ヒエ塚古墳
北側の
全体像
南側の全体像
この古墳は有名でないため、ご存じ無い方も多いと思います。
そこで、先ず位置が分かるよう説明いたします。
地名でいうと奈良県天理市萱生(かよう)町の北の端に当たります。
天理市の石上(いそのかみ)神社の前を通る道があるのですが、この道を県道のバイパスとして南に向けて工事がなされています。
ところがこのバイパス道、とんでも無いところを貫こうとしています。
つまり、大和(おおやまと)古墳群の古墳を3基を壊してしまおうというのです。
仙道はなにも開発してはいけないなどと言っているのではないのです。ここは貴重な場所だから完全な調査が済むまで工事を延期するか、計画を見直して路線を変更して欲しいのです。
何も古代の遺跡だからといって全て破壊してはいけないとは思っていません。
しかし、大和古墳群は未知な部分が多すぎて、しかも、(ここが重要なんですが)大和朝廷発祥と関わりがあり、しかも邪馬台国大和説の同年代の古墳が存在しているからです。
それでは確証はないんですが素人学者が、何故、この大和古墳群に注目しているかというと、ここには珍しい前方後方墳と前方後円墳が混ざり合って存在していることなのです。
このことを説明できる人は誰も居ません。何故なんでしょう。
ニュースで取り上げたヒエ塚古墳は、卑弥呼の墓ではないかと云われている箸墓古墳と同じ前方部が三味線のバチ形をしていることなのです。
しかも、3世紀(魏志倭人伝に登場する卑弥呼の時代)の古墳なのです。
初代天皇は神武天皇(始馭天下天皇 はつくにしらすすめらみこと)ですが神武天皇と同じ名前を持つ10代天皇、崇神天皇(御肇国天皇 はつくにしらすすめらみこと)の墓が1Kmチョイしか離れていないこと。
このことの説明ができないのに道路工事で破壊してもいいものなのでしょうか。
さて、ニュースコーナで本日取り上げたのは、2002年7月30日の読売新聞に『大和古墳群の北端に位置するヒエ塚古墳の北側を調査した県立橿原考古学研究所は29日、周濠の外堤と、そこに開けられた溝を確認、溝から古墳の築造時期を示す可能性がある三世紀後半の土器が出土したと発表した。倭の女王・卑弥呼の墓説のある桜井市・箸墓古墳とほぼ同時期となり、古墳群の形成を考えるうえで貴重な資料。』という記事が載ったからです。
さらに、『墳丘の北約30mで、外堤とみられる幅3−4mの高まりを東西約80m分、確認した。
うち前方部寄りの外堤に開けられた幅8.8m、深さ1.2mの溝が4m分、出土。
周濠にたまった水を外(北側)に排出したらしい。
この溝と溝の西側にあったくぼみから壺や甕などの土器片約八百点や大量の石が出土。くぼみにはほぼ完全な形の土器約十点が残っており、何らかの祭祀に使われたらしい。
土器は箸墓古墳の周濠などでも出土した「布留0式」と呼ばれる形式。石は外堤にふかれていたもので、土器の年代は築造時期を示すとみられる。
しかし、溝は古墳築造で埋もれた集落跡に伴う可能性も残されており、今後、墳丘西側で予定している調査で結論を出していく。』とも書かれています。
考古学ファンにとっては楽しみがまた増えました。
参考までに以下に近くの古墳の資料を付けておきますので前方後方墳や古墳の大きさを参考にして下さい。
古墳名 |
所在地 |
墳形 |
大きさ |
---|---|---|---|
ヒエ塚古墳 | 天理市萱生町ヒエツカ | 前方後円墳 | 全長120m |
波多子塚古墳 | 天理市萱生町ハタゴ塚 | 前方後方墳 | 全長144m |
下池山古墳 | 天理市成願寺町川下り | 前方後方墳 | 全長120m |
西殿塚古墳 | 天理市中山町西殿塚 | 前方後円墳 | 全長220m |
東殿塚古墳 | 天理市中山町殿塚、大門 | 前方後円墳 | 全長175m |
フサギ塚古墳 | 天理市成願寺町富咲 | 前方後方墳 | 全長110m以上 |
矢ハギ古墳 | 天理市成願寺町矢ハギ塚 | 前方後円墳 | 全長120m |
マバカ古墳 | 天理市萱生町マバカ、成願寺町馬墓 | 前方後円墳 | 全長75m |
栗塚古墳 | 天理市成願寺町クリ塚 | 前方後円墳 | 全長約120m |
この他にもまだまだ古墳はあります。
発掘が済んでいる下池山古墳については石室内から木棺が出土しています。
墳丘は、西に下る傾斜地上に造られ、前方部を南に向けた前方後方墳で、全長120m、後方部の幅57m、高さ14m、前方部の長さ60m、高さ7.5mです。
古墳は葺石が敷かれ土留めがなされており、テラスも何段かあったものと思われます。
埴輪の出土はありませんでした。
付録
竹之内環濠集落
ヒエ塚古墳を取材した帰り、近くに竹之内環濠集落がありますのでチョット寄って写真だけ撮ってきました。
大和には環濠集落がいくつかありますが、その中でも、最も高位に有るのがこの集落です。
中世の大和の集落では外敵の侵入を防ぐために、集落の周りに濠を巡らし、濠外への出入り口には橋を架けて自衛していました。
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