今回は2003年10月4日隣り合う「南六條北ミノ遺跡」と「八条北遺跡」の同時開催現地説明会のレポートです。
資料は当日配布の「奈良県立橿原考古学研究所」の資料を中心に使用し、写真についても一部当日掲示されていた写真も使用しました。


南六條北ミノ遺跡
場所は京都から国道24号線を南下して奈良市を越えて更に南下西名阪国道郡山インターを越えたところです。
今回の調査で、方形に巡る溝により区画された遺構(方形区画溝)が確認されました。
方形区画溝は1辺約20mで、溝の幅は1.6〜2.7m、深さは0.7〜1.2mです。
ところがその4頂点付近から鍬や鋤といった農具が発見されました。しかも偶然そこに捨てられていたというのでなく、意図的に置かれたと考える方が自然なのです。
ではその特徴として、次の点が挙げられます。

@出土した土器の年代観から、概ね4世紀後半頃(布留2式)に構築された遺構であろう。

A区画溝内の埋土は、下半が自然堆積層、上半が人為的な埋戻し層の大きく2層に分けられます。
区画溝を埋戻した時期は正確には分かりませんが、埋土中からほとんど遺物が出土しなかったこと、中世以降の耕作溝である素掘溝が全くこの区画溝を意識していないことから、中世以前の比較的早い時期に埋戻されたのだろう。

B区画溝の4隅に木製品の農具が出土しました。。順に北西隅には鋤が1点、北東隅には鋤が1点、鍬の柄が1点、南西隅には鋤が2点、南東隅にはナスビ形の鍬が2点、鋤が4点出土しています。
これらの農具はきちんと並べられた状態で出土したことや、そのほとんどが完形品であることから、投棄されたものではなく据え置かれたものであると考えるのが自然です。
これ以外には北辺の中央でナスビ形のフォーク型の叉鋤(?)が2点出土しています。



下の写真は南東隅から出土した鍬です。

C東辺ではカゴ状の編み物が11点(上の写真)出土しました。このうちの1点は把手が付けられており、さらに天秤棒と考えられる棒状の木製品が出土していることから、これらの編み物は土を移動させる道具として使用したと考えられます。
これらの編み物は出土位置には規則性は認められませんが、区画溝の4辺のうち東辺でしか出土していないという点を考慮すれば、上記の木製品同様、投棄されたものではなく据え置かれたものではないかと考えられます。
 

D遺物ではナスビ形の鍬は、着柄した状態で出土した点が特筆されます。このような事例は過去に1例しかなく、非常に珍しいものといえます。
ナスビ形の鍬はかつて鋤であるとする説が有力視されていましたが、最近では鍬であるという説が有力となっています。
今回の事例はそれを裏付けるものとして注目されます。
注目したいのは出土したナスビ形の鍬のうち1方は柄尻に彫刻を施しており(写真みぎ)、これもまた非常に珍しいものですし、この時期道具の機能は当然としてこういった装飾がなされるのは土器、埴輪に続くもので興味が持たれます。



発見された土器類は少なく上の写真のようなものが発見されたのでした。



まとめ
 今回の調査で重要な成果があったと言えるでしょう。特に木製農具は区画溝の4隅に据え置かれた状態で出土しており、他に類例を見ないものとなっています。出土した鋤や鍬は農具ですが、土を運搬したカゴと考えられる編み物と同時に出土したという点を考え合わせれば、区画溝の掘削に使用した道具がセットで出土したということもできます。
このような形態は愛知県清洲町の朝日遺跡(方形周溝墓)で溝に納めた農具が見つかっている例があり、「方形周溝墓の伝統を受け継ぎ、造墓に伴う儀礼を行った」のではないかと朝日新聞には載っていました。

 しかし今のところこの方形区画溝はそもそも一体どのような性格の遺構であるのかがはっきりしていません。
この遺構の可能性としては古墳、居館、集落、祭祀関連施設などが考えられます。その性格を推定する手がかりとして、時期はやや遡りますが弥生時代の方形周溝墓と呼ばれる墓の周溝内より、鋤・鍬が出土する事例が各地で報告されています。これを積極的に評価するならば、今回の方形区画溝も方形周溝墓の伝統を受け継ぐ古墳時代の墓の可能性が高いと考えられます。いずれにしても木製品が特異な出土状況を呈していること、区画溝が自然地形でなく、正方位を指向していること、生活感のある出土遺物が極端に少ないことなどから、日常の居住空間ではなく、特別な空間として意識されていたことは間違いないものと言えるでしょう。




八条北遺跡
南六條北ミノ遺跡の西および南西側に位置し今回同日に説明会が開催されました。
ここはなんといっても藤原京から平城京の羅城門に向かう街道「下ツ道」沿いに立ち並んでいたといわれる場所で、建物跡が発見されているということで興味を持って見学会に参加しました。

                                                        写真は当日配布資料よりコピー赤線は資料に上書きしてあります

今回の調査では、弥生時代から平安時代にかけての遺構が多数検出されました。その中でも顕著なのが、掘立柱建物群21棟および柵、それに伴うとみられる井戸(9基)や溝などです。
 掘立柱建物群は、調査区の北半と南端に集中します。現時点では、柱穴の掘り方や柱痕内から明確な時期を示す良好な遺物は見つかっていませんが、おおむね、奈良時代から平安時代の初め頃にかけての建物群と考えられます。これらの建物群は、方位の違いなどによって、大きく2種類に分けることが出来そうです。

@主軸が正方位から若干東に振れるもの(上写真の青線)
1×7間が1棟、2×6間が2棟、2×4間が2棟、2×3間が5棟、2×2間が1棟、2×4間以上が1棟含まれます。掘り方は方形のものが主で、大きいものは一辺約80cm程度になります。中には柱を支える礎板(石)が残っているものもあります。

A主軸が正南北方位に近いもの(上写真の赤線)
1×7間が1棟、1×6間が1棟、1×5間が1棟、2×5間が2棟、2×4間が1棟、2×3間が1棟、2×2間が2棟含まれます。いずれも南北方位の建物です。掘り方は方形のものが主で、一辺が50cm〜80cm前後になります。中には@の建物群よりひと回り大きな、一辺が1m近くなる柱穴も存在します。
@とAの前後関係については、現時点で判断することは出来ませんが、建物の周辺では、井戸も多く検出しており、これらの調査が進めば、上記建物群の機能していた時期を知る手がかりになるでしょう。また、奈良時代以前の遺構として、古墳時代前半の溝や弥生時代の方形周溝墓(7基)なども見つかっています。



井戸については板枠をせいろ組みしたものが出土しており当時の土木技術を窺わせるものです。
軒丸瓦の文様を見れば早くても白鳳時代、おそらくは奈良時代中期以降の瓦と思われます。当然建物もこの時期のものでしょう。

左は三彩小壷と呼ばれ、使途は不明ですが、後ろのメジャーからも分かるように径は8cmぐらいの小さなものです。

右は硯でこのあたりからも建物が下ツ道の沿線にあった公的施設ではないかと想像できます。

まとめ
 今回の調査区は、これまで推定されてきた下ツ道に沿っていることから、調査以前より下ツ道の西側溝が検出されるのではないかと想定されていました。現時点で、南北方向の溝が数条、調査区の東辺に沿って確認されていますが、明確な時期や規模については今後の調査によって明らかになるでしょう。
今回見つかった建物群の性格については、今後も検討を続けていかなければなりませんが、5間以上の大型建物が群在すること、瓦、磚、硯、三彩小壺などが出土していることなどから、下ツ道沿いに展開する公的な施設の可能性も考えておく必要があるでしょう。




                讃良郡条里遺跡・太秦遺跡へ       唐古・鍵遺跡93次調査





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