですが、沙本毘売命は心優しい皇后だったのです。ところが自分の兄にそそのかされて天皇を殺そうとしたのです。
結果自殺することになったのですがその前に、自分の代わりにと、異母兄の丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)の5人の娘(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)・竹野媛(たかのひめ))を天皇の妃にしています。その中で日葉酢媛命が皇后になったのですが、一番下の竹野媛は不細工だからという理由で返されたという話を聞いたことがあります。(ホントかな?)

もう一つこの陵で特筆しておかなければならないことがあります。
この時代天皇や皇后が亡くなった時、殉死の風習がありました。垂仁天皇はこれに心を痛めており悩んでいました。ここに登場するのが出雲の国の怪力男の野見宿禰です。
野見宿禰は相撲の始まりといわれた人で、奈良県当麻が相撲発祥の地として記念館があります。
野見宿禰は天皇に「土の人馬や種々の形を作り、殉死者の代わりにしては」と申し出て、はじめて埴輪が埋められたということです。
但し、円筒埴輪はそれ以前から古墳に使われていたし、人形埴輪が現れてくるのは日葉酢媛命陵より後のことになります。


左の写真は西側の括れ部分の造り出しのところです。

ここの遥拝所の前は非常に狭いのですが、「平城山(ならやま)ラジオウォーク」のおかげでこんなに人がいっぱいでした。



称徳天皇陵 (高野陵 たかぬのみささぎ)

称徳天皇は元はといえば孝謙天皇だったのです。重祚して称徳天皇となったのです。
それで孝謙天皇というとどういう人だったのだろう。
父は聖武天皇、母は光明皇后なのです。
聖武天皇といえば遷都につぐ遷都を行った謎の彷徨の天皇で東大寺(大仏)建立で有名です。
これに対して孝謙天皇は前出の西大寺を建てた天皇なのです。
名前からは判断できないのですが女帝です。
他の女帝と違うところは未婚のまま初めて皇太子となり即位した天皇ということでしょう。
つまり、臨時の繋ぎ天皇でなく天皇になるべくしてなった女帝なのです。
藤原仲麻呂を用い橘奈良麻呂の乱を鎮圧し、一度は立太子した道祖王を廃して、藤原仲麻呂の進言によって舎人親王の子、大炊王(おおいのおおきみ)を立太子させました。
758(天平宝字2)年、孝謙天皇の譲位により淳仁天皇が誕生しました。

761年孝謙上皇は病気になり、そのとき看病したのが禅宗僧「弓削道鏡」だったのです。
 病に伏せた孝謙上皇に道鏡は優しかった。孝謙上皇に道鏡を慕う気持ちが芽生えるのも自然の成り行きだったのです。
病気が平癒しても二人の関係は続き、そして上皇は道鏡を重用し始めたのです。

 淳仁天皇は道鏡を寵愛することを咎めたのですが孝謙上皇の怒りを買い、藤原仲麻呂も反発し乱を起こしたが破れ鎮定されました。
その結果、淳仁天皇は廃帝され淡路島に流罪となってしまったのです。

上皇は称徳天皇として再び皇位に返り咲き、天皇は愛人である道鏡を太政大臣(総理大臣)禅師の位を授けたのでした。
権力を欲しいままにした道鏡は称徳天皇に言いより、自らが天皇になろうと策略を巡らせました。
その結果、称徳天皇は皇太子をおかず、さらに皇統候補を排除する形で道鏡の皇位継承の準備が整ってきたのです。
そして宇佐神宮の御神託事件があったのですが、神託を聞いてきた和気清麻呂が持って帰った来た『君臣の別を明らかにし、皇嗣には皇統を立てるべし。無道の人は宜しく早く掃い除くべし』というものであったため、道鏡の企みは潰えたのでした。

ここで昼食時間になりました。
「ならファミリー」で飲み物、食料を調達して平城宮跡に歩きました。

手作り料理も持ち寄って先ずはビールで乾杯。仙道はこの日はにぎり寿司でした。


一部 梅も咲いており、今日は暖かな日でした。左上の写真は現在復元工事中の大極殿です。




平城天皇陵 へいぜいてんのう

 平城天皇は平安京に遷都した桓武天皇の子で安殿親王(あてしんのう)と言いました。
長岡京の造営責任者の藤原種継が暗殺された事件の関係で急に皇太子になってしまったということでその後天皇になってしまたという感じでしょうか。

皇太子の時、藤原薬子(藤原種継の子)の長女を妃としましたが、この時薬子は娘に付き添っていっしょに安殿親王のもとに来てしまいました。
これが間違いの始まりか、薬子は娘の世話をするつもりだったののでしょうけど、女性として脂の乗り切っているときだったのです。
安殿親王はその色香に迷ったのか、親子共々関係を持ってしまったのです。

この醜聞を知った桓武天皇は激怒し、薬子を宮廷から追放したのです。
806(大同元)年、即位して平城天皇になったのですが、病弱だったため3年で嵯峨天皇に譲位しています。
桓武天皇の死後平城上皇は再び薬子を呼び戻しています。
40を過ぎた女性の艶気にはかなわなかったのでしょう。
 呼び戻された薬子とその兄の仲成はこれがチャンスとばかりに権勢をふるうようになってきたのです。
狙っていたのは天皇への重祚復活だったのでしょう。
上皇は平城京に行き、そこに宮を作 って住むようになりました。
上皇の復権を狙う薬子、仲成や平安遷都反対派の旧勢力が集まってクーデターを計画します。
この動きを無視していた嵯峨天皇もほっておくわけには行かなくなってきます。
810年9月6日、平城上皇の「平城京遷都」の詔についに嵯峨天皇が動きました。
関所を封鎖し、9月10日に藤原仲成を捕らえ、薬子の内侍司の長官の地位も剥奪してしまいました。
結局、坂上田村麻呂が討伐軍を編成して12日にはあっさり収束してしまいました。
上皇は剃髪して仏門に入り、薬子は自殺で幕を閉じたのです。

平城宮の大極殿の裏の道を渡るとき「平城山ラジオウォーク」の人たちと出くわしました。

一体何人の人が参加したのでしょうね。       聖武天皇陵に向かう途中に法華寺がありました。昔は無料で
                                境内に入れたのですが、今は有料になっていました。





聖武天皇陵、光明皇后陵 (佐保山南陵 さほやまのみなみのみささぎ)


左とその下の写真は聖武天皇陵、



下の写真は光明皇后陵
 古代史の中でも難解なのはこの聖武天皇にまつわる遷都に関する行動でしょう。
聖武天皇は平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と5年間に4度も遷都を行ったのです。

 平城京から恭仁京への遷都は740(天平12)年の事でした。
この頃の社会の様子はどんなっだったのでしょう。710年元明天皇の時平城京に遷都があって奈良時代が始まったのはよくご存じの通りです。
そして奈良の文化が花開いていったのでした。古事記や日本書紀が完成もしました。
政界では藤原不比等が絶大な力を持っていました。その不比等も720年63才で亡くなります。
もう一方の雄は長屋王でした。藤原氏とは対立関係にあったようです。その長屋王も729年謀反の企てありということで自殺に追いこまれてしまったのです。

この企ては不比等の4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)らでした。
長屋王亡き後、藤原氏の天下となり、不比等の子である光明子は聖武天皇の皇后となったのです。

聖武天皇と光明皇后は仏教を篤く尊び、仏教に鎮護国家の思いを寄せていたのでしょう。
疫病の流行と飢饉に襲われる中、737(天平9)年に釈迦三尊像の造営と大般若経の書写が命じられたのです。

折しも藤原氏にとっても重大な危機に見舞われたのであす。つまり、前出の藤原4子が相次いで亡くなったのです。
代わって政権のトップに立ったのは橘諸兄であり、臣下で力を持ってきたのは吉備真備や玄ムである。
740年、前出の藤原宇合(うまかい)の子 藤原広嗣が九州で挙兵しました。
朝廷での権力が藤原氏から橘氏に移り、吉備真備や玄ムがもてはやされた事に対する不満からだったといわれています。
反乱は9月3日に始まり10月23日に広嗣が処刑され終息したのですが、ここで聖武天皇の不可解な行動が起きたのです。
この行動が広嗣の乱に密接な関係があると歴史書には書かれていますが、仙道はそうは考えていません
確かに、不可解な行動のトリガーになっていることは十分考えられるのでそのことは否定はしません。

不可解な行動とは
740年10月下旬広嗣の乱の終息の情報が平城京に伝わっていないときに、何故か伊勢に行幸してしまったのです。
(んっ!敵前逃亡?いや、そうではない?)
聖武天皇は11月12日三重県の現在伊勢自動車道の一志嬉野インター辺りで広嗣処刑の報を聞いたのです。
伊勢に行くか、平城京に戻るかと思いきや桑名、大垣、関ヶ原、大津へと進んでいくのです。
そして、最後はなんと恭仁京遷都を決めて12月15日に恭仁京に入ってしまうのである。
恭仁京遷都については仙道のニュースコーナの恭仁宮跡Uで取り上げているように橘諸兄の影響が窺えるのです。

そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
一体どれぐらいの人が都や国分寺の建設に直接携わったのでしょうね。
742年も造営は続きます。
この年の8月、また離宮を造ることになりました。この離宮が紫香楽宮なのです。

聖武天皇は紫香楽に742年に2回、743年に2回行幸しています。
4回目の行幸は7月末から11月初めという長期滞在だったのです。この間の10月15日には大仏造顕の詔を出しています。19日には、寺地を開き、行基が弟子を率いて工事に駆けつけています。

聖武天皇の思い入れもただごとではない。
しかし、出費もかさみついには恭仁京造営も12月にはストップせざるを得なくなってしまいました。

ところが、明けて744(天平16)年、都を難波京に移すという話がでてきます。
百官人と市人に対して都を恭仁・難波どちらがよいか聞いたところ、官人市人とも恭仁京が良いということであった。
にもかかわらず、閏1月聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまったのです。
ただ、分からないのはこの遷都が聖武天皇の意思なのか、取り巻きの貴族の意思なのか不明です。
多分後者と思うのですが、証拠はありません。
後者と考える理由としては翌月2月24日聖武天皇がまたまた紫香楽に行ってしまったという状況証拠からなんですが、これも移り気な天皇の我が儘と考えれば何ら反論出来ないのです。
ただ、聖武天皇が紫香楽に向かった翌々日の26日橘諸兄が難波宮を皇都とする勅を読み上げていること、大盾と槍が難波宮に立てられてしまったという事実をどう解釈すればよいのでしょう。

聖武天皇が移った紫香楽宮ではさらに都の建設は進んでいきます。そして大仏建立の詔を出して1年あまり経った11月13日には大仏の体骨柱を立てています。
続日本紀の11月13日の条に「甲賀寺に初めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇、親ら臨みて手らその縄を引きたまふ」と記載されています。
そして、11月17日に前の元正天皇(元正太上天皇)が難波宮から紫香楽宮に移りました。
元正太上天皇といえば仙道が恭仁宮跡Uで発表したように恭仁京の大極殿の内裏西地区に居た人物ではないでしょうか。
聖武天皇、元正太上天皇の二人がそろえば実質都は紫香楽ということになるでしょう。
そして、翌正月元旦(745年1月1日)大盾と槍が立てられ紫香楽は名実共に皇都となったのです。

ところがである。
745年5月5日聖武天皇は紫香楽を発ち、5月6日恭仁宮に立ち寄り5月11日に平城京に4年半ぶりに戻ってしまったのです。
そして再び都が平城京となったのである。
この5年の間だの聖武天皇の行動をどう解釈すればよいのだろう。

次は最終目的地開化天皇陵に向けて出発です。



開化天皇陵

日本書記によれば、開化天皇は孝元天皇の第二皇子。
欠史八代の天皇の一人で孝元57年に父帝の役を受けて即位し都を春日の率川宮に遷すとある。開化6年に父の妃であった伊香色謎命(いかしこめのみこと)を皇后とし在位61年にして111歳で薨去しました。
写真が葬られたという春日率川坂本陵です。




今日の史跡巡りはここで終了といたします。




             第100回山科記念回   第102回大阪府枚方市



SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO