越智(おち)遺跡(奈良県高取町)


 中世大和武士を代表する越智氏の居城跡とされる越智遺跡(高取町越智)で、14世紀前半〜16世紀中ごろの居城内を区画する堀の一部が出土した。
越智氏の出自については源頼親の後裔で法華経太郎頼安の曽孫親家の後裔とする説が有力であるが、伊予の名族越智氏の後裔とするものや橘氏を祖とすんるもの等もあります。

 南北朝時代には足利尊氏の弟、足利直義(1306〜1352)も頼ろうとした程の勢力を持っていました。
そして、南北朝統一後は大和一国を支配する春日社の氏子として勢力を振るってきました。
足利義教の弟、大覚寺義昭が大和で挙兵した時は越智惟通に頼り、維通は多武峰に籠城して幕府の大軍と戦いましたが力およばず自殺しています。
現在の地名や地形から居館の存在が推定されていましたが、遺構の確認は初めてで、初期の中世城郭の構造解明や、南北朝期の雄族の実態を知るうえで貴重な資料となるとみられます。

以下読売新聞記事
 国史跡指定を目指した範囲確認で、高取町教委が昨年11月中旬から80平方メートルを発掘。L字状につながった東西溝(幅2m以上、深さ0.6m、長さ8m分)と南北溝(幅1.8m、深さ0.6m、長さ10m分)が見つかった。屋敷地内の東側を区画した堀らしい。瓦片約50点も出土、建物は一部瓦ぶきで焼けた土の層が複数あり、幾度も火災に遭ったらしい。

 中国青磁や瀬戸焼の天目茶碗、備前焼など各地の陶磁器の破片約30点、碁石2点なども出土した。現場は南を除く三方を凹字形の丘陵に囲まれた東西約60m、南北約100mに段状の平たん地がある。周囲の尾根に堀や土塁跡が残り、「オヤシキ」の小字名などから居館跡とされてきた。





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