今城塚古墳(13年9月23日発掘調査現地説明会)   大阪府高槻市  
資料:朝日新聞HPより
家型埴輪の屋根の千木と鰹木
一列に並ぶ円筒埴輪
掘り出された武人
力士埴輪の顔の部分
鷹匠の腕の部分 上側の突起部分に鷹がとまる
石棺などに使われる凝灰岩。ちょっと見にくいですが前方部に削った跡がある。
何に使ったか、堤の上にある理由は不明。
宮内庁御用達?の継体天皇陵
このコーナ何から書こうと考えましたが、やはり本日(2001年9月23日)現説に行った事からにします。
私が現地に着いたのは10時30分でしたが、それから並ぶこと1時間30分12時過ぎにやっと発掘調査現場に到着。
現地説明会とは解説する人がいて、「これが家型埴輪で復元すると170Cmぐらいの高さになります。」というくらいのことは言ってくれるものと思っていたのですが、残念ながら聞こえてくるのは「立ち止まらないで下さい。ご協力下さい。」の一言だけで素早く写真を撮っただけで通過して終わりでした。
それにしても、考古学ファンの多いこと。私もその内の一人ですから、これも仕方ありませんか。


★今回第五次の調査で分かったことは
 ● 北側の状況、特に内堤での円筒埴輪列・形象埴輪群について良好な資料を得ることができた。とくに形象埴輪群は家、太刀・盾や人物などを列状あるいは群をなして計画的に配置していることが確認され、大王陵級の埴輪祭祀の実体がうかがえる貴重な資料となります。
 ● 形象埴輪の配置状況をみると、埴輪祭祀の実施にあたっては古墳の北側(外側)からの視点を強く意識しているようです。この形象埴輪群は今回の調査区域外にも広がっていることから、今後の調査が期されます。
ということです。
    
(現地説明会資料から)


それでは、
今城塚古墳とは何かについて書きます。
今城塚古墳は、淀川北岸では最大の前方後円墳です。墳丘は、全長190m、後円部の直径100m・高さ9m、前方部の幅140m・高さ12mに及びます。この墳丘を二重の濠が囲み、全長350m・全幅340mの広大な墓域を誇っています。戦国時代に濠や墳丘を改変して砦として使われ、史料には今城陵とあります。砦は織田信長の陣城とも考えられています。(高槻市のHP)
今城塚古墳は墳丘の形状・出土埴輪などから6世紀前半に築かれた大王の墓であるされており、この時期の天皇(大王)として継体天皇(507〜531年没年は文献によって異説もある)が対象となっている。


以下、
高槻市教育委員会作成の解説書及び高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」によると
平成9年11月上旬から12月下旬までの調査で、古墳の規模確認調査ということで、第一次発掘調査が行われた。この調査では試掘溝は後円部東側の内濠部分が調査の対処となった。
発表内容は
 ●墳丘と内堤の周りに葺き石がひかれていた。
 ● 戦国時代この古墳の名前の由来の通り、大規模で先進的な築城工法が採用されており、織田信長が摂津攻撃の際、利用した城だったのではないかということである。
 ●石棺に使われた奈良県二上山産凝灰岩、阿蘇産凝灰岩、兵庫県播磨産凝灰岩の3種類凝灰岩が周濠や墳丘から発見された。それらの内、阿蘇産のものが継体天皇陵説を補強する証拠になる。石室内には少なくとも三つの棺が納められていた可能性があり、7〜8人居たとされる継体天皇の妃が別々の棺で合、追葬されたのではないかと考えられる。


平成10年10月から第二次発掘調査が始められた。
 発掘場所は後円部北側の内濠部分である。
 ●内濠の幅は18.5m、深さは地表面から約3mであること。
 ●墳丘上の大量の土を使い内濠が埋められていること、瀬戸焼の天目茶碗が内濠跡から発掘されたこと等、これら      は、戦国時代に織田信長が三好長慶を攻めた1568年の摂津侵攻に際し、信長がここに築城し、大規模な工事を行ったという推測を補強する。  
平成11年10月から第三次発掘調査が始められた。
 発掘場所は後円部南側の内濠部分である。
 ●古墳造築に際し、ほぼ平坦な地が選ばれ、盛り土して造られたと考えられ、古墳は長期にわたって維持、管理されていた様子が伺える。
 ●後円部の径が100mであることが明らかになった。
 ●内濠は水をたたえて墳丘を一巡していた。外濠の幅は約20m、深さは0.8mで水のない空濠であったと思われる。
 ● 外濠の深さ40Cmの場所から、直径1.07Cm、重さ約6gの鉛製の球形の鉄砲玉が出土した。これは撃つ前の玉と考えられている。鉄砲伝来以降、この地に来た武将の中で鉄砲隊を組織していた者は限られ、織田信長がここに築城した可能性を高める証拠になるという。
平成12年9月から第四次発掘調査が始められた。
 ● 継体天皇陵の前方の突起部分について、前方部が安土桃山時代の地震で変形していたことが確認された。
これは「剣菱状(けんびしじょう)」共通の学説を覆すもので、継体天皇の系譜の古墳は、前方部の中央付近が突き出た「剣菱状」の特殊な形で共通していたという説が学界の一部で有力視されていたが、同市教委や専門家は同古墳の原因判明により、「各地の同型古墳も地震や地形により偶然できた可能性がある」と、学説の見直しを指摘している。
  同古墳では織田信長が一五六八年(永禄十一)に三好三人衆を攻めるため、墳丘を改造して出城を建築。同九六年(文禄五)、京都・伏見を震源とするマグニチュード8規模の「慶長伏見地震」が発生したと文献に記されていることから、市教委は出城建築で地盤が緩んでいたところに地震で地すべりが発生し、突起ができたと判断した。


 
(参考:高槻市教育委員会作成の解説掲示板、高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」及び同パンフレット)


不思議な存在『継体天皇』について

古事記……「袁本杼命」
日本書紀…「男大迹天皇(おおどのおおきみ)・彦太尊」
 父は彦主人王、母は振姫、とされ、彦主人王は滋賀県高島郡付近に居住し、振姫は福井県坂井郡三国町に居住していたと云われる。
彦主人王(滋賀県高島郡)が、三国から振姫を娶り、継体生誕後まもなく、彦主人王が亡くなったので、振姫は継体を連れて三国に戻ったと云う。
継体天皇は、いまの福井県(越前)に住んでいた。越前の伝承では、九頭竜川、足羽川、あるいは日野川の流域平野を大いにひらいて農業生産をあげたという。
しかも、応神天皇五世の孫であるが、どなたか自分の5世まえの曾々々祖父さんがどんな人だったかということを聞いたことがありますか。由緒ある家柄なら分かるのかも知れませんが。継体天皇が事実、応神天皇五世の孫であるならまさに家柄なのでしょう。
第二五代天皇武烈天皇(在位四九八〜五〇六年)に後継がなかったため、時の実権を握っていた大伴金村らに推挙されて即位したと云われている。
即位は507年2月京阪沿線の樟葉の地で行い5年間に亘り都を営んだ。樟葉宮の正式な場所は不明であるが、交野天神社(かたのあまつのみやのやしろ)の境内が推定地とされている。
この時すでに57才になっていた。
その後、山城筒城宮(京都府綴喜郡田辺町)、山城弟国宮(京都府乙訓郡)を経て、20年後、年磐余玉穂宮(奈良県高市郡明日香村)に入ったとされる。なんと77才である。
そのため、武烈天皇の次に飛鳥には天皇(大王)居てそのため飛鳥には入れなかったという説もある。
また、仁賢天皇の皇女で武烈天皇の妹である手白香と結婚して皇后とし飛鳥入りしたという。
しかし、手白香皇女が継体天皇と結婚したのは、なんと彼女が62才の時で、彼女が継体の皇子を産んだことになっている。この子が後の欽明天皇なのですがちょっと変?ですよね。


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恭仁宮1



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