神郷亀塚古墳 (第3次調査現地説明会) 
                                                       平成15年2月15日13時〜
                                                          戻る     トップ

本題に入る前に神郷亀塚古墳の予備知識
 平成12年12月からの第2次調査で3世紀前半の最古級の古墳で前方後方墳と分かりました。
前方後方墳は邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)の証だとして、狗奴国連合系の王墓なのかと古代史に大きな波紋を投げかける事となりました。
その資料を見ると
『亀塚古墳は、JR能登川駅の東役1,800mの大字長勝寺、神郷地先、式内乎加神社の背後にあります。
北東には、縄文時代後期の集落跡として著名な正楽遺跡があり、西側に隣接して弥生時代後期から古墳時代、さらに鎌倉時代まで約千年以上にわたって栄える湖東地域の中心集落斗西(とのにし)集落、中沢遺跡があります。
これに法堂寺(ほうどうじ)遺跡を加えた集落跡全体の面積は約30haを優に越え、これまでの発掘調査でたくさんの住居跡・祭祀場跡・土器・木器・青銅鏡や玉類などの祭祀具がみつかっています。
出土物からも、このあたりに湖東地方を広く治めた小国の王が居住していたことが、推定されてます。
 さて古墳は、斗西遺跡の約200m東にあって、地元では亀山と呼ばれて親しまれてきました。
本体は乎加神社(おかじんじゃ)の社地として、地元氏子皆さんの手により大切に保存されてきました。現在残る形から長い間、全長約28mの前方後円墳とされてきましたが、今回の調査で周りの田んぼや畑の下から濠が見つかり、全体の形が前方後方墳であることが判明しました。
 弥生時代、日本各地で低墳丘墓(ていふんきゅうぼ)がたくさん作られていますが、亀塚古墳の特徴から低墳丘にさらに土を盛り上げた高塚古墳への時代変化がわかり、古墳研究の上で重要な資料となります。

 3世紀中頃、前方後円墳をつくりはじめた奈良県桜井市付近を邪馬台国の中心地として、初期ヤマト政権同盟の目印に前方後円墳を作るグループがあり、この形に従わなかった前方後方墳こそが、唯一卑弥呼に対立した狗奴国の証しだとする説をとると、同じ頃に前方後円墳ではなく前方後方墳をつくる近江は狗奴国連合のひとつ、もしくはその有力地の可能性が高まりました。』

どうでしょうか?興味ある古墳ですね。

今回の調査では埋葬施設および盛り土から弥生時代末の土器が複数見つかっており、古墳の築造開始が2世紀末に始まった可能性があります。周濠から見つかった土器は庄内式古段階と判断でき、古墳の完成した時期を新しく見て3世紀初頭におくことができます。


古墳の築造方法
盛り土には周濠を堀上げた地山土(自然本来の土)の粘土や砂を30層以上も積み上げていることが判明しています。
周濠の土量計算から、1段目に約1mの高さを持ったテラスを構築した後、後方部をさらに3m盛り上げた、全高約4mの二段階築成の古墳だったと考えられます。

また、墳丘構築には3段階の整地の上に、主体部の盛り土を行ったことが分かっています。
第1整地面は地山土(黄褐色砂質土)の地面、第2整地面は地面から1mの高さのテラス面(青灰色粘質土)、第3整地面はさらに1m上の明青灰色粘性砂質土です。
今回発見されてマスコミにも取り上げられた木槨墓(もっかくぼ)は第3整地面の上に約1.1mの高さで構築され、その上に約60cmの覆土が施されていました。

上の写真ではどこが木槨か分かり辛いですね。これらの写真は木槨墓の横断面の筈なのですが????

木槨墓とは板囲いの四角い部屋の中に棺を納める墓をいいます。


 木槨墓は朝鮮半島から伝わった埋葬法で、東側(第1主体)にある大きな木槨墓(幅1.3m、長さ4.6m、深さ1.2m)がつくられた後、西側(第2主体)の小さな木槨墓(幅1.15m、長さ3.5m、深さ1.1m)ができたのだろう。
木槨は第3整地面の上に基礎粘土を敷き、中央に木棺を据えて周囲を粘土で包み込み、基礎粘土の両端に1段目の横板を食い込ませるようにして積み上げています。板1枚の厚みが約30×8cmであることが分かりましたから、4枚の側板が積み足されたようですと説明がありましたが、写真のような断面でよく分かるものだと感心しています。
蓋板があったと想像されるのは断面が中央部で大きくV字型に落ち込んでいることと、厚さ6cmの土層が確認できたそうで、こちらの説明は分かりますね。


土器破砕祭祀
古墳の盛り土と二つの墓穴からは、きわめて小さく砕かれた土器の破片が数百点出土しています。
被葬者や家族が生前使っていた土器を古墳に埋める祭りで使われたとみられる。こうした風習は、丹後(京都府北部)など北近畿地方に多い風習で、葬送の時に別の場所で割ったものを墳丘の築造時か埋葬時にまき入れた可能性があるということです。
現在でも告別式のあと死者の生前に使っていた茶碗を割るのと通じるものがあるのでしょうか。

墓戸(ぼこ)古墳の祭祀場
古墳の西約20メートルからは古墳の管理をした墓守の住居とみられる5世紀後半の竪穴住居跡1棟が見つかっています。
ここからは通常の住居跡で出土する鍋釜(甕)のたぐいはなく、殆ど祭に使う高坏ばかりです。
こういったことから古墳を管理していた墓守のような人がいたいえと考えられます。これを墓戸といいます。
古墳西側の周濠付近からは不規則に並んだ柱穴群が出土しました。祭りを集落の人々に知らせる旗や飾り物などを立てた木柱の跡とみられるということでした。

               (墓戸跡)










亀塚古墳の西側には上や左のような中世墓の跡も見受けられます。
特に上の写真の白い線の上側の土が少し黒いのが分かるでしょうか。
これは周濠の跡です。巾3mぐらいはあります。




























乎加神社(おかじんじゃ)
乎加神社は延喜式(えんぎしき)にも記されている由緒のある滋賀県神崎郡でもっとも古い記録の残る神社です。
本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、同25年に移築されたと伝えられる由緒あるものです。
伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。
棟には堅魚木(かつおぎ)7本がのせられ、建物側面には直接棟木(むなぎ)を支える独立棟持柱(むなもちばしら)をもつ伊勢神宮そのものです。


乎加神社は、神郷・長勝寺・佐生・佐野鍛冶屋(かじや)村を氏子とし、古代「神主郷(かむぬすのごう)」と呼ばれた郷村の中心となる信仰地です。神崎郡の古代名は「神前郡(かんざきぐん)」で、郡名のルーツもこの神社にあったとみてよいでしょう。


つまり、古代この地は神の国だったのです。
前述の邪馬台国に対する狗奴国だったとしてもおかしくはないだけの歴史と状況証拠の一つがあります。
現在は亀塚古墳がこの神社の敷地内にあることになっていますが、実は墓が先でその墓を祭るための祭祀が行われていたが、それが神社形式の形になってきたのではないだろうか想像してもおかしくないのではないだろうか。
そういう意味でこの神社のことを記述しておかないわけには行かないので追記致しました。





                    戻る      紫香楽宮      森カシ谷遺跡








SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO