京都府相楽郡山城町綺田の車谷古墳群を調査していた山城町教育委員会は14年2月8日に、古墳の石室に使う石材の採石場と見られる岩場を発見したと発表した。
車谷古墳群は、5世紀後半〜7世紀中頃に40基程の古墳が築かれている。
採石場として私が先ず思い浮べるのは、奈良県と大阪府の間だの二上山であるが、当時の採石場としての発見例は少なく、採石場であれば、古墳つくりの実像を知る貴重な資料である。
採石場と見られる岩場は、車谷古墳群の中心部に位置しており、石室は黒雲母斑状花崗岩で、風化によりひびが入り、石室の材料となる程度の大きさの石が採取しやすい状態になっていたという。
岩石については全くの素人であるので違うかも知れないが、この地の東にある笠置、柳生といった巨石が露出しているところの岩石と同じではないかと思ったのですが、どうなんでしょう。
この採石場と思われる場所の近くには、古墳の石材に向かない大きさの石が捨てられたと見られる跡もあるということなので、このことが採石場であると見られる一つの要素なのだろう。
車谷古墳群は山林の中腹にあり、渡来系の秦氏が住んでいたところで秦氏の墓域と想定されている。
直径1Kmの範囲内に横穴式石室を持つ古墳約40基が広がる南山城地方で最大級の古墳群である。
この横穴式ということが大事なのである。
竪穴式であれば、つまり洋画でよく見る葬儀の光景、穴を掘って棺を降ろして、あとは土を埋め戻す光景です。埋葬者は一人です。
これに対して横穴式は墓を作ることも大変です。ちょっとした土木技術も要ります。石室を作らなければなりません。
今で云う地下鉄工事、トンネル工事の要素が入ってくるのです。
だから、それなりの大きさの岩石が必要なのです。
この古墳群の中で最古の古墳は5世紀後半で、国内で横穴式石室が始った時期と一致しています。
また、小規模な古墳が大量に作られるようになった時期でもあるのです。
「大規模な作業を伴わず、手軽に石室用の石を採石できる場所に目を付けたことが、古墳造営の一因として注目できる」と山城町教育委員会は発表している。
以上は朝日新聞の記事を利用させていただきましたが、ここが採石場であるというにはもっと色々な状況や証拠があったものと思いますが、考古ファンとしては残念ながら新聞からはこれ以上は求められず、ここまでが限界でしょう。
現地説明会は場所柄、難しくできないと思います。
現地の場所は近くに駅などがないため、蟹満寺からいいますと、寺の北側の天神川を上流に向って山道を20分ぐらい登ったところ、いくつか目の橋を渡ったところで左後方にのぼってきた道と同じぐらいの幅の分れ道があります。
この道を入って1分のところ。
現在、写真の通り青いビニールシートが広範囲に被せてありすぐに分ります。
必ず歩いて行きましょう。
車も通れるのですが、離合はできません。作業の迷惑にならないように。
高取町越智遺跡 明日香村亀型石