平城宮第1次大極殿院南面築地回廊
                                               (第360次調査)      2003年8月23日


予備知識


平城京の南北のメインストリートは朱雀大路。その南端は羅城門、北端は朱雀門がありました。
朱雀門の中は天皇の住まいの他、当時のお役所があったところです。

平城宮の内部には大極殿、朝堂院といった行政、立法、儀式を行う場と、曹司というお役所の日常業務を行うところ、天皇が住んでいた内裏などがあります。

聖武天皇のときに謎の彷徨といわれた遷都が繰り返されこの間に大極殿が作り変えられています。
最初の大極殿は朱雀門の北にあり第一次大極殿と呼ばれ、立替られた方を第二次大極殿と読んでいます。
下図1でも分かるように第一次大極殿は立替の後西宮と呼ばれています。
ここは平安時代になってから桓武天皇の子供で嵯峨天皇のお兄さんである平城天皇(上皇)がここを居所にしていたと推測されており、寵愛していた藤原薬子とともに暮らしていたのだろうか?

今回の発掘は第一次大極殿南西角の部分です。








奈良時代年表

694年 藤原京に都を移す。
701年 大宝律令を制定する。
707年 元明天皇(女帝)即位。
710年 平城京に都を移す。
715年 元正天皇(女帝)即位。
724年 聖武天皇即位。
729年 長屋王の変。
740年 藤原広嗣の乱を機に恭仁宮遷都。
742年 紫香楽宮造営。
744年 難波宮遷都。
745年 紫香楽宮遷都。
     平城京に都を戻す。
749年 孝謙天皇(女帝)即位。
752年 東大寺で大仏開眼供養。
758年 淳仁天皇即位。
764年 藤原仲麻呂の乱。孝謙上皇が重祚し称徳天皇となる。
770年 天智天皇の孫の光仁天皇が即位する。
781年 桓武天皇が即位する。
784年 長岡京遷都。
794年 平安京遷都。
810年 薬子の変





















今回の発掘の全体図は下のようになります。  これを参考に以下の説明をご覧ください。





調査の経緯
今回の調査は第一次大極殿院南辺地区の変遷過程を明らかにすることを目的としています。
具体的には、南面築地回廊(ついじかいろう)の柱位置は推定通りか?
基壇の廃絶過程にかかわり、その後に造られる広場景観がどのような変遷をたどったかを明らかにすることです。



発掘調査の成果
(1)検出遺構
第一次大極殿院の時代
築地回廊に伴う遺構

第一次大極殿院は、築地回廊により区画されていました。築地回廊とは下図のように中心に築地塀をつくりその両側に柱を立てて屋根を支え、その下を通路とする区画施設です。


築地回廊の基壇は版築により造成されており、現状50cm余り残存しています。
ただ、削平をうけているため、築地塀本体の痕跡は認められなかった。


基壇上で、回廊を支える柱の礎石抜取穴を南北2列検出し、桁行4.6m、梁行7m等間であり従来の復元案と同じでした。


                                                        上の写真は柱の礎石抜取穴


左の写真は基壇部分と手前が南雨落溝です。中央部の窪みはは本来築地塀と関係のない土坑で江戸時代の焼き物が出てきたということです。

この土坑と雨落溝との間で大きな石が見えていますがここまでが基壇部分です。
雨落溝からさらに手前は小石で明らかにその違いが分かりました。



築地回廊を壊す時期(奈良時代後半753年ごろ)
東の地区に新たに対極殿が造られ、もと第一次大極殿があった場所には「西宮」と呼ばれる宮殿が造られました。(上の方の図1平城宮図 No2参照)
第一次大極殿院の施設は取り壊され、基壇も化粧石がはずされ、上部が削られたと考えられます。
築地回廊の解体にかかわる遺構として礎石を抜き取った痕跡が見つかっています。(上の写真)
加えて、築地回廊の北側で検出された瓦だまりは屋根の解体作業に伴うものと推測されます。回廊に葺かれていた瓦を周辺に捨てたのでしょう。
出土した瓦の年代観はこの推測を裏付けています。(下の写真参照)






瓦だまりは右の写真の下部に見ることが出来ます。
上部に溝が見えますが、これが北雨落溝です。瓦だまりと、上部の土の高さの差は数センチですので瓦は一重にバラ撒かれたものと推測できます。右側の土の色が違うところが築地回廊のあったところです。





「西宮」前面広場に時代
第一次大極殿院の施設が解体され、新しい宮殿「西宮」が作られた後、その南面の築地回廊との間は礫を敷き詰めた広場として整備されました。
今回の調査でも、第一次大極殿院の時代に造成された回廊基壇の上部を削平し、そこから北側へ広がる直径5cm程度の礫を敷き詰めた広場の舗装面を約14mにわたって検出しました。
下の写真で上部の瓦だまりより「礫敷」が一段高くなっているのが分かるでしょうか。



(2)出土遺物
瓦:      瓦だまりから大量の瓦が出土しました。その多くは第一次大極殿院の築地回廊に葺かれていた瓦と推測されます。
        礫敷からも瓦が多数出土しています。 これも第一次大極殿院の築地回廊に葺かれていた瓦と考えられます。

土器・土製品:埴輪・土師器・須恵器・瓦器・陶磁器が少量出土しています。いずれも細片であり、多くは「西宮」
          前面広場の時代の礫面より上の土層から出土しました。
          なお礫敷〜出土した土器はいずれも奈良時代の土器と須恵器です。

銭貨:    築地回廊基壇北側の礫敷広場から、永楽通宝(1408年初鋳)が出土しました。
        これは礫敷広場が完全に埋没するまでの期間が比較的長かったことを物語っています。





まとめ
(1)第一次大極殿院南面築地回廊の柱位置は、推定どおりの位置から検出されました。
   南面築地回廊のほぼ全面についての調査が完了しましたが、これまでの成果を改めて確認が出来たということでしょう。

(2)南面築地回廊が解体された後、回廊の北側は従来の見解どおり礫敷の広場であることも確認されました。
   また、基壇南側の一段低い場所の礫敷部分も、奈良時代後半のものである可能性が高まりました。


       以上、独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所 平城宮跡発掘調査部 の資料を基にページを作ってみました。






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