宇治市街遺跡



 京都府宇治市のJR宇治駅前にビルを建てる計画があります。
このビルは子育て支援センターや観光案内所や交番が入るJR宇治駅前複合施設で宇治市が計画したものです。
宇治市街遺跡はその名の通り、宇治の市街地に広く埋もれている遺跡なのです。今回宇治市の手によって780uもの開発であり、この複合ビル建設に当たり発掘調査及び公開がなされました。

 宇治市教委の発表によるとこの遺跡は1100年頃(平安時代末期)から1500年頃(室町中期)の街の跡ということでした。
さらに条里制が敷かれていたため、現在の平等院の西側には碁盤の目のような南北、東西の道が確認されています。
今回発掘された建物跡で1100年頃と見られるものはこれらの道に沿った形で建てられていましたが、室町時代中期と思われるものは斜めに振られています。
これは素人歴史ロマン探検隊が推測するところによると室町期には条里制の道が重要な位置を占めなくなって、変わって新しい道(京都−奈良)が大きな意味を持つようになったためであろう。


その変遷の一番大きな要因は1336年の足利尊氏と楠正成の戦いであろう。
楠正成の放った火は宇治の大部分を焼き尽くしたのでした。
この頃には宇治茶で財をなした者がいたのでしょう。鳳凰堂を残して殆ど焼け落ちた平等院はこの財をなした者により鳳凰堂はかろうじて維持されたのである。
街も再建されていったのでしょう。このときに条里制の道が廃止され宇治橋から大久保方面に街道が形成されたのではないだろうか。現在の宇治橋通(新町通)りである。
だからこそ、この街道ができてその後に建った建物は1100年頃の建物と方向が一致しないのである。
さて、左の写真は池の遺構ということなのですが、これだけでは大きさが分かりません。
だだし深さから見て(発掘のおじさんの腰辺りより深い)、相当な大きさであり、やはり貴族の邸宅の庭だったんでしょう。


写真上の穴は当時の柱跡で今回の柱跡は700にも及んでいます。
これは何度もこの場所で家が建て直されたことを示しています。

左の写真の中央に大きな穴があります。これは井戸の穴なのです。







上の井戸を近くから覗くと何と今でも水が湧いてきます。
当時の街の地表から2mも掘れば井戸水が湧いていたのです。
今まで色々な発掘現場を見てきましたが、井戸跡に水が湧いているのを見るのは初めてです。
水脈が浅いのでしょう。









出土した瓦です。 分かりにくいですが瓦の前面に模様があるのが分かるでしょうか。
これらの模様は平等院の瓦(1101年の改修時)と同じ模様なのです。そしてこれらの瓦は河内向山の瓦窯で作られたものであることは平等院の瓦で既に分かっていることなのです。



右の写真の左側の瓦なのですが、これは奈良薬師寺の瓦と同形と説明がありました。ただ、時期はやはり平安末期のものです。
そして丸瓦、これらの瓦から見て、この瓦のしたに建っていた建物は一般庶民の建物ではないでしょう。
寺院か貴族の邸宅だったと考えるのが妥当でしょうね。
時期として1100年代初めと見ると政治の第一線から退いた藤原氏がここ宇治でなお栄華を誇っていたと見られるのではないでしょうか。
貴族の邸宅と見るにはまだ下のような出土品が出ているからでもあります。



      上の写真は出土した
      土器です。







上の写真は中国製の陶磁器です。 こういった高級品はやはり貴族がここに住んでいたのでしょう。

左の写真は全て手のひらサイズの大きさです。
そこから、ままごと遊びの土器ではないかと解説されてました。
私ならグイ飲みのお猪口かと思ってしまいます。
さて、真実はどうでしょう。



     こんなコーナーもありましたよ 紹介しておきます。

     現地説明会では嬉しいコーナーですね。




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