九州旅行記                          17年8月17日 他

    ただ、ちょっと戯れに、ボクが歴史家になったなら、
    古き、時代の九州を覗いてみたい。
    そんな思いに駆られて出かけてしまいました。


 京都からは新幹線で博多に向った。
お会いする方への手土産を持って、夢を膨らませての到着。
これからどんな旅が始まるのだろう?


先ず、お邪魔するというか、ご挨拶に伺わなければならないお宅を訪問することにしていた。
連絡は前もってしておいたのだが、地下鉄の駅まで迎えに来てくれるという。
それでは申し訳ないので、地下鉄の駅からはタクシーで行くことにした。
タクシーに乗って気が付いたこと。行き先の住所を知らないのだ。
確か、結婚式場が近くにあったはず。その名前を思い出そうとしたが、名前が出てこない。(オイオイ、運転手が何処へ行けちゅうねんという顔をしている)

取り敢えず、海のほうへ行ってくれ!で動き出したのだが、実際どこへ行けばエエネン。

その時☆閃いた!☆観覧車が近くにあったはずや。
「観覧車があるやろな」この一言で物事が巧く流れ出した。
関西弁とは便利やなと思う瞬間だった。(押しが強い)
雷山観音





 挨拶が済むとその家の奥さんが観光に連れて行ってあげようと言う。
ありがたいことだ。
行き先は雷山千如寺大悲王院(福岡県前原(まえばる)市)
 成務天皇48年(178)、雷山の地主神である雷大雷現の招きで渡来した天竺霊鷲山の僧清賀上人の開創伝えられている。

とはパンフレットに書かれている案内文だが、成務天皇自体の存在が疑われている時代のことであるから鵜呑みにする訳には行くまい。
それよりも、2世紀、3世紀の頃と言えば『魏志倭人伝』に登場する伊都国がこの前原市にあった事は、三雲南小路(みくもみなみしょうじ)、井原鑓溝(いわらやりみぞ)、平原(ひらばる)の三王墓出土品から見てもほぼ間違いがないだろう。

その年代の一致に興味をそそられる。
前原市の隣の志摩町についても大陸や朝鮮半島との交易を物語る出土品があり、糸島半島という地名が、伊都国と志摩からできたと思うのは早計だろうか。
右は樹齢400年の大楓(県天然記念物)で秋の紅葉は素晴らしいものだろうと想像できる。

下の石仏は五百羅漢で、新しいものではあるが表情など豊かで興味をそそられる。

本来、ここには本尊の十一面手千眼観音菩薩(通称雷山観音)の写真を貼りたいのだが、撮影禁止だったためお許しいただきたい。
お坊様の説明の後、雷山観音の直前まで進んで見ることが出来るのは他の寺院にはないサービス?だ。


 千如寺の近くにはマキ窯で焼く独特の作風が人気を呼んでいる窯元があった。
製作者は何と元プロ野球選手と言うから驚きだった。
作風は灰緑系統の落ち着いた感じの作品で、花器、湯飲み、皿など数多くが展示販売されていた。

ここで、一緒に行ったご婦人に夫婦用に湯飲みを買っていただいたことを報告しておきます。


 前原市まで来たのでここは糸島半島をドライブすることにした。 盛夏は過ぎたとは言え日差しはまだまだ強い。
ドライバーのご婦人と二見の海岸で休憩をすることにした。 このご婦人は中々のツワモノ。 
今日は大人しい運転をしていただいていたが、噂では高速道路で○○キロオーバーでオービスを光らせたこともあるらしい。
左の写真の左側のパラソルの奥に席をとった。 右の写真はその席からの写真。 親子連れのシルエットが美しい。(恋人達ではない)
無口な?我々の会話は何故か玄海島の地震と津波の恐怖の会話だった。



香椎宮
 この「カシイ」という響き。
私のような関西人にとって奇異に感じるのである。
以前、金印が発見された志賀島に行った時も、海の中道でキス釣をした時もこの香椎を通って行ったのだ。


古事記には「故れ、天皇、筑紫歸訶志比宮に坐しまして、熊曽國を撃けたまはむとせし時に、天皇御琴を控かして建内宿祢大臣沙庭に居て、神の命を請いまつりき。是に大后、歸神(かむがかり)して言教え覚したまひらくは、『西の方に國有り。金銀を本めて、目の炎燿く種々の珍宝其の國に多在るを、吾今其の國を歸せ賜はむ。』と詔りたまひき。

日本書紀には「時に、神、亦皇后に託りて曰はく『天津水影の如、押伏して我が見る國を、何ぞ國無しと謂ひて、我が言を誹謗りたまふや。其れ汝王、如此言ひて遂に信けたまはずは、汝は其の國を得たまはじ。唯今皇后始めて有胎ませり。其の子獲たまふこと有らむ。』
九年(200年)春二月癸卯朔、丁未(五日)天皇忽痛身みたまふこと有りて、明日崩りましぬ。」


と有名な?話のあったところ。
その前後を私なりに曲げて解釈すると
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后。24才の時45才の仲哀天皇に嫁いでいる。
仲哀天皇は反抗的な熊襲(くまそ)を討伐しようとして香椎までやってきたとき、神功皇后が神懸かりした。
「西の方に国がある。その国は金銀財宝がある。今その国をお前に服従させてやろう」と託宣した。
 ところが仲哀天皇は、「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっているだけだ」と託宣を信じない。
そして引いていた琴を止めてしまいました。
その神がひどく怒って「そもそもこの天下はそなたが統治すべきでない。そなたは黄泉の国へ向え」と言った。
武内宿禰が「おそれ多い、天皇様どうぞ琴を弾いて下さい」と言うので、仕方なく弾き始めたところ、やがて琴の音が聞こえなくなった。
そこで、明かりを灯して見てみると既に亡くなっていました。
さらに武内宿禰が神託を求めると「すべてこの国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」とおさとしになった。
天皇を葬ったあと自ら男装して軍船を率いて朝鮮半島に渡り、神託に従って三韓の征伐に出かけて凱旋した。





神功皇后は大和へ帰還後、古宮で亡くなった仲哀天皇の神霊を祭るために建てられたのが香椎宮の起源とされている。

綾杉は神功皇后が凱旋した折、三種の宝(剣と鉾と杖)を埋めその上に鎧の袖の杉枝を挿し「とこしえに本朝(みくに)を鎮め護るべし」と誓を立てたものが大木となったもの。
このとき、杉枝を逆さまに植えたので、落雷などで焼けても根元から若い芽が生えてくるという。
(ハッキリ言って、生物学的に言って意味不明)








香椎宮の奥に「仲哀天皇大本営御旧蹟」の石碑がある。
仲哀天皇は、ここで神々のお告げを聞いて、崩御した場所らしい。
大本営というのは、ここが天皇御臨席のもと熊襲征伐の軍議を開いた場所だからである。


右側の小屋のような建屋は前述の武内宿禰が掘った「不老水」という霊泉がこの中に湧く。
武内宿禰は、五代の天皇に仕えたという人物で400歳まで生きたと伝わっている。

さらに驚くべきはこの不老水の近くに武内宿禰の御子孫の方がお住まいになっていると言うから、もし、事実であるなら天皇家よりまともな家系かもしれない。


元寇防塁











この写真は西新(にしじん)と百道(ももち)の元寇防塁です。
他にも生の松原元寇防塁等大きなものが残っています。

元の襲来があったのが1274年だった。その2年後、執権北条時宗が再度の来襲に備えて全九州の武士に命じて築かせたものである。
高さ2m、幅2.5m、長さ20kmを6ヶ月で築きあげたと言う。
1281年の弘安の役の時には、この防塁が大いに役に立ったのだった。



長浜ラーメン




 夜になって、今夜泊めていただく家の方と博多駅で待ち合わせた。
寿司でも食べようと言うことで両者とも知らない店に入った。
入った瞬間、「ヤバイ!」
これはわれわれ貧乏人しか分らない一種独特の感覚なのだ。
店が綺麗、板前が沢山いる、仲居さんの着物とヘアースタイル、品書きがない、値段が分らない。
何を注文していいのか分らない。仕方がないので「お勧めの刺身」と酒を注文。
チビリチビリ飲めばいいものを、酒好きだからグイグイと。
連れも気を使って寿司もほんの少し。
 腹も膨れないまま、「せっかく福岡に来たんだから長浜ラーメンを食べなくっちゃ」なんて言い出してこの店を去った。
因みにというか参考までに値段は2人で20000円だった。
クッソー、ボッタクリやないか!!(激怒)
1晩目で4日間の小遣いが跳んで行ってしまった。

 刺身と酒だけでは腹が膨れる訳がない。
ありがたいことに長浜ラーメン発祥の店はこの値段。
店はプレハブだけど、レッキとした老舗。
人気のある店らしく、タクシーに店の名前を言っただけで
ここに到着。駐車場も満車だった。

 ありがたい。最初からここに来ていれば気分良く、替肉と酒でほろ酔い加減。
最後はラーメンを食べても1500円で足りるではないか。



大宰府


         太宰府天満宮参道

お腹が空いてきたけど早朝過ぎて、お店が開いていなかった。





 翌日は早朝から一人で大宰府へ。
有名だから解説は省略。


            太宰府天満宮

            観世音寺
663年の白村江の戦いは有名な話。
661年斉明天皇、中大兄皇子らは難波津を発った。
しかし、斉名天皇は長旅の疲れか、暗殺なのか急死してしまった。
天智天皇が亡くなった母親である斉明天皇の菩提を弔うために発願された寺が観世音寺で、発願から80余年もの歳月の末、746(天平18)年に完成した。


 戒壇院とはこれまた超有名な鑑真和上が開山している。
奈良時代、聖武天皇の頃、僧侶になるためには戒を受けなければならなかった。
当時、奈良の東大寺と下野の薬師寺とこの寺が三大戒壇となっていた。

            戒壇院

            大宰府政庁跡


櫛田神社




 開創年代は、社殿によると伊勢国松坂の櫛田神社を、当地の産土神として勧請したのがこの神社の始まりであるとされている。
したがって、祭神の大幡主神(おおはたぬしのおおかみ) が正殿に祀られ、同時に左殿の天照大神も祀られたようだ。
さらに、右殿は藤原純友の乱が起こったとき、京都の八坂神社から素戔嗚神を941年勧請して祀ったものである。

現在、博多っ子からは「お櫛田さま」とも呼ばれており、不老長寿、商売繁盛の神として信仰を集める。

祭礼は5月3日の博多どんたく、7月15日の博多祇園山笠、10月23日の、博多おくんちなど全国に知られている有名なものである。
私は京都の人間だから祇園山笠は気になるところだ。
祇園祭は素戔嗚神に奉納するものでその点では京都の祇園祭と同じである。
ただ、山笠と言ってもタイムを競う「追い山」は1番山笠から8番山笠まで。
これらの山笠のスタート地点は櫛田神社である。
9番山笠から16番山笠は「飾り山」と呼んでこちらは専ら観賞用なのである。



さて、ここで押さえておきたいのは、豊臣秀吉とこの神社の関わりである。
戦国時代にはいくら神社と言え、荒廃は免れなかった。
豊臣秀吉は平安京の短冊形町割りによる復興と同様、博多復興にも力を注いだのだった。
商業地としての重要性を見抜いていたからだろう。
だから現在の社殿を建立したのも秀吉なのだ。

そして、この櫛田神社境内に残っている博多塀。
これも博多の復興の時、戦国時代に荒れ果てた町の瓦や石の再利用を行ったものだ。
下の写真は丁度博多塀の断面が写っていましたので掲載しておきます。

            川上音次郎の寄進碑


神社の門を出ると博多の町家「ふるさと館」がある。
明治二十年ごろの旧三浦住宅を移築復元したもので明治の博多のイメージがわいて来る。
資料館や土産物屋となっているのであるが、私の入った博多織の実演ではこの方の説明を1時間(頭に残っているのは5分ほど)ほど聞かせていただきました。


 櫛田神社裏のアーケードのある商店街を抜けると川上音二郎の銅像がありました。
昼間の明るい中、通行人の目を気にしながらこんなポーズで写真を撮りました。

     「アホなオッサンがいるもんや」
     メゲズに頑張りました。

境内にある常設飾り山笠

門の横にある大銀杏
恵蘇八幡宮




大宰府で観世音寺に行ったのであれば、朝倉町の恵蘇八幡宮に行かねばなるまい。
何故ならば、斉明天皇は朝倉町に橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を築きましたが、そこで薨去となった。

中大兄皇子は恵蘇八幡の裏山にモガリの宮を建て喪に服したのである。
左の写真は斉明天皇の墓と言われている恵蘇八幡宮裏の前方後円墳である。
朝倉町と言えば、もう一つ有名なのは水車の町。
この川の水を田んぼにひくための装置ですが、
2連、3連というのが風情を保っている。



飯塚市





 ここはどこかと尋ねたら(ベンベン)
やってきたのは飯塚市。

今回の旅行の目的の一つ嘉穂劇場があるところだ。
それにもう一つの目的である王塚古墳もこの近くにある。
古墳の案内をお願いしていた郷土歴史研究家で近代大衆民芸伝承者の方と午後からお会いすることにしていた。

午後のお会いする時間までにはまだ時間が十分にあったので一人で町を歩くことにした。

飯塚といえばその昔、炭鉱で栄えたところで、国鉄時代は現在のJRの他にも石炭を運び出す引込み線が多数あった。
その路線に沿って歩いてみたが今はその面影すら発見することは出来なかった。
ふと、見上げると高台の上に人が集まっていた。
何気なくその高台に登ってみると許斐(このみ)神社とい神社があって、ご近所の方なのだろう、丁寧に掃除をされていた。

昔ながらの信仰が今も続いているのだろうか?
小生の住んでいるところでは公園の掃除すら町内の役員のみが掃除をするという住民意識とは全く違うように感じられたのである。

この高台には天満神社や猿田彦神社などもあり地域に根付いているのが羨ましくも思えたのである。
左下はこの辺りを通っている長崎街道でその昔、参勤交代や幕末の七卿落ちで、龍馬や慎太郎、真木和泉らも通った街道なのである。
下の写真は旧飯塚市街地の商店街の路傍で売られているものを撮ってみたもの。





嘉穂劇場








 お昼前に見てみたいと思っていた嘉穂劇場に到着。
本日は公演が無く、中を見学できたのは幸いだった。
少し嘉穂劇場について触れておこう。

全国の芝居小屋で最も有名なのは何と言っても旧金毘羅大芝居(金丸座)だろう。
しかし、この嘉穂劇場も忘れてはならないと思う。

大正11年 1月「中座」として開場。
昭和 3年 5月全焼により消失
昭和 4年 5月中座再建・新築落成するも
                翌年7月台風により倒壊
昭和 6年 2月嘉穂劇場として再建、落成式
平成14年 3月飯塚市登録有形文化財指定
平成15年 7月九州北部豪雨により水没休業となる
平成16年 9月復旧工事完成平成柿落としとして
               「全国座長大会」を開催
平成17年8月サントリー地域文化賞受賞

なぜこの劇場に興味を持ったのかというと明治末期から昭和初期にかけて筑豊地方には30を超える劇場が建設された。
この飯塚市内にも栄座(西町)、真富座、第一大吉座(幸袋)、交友座(幸袋)、新世界館(伊岐須)という劇場があった。
あたかも劇場の数が、石炭産業の反映と衰退の尺度であるかのようではないか。
現在、これらの劇場の中で営業を続けているのはこの嘉穂劇場のみなのである。
平成15年の水没で筑豊地方の最後の大衆芸能の灯火が消えようとした。
これまで伊藤さん個人で運営を支えてこられたのだが、この災害ではどうすることも出来ない。
そんな中、全国のファンや、多くの芸能人、企業に支えられ、「特定非営利活動法人(NPO法人)」としての再建の道が開かれたのは一ファンとして嬉しくて仕方がない。

中村勘三郎は襲名を前にして16年、この劇場で特別公演をして「歌舞伎の原点がここにある!」という言葉をのこしている。

この劇場に出演した私の知っている芸能人を調べてみますと松平健、美空ひばり、北島三郎、五木ひろし、森進一、八代亜紀、石川さゆり、三波春夫、村田英雄、和田アキ子などの名前が見つかった。
これだけでも凄いことだし、如何に重要な劇場かということが分かる。

それと毎年9月に開催される恒例の「全国座長大会」も見逃せない出し物だろう。

   間口27m、奥行き42m、収容1,400人

    たて看板も昭和の郷愁を誘います。

 この舞台と客席の空間をどう思います?
舞台の幅は18m。柱1本もありません。
これが木造と言うから、それだけで感動していまう。

上手の桟敷席。その前には舞台に続く花道が見える。

奈落の底への入口。階段は手前にあって写真には写っていません。

              綱元
この綱で吊り物や照明器具を上げ下げします。
ご覧のように電動じゃなく人力で行われます。

回り舞台の下はこのようなローラーで支えられています。
舞台を回すには「力棒」12本を人力で押して回すのだそうです。

回り舞台の迫(せり)、ここから舞台にせり上がって
登場するのです。

花道の下、舞台下の奈落にも通じている。

             楽屋部屋



復興に協力された方のお名前が。
有名人のお名前がずらり並んでいます。












川島古墳群




 我々のよく知っている『魏志倭人伝』。卑弥呼の死と時を同じくして大和を中心に巨大な前方後円墳が造られ出した。
誰もが知っている邪馬台国、でもその場所すら未だはっきりしない。
文字の無かった我が国の古代。しかし、莫大な時間と労力を費やして築造された古墳は文字にも勝る多くの手がかりを残してくれているのである。
今回訪問した筑豊地方にはその多くの古代の手がかりを窺がわせてくれているのだ。





川島古墳は、昭和63年(1988)道路改良工事中に古墳が発見され飯塚市教育委員会で発掘調査を行ったところ、貴重な装飾古墳であることが明らかになった。
市内で唯一の装飾古墳で、平成4年(1992)に県指定史跡となっており、6世紀末頃に築造された古墳で、当時この一帯を支配していた豪族の墓と考えられている。

特に左の写真の11号墳(エアコン付き)は直径約15mの円墳で、内部には前室と玄室の2室をもつ、全長7mの横穴式石室が築かれている。
石室には花崗岩が使われて、玄室の奥壁には巨大な鏡石をおき、その上に石棚がある。

鏡石には黒色に見えるが最初は緑または青色で人物や円文等を描いている。
前室などを中心に金環、ガラス小玉、丸玉、銀製空玉、琥珀棗玉、碧玉製管玉、馬具(轡、金銅製雲珠、辻金具)、・大刀、刀子、鉄鏃、須恵器・土師器等が出土した。

11号墳の公開は春秋の2回だけであるので、今回の訪問では内部を見ることは出来なかった。

       (装飾図及び説明は現地案内板から)


            10号墳

               2号墳








王塚古墳

 昭和9年のこと、採土工事中1本のツルハシがポッカリと穴をあけた。(CODIM王塚パンフレットより)
王塚古墳は6世紀中ごろに作られた2段築成の前方後円墳だ。
現在は下の写真のように整備されているが、前方部は削られそこには民家が建っている。
大きさは推定、全長86m、後円部径56m、前方部幅60m、後円部高9.5mという大きさだ。














 17年8月28日大阪府高槻市の今城塚古墳で『千人で運ぶ大王の石棺』というイベントがあった。
古代史好きの私は参加してきたのであるが、この今城塚古墳というのは継体天皇の墓であるというのが古代史家の定説となっている。

その継体天皇21年(527)に北九州地方で磐井の乱が発生した。
大和政権が朝鮮半島に出兵をしようとしていたときのことである。
この軍事計画に対して、筑紫国造磐井が反乱を企てたのである。
これに対して継体天皇は物部麁鹿火(もののべのあらかい)を差し向け反乱を平定した。
大和政権が朝鮮半島に進出するにあたり、筑紫の人民から搾取を繰り返し、それに耐えかねて人民が反乱を起こした事件と捉えられるが真相は分らない。
筑紫国造磐井の墓は八女市の岩戸山古墳であるが、
王塚古墳はこの乱後に大和政権によって支配を任されていた人物の墓ではないだろうか?

造られた時期は磐井の乱を平定した継体天皇の子供である欽明天皇の時代と推測しているのですが。







下の写真は王塚古墳の隣にある王塚装飾古墳館(コダイム王塚)にあるレプリカですが、忠実に再現されており実に楽しいものである。
この古墳の最大の特徴はご覧のように石室に色鮮やかな装飾が施されていることだが、奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画とは、その手法において全く異なるものだ。
石室は遺体を納めた玄室と、その手前の前室に分かれている。
大きさは 全長    6.75m
      前室幅   2.80m
      前室長   1.97m
      前室高   2.17m
      玄室幅   3.00m
      玄室長   4.43m
      玄室高   3.72m
この写真は前室奥側で5頭の騎馬像が描かれている。
この騎馬像は黒馬と赤馬で馬の体には面繋(おもがい)、手綱(たづな)、尻繋(しりがい)、鞍まで描かれており農耕種族でなく騎馬種族の流れを汲んでいるものと思われる。

こちらは玄室で正面に2体用の石枕がある石屋形(棺床)が据えられていた。
石屋形の上方には、奥壁から1枚の分厚い巨石が石棚状に突出してる。

これは盾であろうか。となればこのように並べて描かれてあるということは、被葬者の強大な権力を誇示しているように思えるのであるが?

石屋形の前面には解説によれば、『1対の灯明台とおぼしき板石が立てられています』とあったが、
灯明台と言うよりは被葬者を称えるための製作者の意匠であろう。

出土品の写真であるがやはり馬具の轡 (鏡板)なのであろう。

やはりこれも馬具で、辻金具と杏葉(ぎゅうよう)。
今回の案内をお引き受けくださいました郷土歴史研究家の方と古墳の前で記念撮影を行いました。





(掲示板には引っ付き過ぎとのご批判をいただきました。)                 (大笑)

ゲゲゲの鬼太郎の目玉オヤジかと思いきや双脚輪状文というらしい。

説明では「意味は不明ですが、うちわに長い柄をつけて貴人にかざすさしばをかたどったものであるとの説もあります」となっていた。





竹原古墳









 北九州地方の古墳の特徴として、1つは装飾石室が多くあること。そしてもう一つは玄室奥壁上に石棚が架かっていることだろう。
装飾と言っても奈良の高松塚古墳のような写実的な絵でなく、デフォルメされた図柄が多い。
しかし、ここ竹原古墳は一味違うのだ。
直径約18m、高さ5mの円墳で、石室の構造は複室の横穴式石室だが、前述の王塚古墳のようなデフォルメされた文様ではなく、写実的な感じのする絵画とも言うべきものであった。
副葬品としては勾玉、ガラス丸玉、金冠、轡、杏葉、辻金具、鉄鏃、鞘などである。
古墳の入口はこのように施錠されたアルミ製のドアであるが、若宮町の教育委員会に連絡をすれば、古墳下の土産物店で鍵を貸してくれます。
他にも説明用のカセットデッキを貸していただいてこれには苦笑しました。

前室と玄室の間の通路の両側には玄武(左側)と
朱雀(右側)の絵が描かれているのですが、よく分りません。

団扇のような形をしたものは翳(さしば)という。
日除けに用い古代豪族の儀式や行列に使用された。中国では漢代から使用され、日本では弥生から使用された。
上の動物は龍で赤い火を吐き、爪を尖らせ、尾を逆立てている。四神の青龍とも言われている。
その下は馬と馬を牽いた人物で中近東の人物をイメージしました。

左の写真が実際の玄室の奥癖の壁画の写真です。
分りにくいので、前室の前にあった説明用の絵も一緒に
載せておきます。




宗像大社






 私がまだ若い頃だった。東南アジアの国々を回っていて何日か経った時のことだった。高温多湿と何だか知らないけど街中に漂う匂いに食傷気味になってしまっていた。
その時だった『宗像』の文字が目に飛び込んできたのは。
ありがたい。今夜はこの店で日本食にありつける。
この夜は味噌汁、冷奴、納豆、漬物、さわらの西京漬けを食べたのだった。この感動は今も忘れない。

その時からだろう。宗像ってどんなとこだろう?それは一種の憧れのようなものに変わっていた。
しかし、関西で生活している私にとって宗像に行く機会は訪れることは無かった。

それが、今回、九州の郷土歴史研究家の方に連れて行ってもらって実現となったのは誠に嬉しい限りである。


 宗像大社とは言わずと知れた交通安全全般の神社である。
天孫降臨に際して天照大神から道中の守護を命じられた三女神(さんじょしん)を祀っているからだろう。
創建は古く、日本最古の神社の一つとでも言う他はない。

日本書紀には「此則筑紫胸肩君等所祭神是也」とあり、天武天皇の章には高市皇子を生んだのは「胸形君徳膳」の娘の「尼子娘」の記述を見ることができる。

祭神は神社の案内文によれば『田心姫神(たごりひめかみ)、湍津姫神(たぎつひめかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめかみ)と申し上げ、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれおまつりされています。この三宮を総称して宗像大社と申します』となる。

 沖津宮は玄界灘の沖合い50数kmにある孤島で、周囲4kmの沖ノ島にひっそりと建っている。
沖津宮では、大和朝廷により国家の安泰と海路の安全を祈って祭祀が行われていたという。

中津宮は宗像郡大島に鎮座し、とりわけ海運漁業者の神として崇められている。

以上2社は時間の都合もあり今回は行かなかった。
 今回訪問したのは辺津宮ですが五間社流造の本殿と切妻造の拝殿が本来の建物で国の重要文化財に指定されている。
しかしながら、近年に造られた鉄筋コンクリートの大社殿が本殿のように思われるのは残念である。
(あえて、写真は掲載いたしません)



 宗像大社は、またの名を「道主貴(ミチヌシノムチ)」という。「貴(ムチ)」というのは出雲の大国主命も大己貴命(オオナムチノミコト)というように神に対する最も尊い呼び名で、日本書紀には宗像大社の神は最高の道の神と意図しているかのようである。
で、辺津宮の市杵島姫神とは知らないと言う方も多いとは思うが、弁天さんと言えば知らない人はいないだろう。
厳島神社、江ノ島神社、松尾大社など有名な神社で宗像三女神の誰かをお祀りしているところは多い。







朝から動き回ったのでお腹も空いてきた。
ここらで食事をすることにした。
ここは「白鶴まる」のテレビCMでお馴染みの鐘崎漁港の近く。
美味しい獲れ獲れの地元の魚を食べなくっちゃ!

ん? 出てきた刺身がサーモン??

オイオイどうなってるねん。


郷土歴史研究家さんは申し訳なさそうにしていたが、貴方のせいではありません。
恐縮しないでくださいませ。(笑)




宮地嶽神社






「みやじごく」と読んでしまった。
地獄じゃなくて地嶽でした。
ハイ、「みやじだけ」が正解です。

 仲哀天皇と神功皇后が大陸に攻め込もうとしたとき、この地の山上に天神地祇を祭り、『天命を奉じて彼の地に渡らむ、希がわくば開運を垂れ給え』と祈願したことに由来して創建されたとなっている。
(仲哀天皇は海を渡る前に香椎で死んだことになっているのだが)
以来、この地を宮の地として宮地と称する様になり航交、勝運に霊験があると言われている。

三つの日本一
 この注連縄は直径2.5m、長さ13.5m、重さ5tという。この注連縄は、3年に一度架け替えられ2反の田圃の稲が必要ということであった。
ちょうど、女性が注連縄の下で、その大きさに感嘆されたのか手を伸ばされてていたのをキャッチ。
確かにデッカイどぉ〜!





 こちらは日本一の大太鼓。
直径2.2mもある。ところが日本にはもっと大きな太鼓があるという。
そしたら、『全て国内より調達した材料により製作されています。太鼓の銅は檜を原木とし、その表面に漆を幾重にも重ねて音の響きを大切にいたしております。 その上左右の鼓面には和牛の皮を太鼓用になめしたもので、今日の国産和牛では入手出来ないサイズの皮で調製されています』だって。

あっ発見!下の方が破れてる。もう、国産和牛では張り替えられないぞ。
こちらは日本一の銅製の大鈴。
写真が下手ですみません。ガラスに光が反射して鈴が見えないですね。
黄色丸のところにあります。
なんでも重さが450kgだそうです。

 これを持ちまして仙道の九州旅行記を閉じさせていただきます。
最後まで見ていただきましてありがとうございました。

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