考古学に対する意見

藤村新一の捏造事件について本HPの掲示板にも意見が寄せらてきました。
ここで、素人なりに現在の考古学について思うことを述べさせていただきます。
決して、考古学そのものを否定しようというのではないことを誤解がないように先ず言っておきます。
素人ですから無茶苦茶言っているとか間違っているところもあるかと思います。ご意見をいただけれ
ば幸いです。
考古学といってもきっと色々な分野があって例えば古代の文献から当時の史実、生活様式、文化等
を研究するというような分野もあるのでしょう。しかし今から言う考古学とは捏造事件で揺れているカ
テゴリーのことを対象にしています。


疑問に思うこと
 埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡ですが旧石器時代の原人の生活遺構だとされ、今回の捏造事件発覚
後遺構は否定され、ただの自然地形とされた。
捏造は石器だけであったはずである。にもかかわらず、柱跡が発見されたり溝が巡っているとされた
りし住居跡とか祭祀跡とか論議されていた。
これはいったいどういうことなんだろう。考古学は科学とし確立しているにもかかわらず、自然地形が
生活遺構と断定してしまうというのはそんな薄っぺらなものだったんだろうか。
この事件に対して日本考古学協会委員会が発表した文書の中に『考古学は、遺跡の発掘調査によっ
て確認された事実関係を基礎とする科学です。』という一文があります。
石器捏造は事実あり、これの影響を受けたとは思うが科学を標榜する限り、こういった間違いを起こ
してはいけない。
何故、こんな事になるのだろう。


遺跡発掘に対する目
 発掘した遺跡が何なのか、いつの時点で決められるのだろう。古墳を発掘するとき初めから古墳を
発掘するという姿勢で発掘する。寺院跡を発掘するときは寺院跡として発掘する。それはそれでいい
のかも知れない。でもそれだけでいいのだろうか。大阪府高槻市の今城塚古墳を発掘した際鉄砲玉
が発見された。これはどう解釈するのだろう。
一応、織田信長が摂津攻撃の際、利用した城だった可能性が指摘されている。これが鏃だったらど
うなっているだろうか。
初めから先入観でもって発掘すれば結論として出てくるのは初めから推測されていた範疇を超えるこ
とができないのではないだろうか。小鹿坂遺跡の結論は端的にこのことを表している。
必要なことは前述の日本考古学協会委員会が発表した文書の中に『新たな発見をめぐって、資料の
公開と多様な意見の研究者による相互批判が不十分ではなかったのか、本協会としても厳しく反省
する必要があると受け止めています。』まさにその通りと思います。


科学的証明とは
 (A)論理が不明でも再現性があること、(B)再現性が無くとも明らかに理論で証明できること、
(C)再現性もなく論理も明らかでなければ結果や証拠が地域や時間を問わず多数あることであると
思うのです。
考古学は微妙な部分があると思います。しかし、物理学や地質学等の他の科学も応用できる部分は
多くあります。でも十分ではありません。
では科学的に証明できないものについては何を持って事実と証明できるのでしょう。それは一定の手
続きをもって明らかにできたものは事実と認識してもよいというルールを作ることです。
日本考古学協会委員会が上述のように資料の公開と相互批判を取り上げているが、これもルールの
一つでしょう。


足りなかったものは
 産業界でISO何号取得企業や品質検査が十分に行われている企業には、社内規定とは別にここま
でしなければならないのかと思うようなマニュアルが事細かく作成されている。
性悪説の立場に立っているのか社内の人間であっても、信頼していないというような規則が多いものです。
それでもこれによって品質の高い製品が作られている。
科学的に証明でき辛い分野についてはこのマニュアルのようにルールを作成する必要がある。
今の考古学について2001年10月31日の朝日新聞に以下の文章が載っていた。『学会内での共通
した記述方法は、確立されていない。大学や地方によって異なる流儀が脈々と受け継がれており、同じ
遺物や遺構を実測しても、全く違う図面ができあがる』、『他の研究者の現場では、発掘方法の批判を
しない』。
これでは発掘者の思いこみが優先されてしまっても当然ではないでしょうか。
発掘方法のマニュアルとでもいうものでしょうか。この作成は専門家の方にお任せするとして、素人として
ルールの中に入れて欲しいことは規模にもよりますが、「発掘過程の随所に第3者機関の査察及び意見
を受け容れること。同一現場であっても2者に分けて発掘すること。」です。









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