條ウル神古墳

14年3月15日の朝日新聞の一面に「石舞台」級の石室発見 という見出しが載っていました。
これは仙道にとって驚きであり、心揺さぶられるものを感じました。
しかし、一通り記事を読んで靴の上から足を掻くというか、もっと情報が欲しいというのが正直な感想です。
現地説明会は3月23、24両日の午前10時から午後3時までということで23日行ってきました。

取り敢ず記事の紹介と仙道なりの推理を発表いたします。(間違っていたらご免なさい)

朝日新聞によると
 『奈良県御所(ごせ)市の古墳から、蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳(同県明日香村)に匹敵する巨大な横穴式石室を発見したと14日、同市教委が発表した。
 石室の形式などから6世紀後半の築造とみられる。古墳は地名から「條(じょう)ウル神(かみ)古墳」と名付けられた。石室内には、蓋が屋根の形をした家形石棺があり、被葬者は巨勢(こせ)氏など地元の有力豪族ではないかとみられる。
 大和盆地の大型古墳はほぼ発見されたとみられており、専門家は超一級の発見に驚きを見せている。』
ということです。
さらに
 『古墳は削られているため墳丘の形は不明だが、全長100m以上と推定される。石室は泥がたまった状態で、高さ3.8m、長さ7.1m、入り口の幅2.7m。泥を取り除けば、高さや長さが50cmほど増えるのは確実という。最大で横2.4m、縦1.8mの花こう岩の自然石を積み上げてあった。




 石棺は一つの岩をくりぬいた様式で、二上山(同県当麻町)産の凝灰岩が使われていた。蓋には近畿で確認例がない八つの縄掛け突起があり、石棺の内側には朱が塗ってあった。ふたが約30cmずらされ、副葬品が盗掘されていたが、蓋の上に冠の金ぱく飾りや直径約2mmのガラス玉などが散乱していた。

 横穴式石室は古墳時代後期(6世紀)に多い形式。石室が最も大きいのは被葬者が欽明天皇との説が強い見瀬丸山古墳(同県橿原市、高さ3.9m以上、長さ8.3m以上と確認)だが、条ウル神古墳は2番目に大きい石舞台古墳(高さ4.8m、長さ7.6m)に匹敵する。

 周囲には約700基を数える国内最大級の群集墳「巨勢山古墳群」があり、約1.5km西に全長240mの「宮山古墳(室大墓)」(5世紀前半)がある。






 専門家は被葬者として、奈良盆地南西地方の有力豪族の一つ、巨勢氏などの名を挙げる。巨勢氏は6世紀初頭、継体天皇の擁立に動いて大臣(おおおみ)になった巨勢男人(おひと)を出し、大和政権有数の軍事氏族になったとされる。』

 
          説明会資料から


関連記事では
『1910年代に「天皇陵級の全長200メートルの前方後円墳」などという県職員の調査記録があったが、あまりに規模が大きすぎたため専門家の間で疑問が投げかけられ、戦後はこの調査も忘れられ、古墳のありかさえわからなくなっていた。

巨大な石室を築き、葬られた人物とはだれなのか。
 複数の専門家は、大和朝廷の初期に活躍したとされる人物、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とし、当時の政界の名門として知られる有力氏族巨勢氏の盟主ではないかとみている。

 石室の構造に詳しい河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長(考古学)は、幅が狭く細長い石室は巨勢氏の墓の特徴だと指摘する。「御所市周辺は元は葛城氏の勢力圏だったが、葛城氏は5世紀末から6世紀初めに衰退する。かわって朝鮮半島などとの交易で利権を得た巨勢氏が台頭し、領地化したのだろう」


 石野博信・徳島文理大教授(考古学)も巨勢氏説だ。「大王に近い大豪族で、キングメーカー的な立場だったかもしれない。巨勢氏の力を再評価する必要がありそうだ」という。

 調査を担当した御所市教委はさらに被葬者を絞り込み、「大臣、巨勢男人の子の稲持(いなもち)ら、巨勢氏の盟主」と具体名をあげる。

 男人は継体天皇の擁立に尽力し、大和朝廷に反旗を翻した筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)・磐井(いわい)との戦いで将軍に任ぜられるなど、巨勢氏台頭の基礎をつくったとされる人物。稲持は新羅との外交に活躍したとされる。

 葛城氏・蘇我氏説も

 巨勢氏説には異論もある。網干善教・関西大名誉教授(考古学)は「巨勢氏の本拠地は、条ウル神古墳のある巨勢山古墳群から峠を一つ越えた場所。この古墳は地域的にみて葛城氏の墓では」という。

 蘇我氏の墓と見るのは和田萃・京都教育大教授(日本古代史)だ。「現在の御所市周辺は6世紀末には、台頭してきた蘇我氏の勢力範囲になる。被葬者は蘇我稲目や、稲目の子の馬子と同世代の蘇我氏のだれかだろう」と話している。』


朝日新聞の記事は以上のようでしたが現地説明会では石室の大きさを示すため、ほぼ同時期の他の古墳との比較がなされていました。

横穴式石室(玄室)の規模  (m)    αは埋没のため不明
古墳名 所在地 長さ
(奥壁)

(玄門)
高さ
見瀬丸山 橿原市五条野町 8.3+α 4.1+α 3.6+α 3.9+α
石舞台 明日香村島ノ庄 7.6 3.4 3.4 4.8
絛ウル神 御所市條 7.1+α 2.4+α 2.7+α 3.8+α
塚穴山 天理市勾田町 7.0 3.0 3.0 不明

また家形石棺(蓋込み)の大きさの比較として

家形石棺 蓋 の大きさ  (cm)   ( )内は縄掛突起を除く数値
古墳名 所在地 長さ
(奥壁)

(玄門)
見瀬丸山(前棺) 橿原市五条野町 289(275) 145 63
絛ウル神 御所市條 278(270) 147 53
植山(東石室) 橿原市五条野町 270(260) 158 62
赤坂天王山 桜井市倉橋 264(255) 170(159) 55

巨勢山古墳群は800基弱の大規模な群集古墳ではあるが、5世紀の古墳は木棺を直葬したものが殆どですが、絛ウル神古墳のように6世紀後半の古墳は石室に石棺であり明らかに作成方法が異なっています。
これは、前者が葛城氏の古墳であり、後者は巨勢氏の古墳であると考えられます。

埋葬者誰か
 今のところこれだけの情報しか分らず当然に特定することはできませんが、大臣の地位を確立し経済的にも豊であり6世紀にこの地を支配していた巨勢稲持と見るのが妥当ではないでしょうか。




巨勢山室古墓
木炭木槨墓と高官用の装飾品出土

 木棺など埋葬部全体を木炭で包んだ特殊な構造を持つ「巨勢山室古墓」(平安時代初期、9世紀初頭)が見つかりました。
木炭木槨という埋葬法や当時の官人が身に付けた石帯(せきたい)など豪華な副葬品から古墳群一帯を本拠地とした巨勢氏の子孫で、天皇に仕えた高官の墓ではないかとみられる。

 古墓は、5世紀後半の前方後円墳(471号墳)の前方部を再利用し築造している。
御所市教委は「巨勢氏の高官が自らの出自を明らかにするためにこの地の古墳を再利用したようだ」と発表しているが、おそらくこの見解通であると思われます。

 埋葬部(長さ3.4メートル、幅1.5メートル、深さ約1メートル)の底や四方の壁に木炭が敷き詰められていたことから、木棺を収めた木槨(かく)全体を木炭で包むようにして埋葬したのだろう。













 石帯は高官などが身に付ける革製のベルト。出土したのは、石帯を装飾した巡方(じゅんぽう)と呼ばれる四角形の石や丸鞆(まるとも)、蛇尾(だび)など計10点の飾り石。薄い緑色のまだら模様で、巡方は裏面の四隅の穴には、帯に結び付けるのに用いた銀製の糸が残っていた。

 当時の官位などを定めた「養老令」には、石帯の飾り石の石材や色などで位が示されており、石の特徴から説明会では「被葬者は五位以上の高官」であると説明していました。













 棺内部分からは金銅装短刀(長さ52.5センチ)、水晶玉(直径1.7センチ)が各1点、木槨上で碁石8点なども見つかっています。

















さてここで古墳の解説をしておきます。
 古墳というのは埋葬施設で当然お墓のことです。大きな古墳はそれなりに経済力があり、権力者だった者の墓と見ることができます。
古墳が注目されるのは埋葬された人と共に当時の生活の謎を解き明す数々の副葬品が一緒に発掘されることにあります。

今回條ウル神古墳は、残念ながら盗掘にあっており見るべき副葬品は無いようですが、古墳の規模からいって埋葬者が特定できれば(できなくても)6世紀の支配層と権力者の解明に大きなヒントを与えてくれるものと期待ができます。
古墳の埋葬施設には竪穴式石室と横穴式石室があります。大体のことですが初期は竪穴式石室、後期は横穴式石室が多くなります。

竪穴式石室と横穴式石室
 棺を納める石室には竪穴式石室と、横穴式石室があります。横穴式石室は、中期以後、朝鮮半島を経由して日本に伝わってきました。
竪穴式のものは遺骸を上から納めて、そしてその上から蓋をします。それで竪穴式は通常1回だけで追葬はできないとされています。
横穴式石室では、石で壁を積んで羨道を通って、奥の玄室に通じるもので、構から遺骸を納めてから入口をふさぎます。ですから横穴式石室は、何度も埋葬が可能な構造となっています。
また竪穴式では頭を北の方にするのが多く、横穴式は入り口を南に向けるのが多く、棺は石室の大きさにも寄りますが、石室内で縦横いろいろあるようです。
棺はどんなものか
 木棺や石棺の中に遺体を入れて、石室の中に入れます。
前期には、割竹形木棺や長持形石棺のまわりを囲むようにして竪穴式石室を作ったものが多いようですが、棺は、しだいに、石棺に変わっていきます。
中期の石棺では、くりぬき式の舟形石棺や、組み合わせ式の長持形石棺が普通です。横穴式石室では、箱形石棺や、家形石棺が置かれることが多いのです。




付録
巨勢山772号墳

新規に検出された小形横穴式で巨勢山室古墓の直ぐ隣にありました。




室宮山古墳
 巨勢山室古墓から條ウル神古墳に向う途中に室宮山古墳古墳があります。
この古墳は前方後円墳で丘尾切断による墳丘は整然とした3段築成です。
規模は全長238m、後円部径105m、前方部幅110m、後円部高さ25m、前方部高さ22mと大きなものです。
北側クビレ部に方形の作り出しと、南側に自然地形を利用した周濠があります。
明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が多数出土し、大正10年に史跡に指定されました。
その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行いましたが、竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、家等の埴輪を立ててあった。



 写真  丸く見えているのが長持形石棺の蓋部分



同様なものが北側のもあるらしいから、内部構造が2カ所にあることになる。
北側には陪塚(ばいちょう)があり、江戸時代に孝安天皇陵に比定されたこともあります。
(現地説明文から)









 写真  石棺の内部





条池北古墳
 條ウル神古墳の直ぐ近くに条池北古墳と条池南古墳があります。

左写真は条池北古墳の石室
條ウル神古墳の石室に比べかなり小さいものです。















琴弾原白鳥陵
「古事記」、「日本書紀」によれば、日本武尊は父である景行天皇から熊襲・出雲を征討するよう命じられ軍勢もないまま西日本を平定、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、すぐさま東国の蝦夷を征討するよう命じられました。
幾多の苦難の末、東国を平定しましたが、大和へ帰る途中、伊吹山の神との戦いに敗れ傷を負い、能褒野(三重県亀山市)で故郷を偲んで

大和は国のまほろば たたなずく 青垣山隠れる 大和し美し

と歌い、崩じられたので御陵を造り葬ったところ、白鳥となって大和へ飛び去り、やがて琴弾原(この場所)に留まった。御陵を造ったところ、再び白鳥は飛び立ち河内国の旧市邑(大阪府羽曳野市)に舞い降りたのでその地にも御陵を造った。その後、白鳥は天高く飛び去ったという。
現在、日本書紀が伝える陵は白鳥の三陵といわれています。















 写真     白鳥陵の遠景







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