第394次 東朝集殿の調査 17年12月17日
第399次 東朝集殿の調査 18年 3月 4日

 朝集殿とは聞きなれない言葉だ。朝集殿は平城宮の東南部、朝堂院の南側にに位置し、「朝集殿院」という区画の中に道路を挟んで東西に建てられた建物である。
朝堂院なら知っておられる方も多いと思いますが。朝堂院は政務や儀式を行う場であったのに対して、朝集殿院は朝堂院で行われる儀式が始まるまで役人が待機する場所であったと考えられている。

              (第399次現地説明会資料に加筆)


第394次調査

 平城宮には2つの中枢部がある。西側は710年(和銅3)年、元明女帝が飛鳥からこの地に移したときのもの。
東側は聖武天皇が謎の彷徨のあと平城京に都を戻したときの宮城だ。
東の中枢部には北から内裏、大極殿、朝堂院、朝集殿院が南北に並び、今回発掘した朝集殿院には2棟の朝集殿が東西対称に並ぶと推定される。
この内、東朝集殿は1968年に発掘調査され礎石建ちで瓦葺きの南北棟建物であることが確認されている。
 その後、大極殿院と朝堂院には、礎石建ち建物の下層に掘立柱建物があることが明らかになり、これらの建物を取り囲む区画施設も掘立柱塀から回廊あるいは築地塀に造りかえられている。下層の掘立柱建物はいずれも奈良時代前半期のものである。
 2002年には朝集殿院南門を発掘し、南門は造営当初から礎石建ちで、下層には掘立柱の門はなかったことが明らかになっている。
さらに2003年の調査で、朝集殿院何面の区画は掘立柱塀から築地塀に造りかえられていることが分かった。
したがって、第394次調査は東朝集殿下層建物の有無を確認することであった。


 東朝集殿の基壇の規模は南北長約38m、東西18m、階段は南北幅が約4m、東西幅約1m。
基壇の東西には合計6基の階段があった。基壇上面は後世に削平されており、礎石の位置は分りにくかったと発表されていた。
基壇の周囲には幅20cmほどの浅い溝がめぐり、基壇の範囲を示すための区画溝であったと考えられる。
 基壇は平に整地した地面の上に黄褐色の山土を積み上げて築成されている。基壇の周囲には多量の凝灰岩が散乱していたことから、基壇は凝灰岩を加工した切石で飾られていたものと推測できる。

 この東朝集殿の建物は唐招提寺講堂として平城宮から移築されたという記録が残っている。
唐招提寺の講堂を解体修理した際の調査によると、もとの朝集殿の規模は南北9間、東西4間、桁行柱間13尺(約3.8m)、梁行11.45尺(約3.4m)の建物であることが分っている。
1968年の発掘調査の結果、唐招提寺講堂の前身建物が、確かに平城宮に存在し、出土した瓦から奈良時代後半の建物であることが明らかになっている。

                唐招提寺講堂

     基壇東縁の区画溝がはっきり見えている。



 17年12月17日は非常に寒い中、女性考古学ファンも大勢参加されていた。










   左下は説明会の様子。   下は出土した瓦。



第399次調査
 先ず、位置関係を見ておくことにしよう。このページのトップの図で、朝集殿院と書かれている部分の東部が下の図。
今回ここで説明しているのは、赤色で囲った第394、399次部分。


                    (第399次現地説明会資料)

今回調査部をさらに拡大したのが、下図で、出土・発掘された位置も表示されている。
                       (第399次現地説明会資料に加筆)


 第399次の発掘調査の目的は中央区では、これまでの調査で見つかっている南北道路の側溝や、「旗竿穴」の状況を明らかにすることにある。
拡張区の目的は第394次調査で東朝集殿と南北道路の間の様子を見ることや東朝集殿の前身の建物を発見することにある。

中央区
 朝集殿院中央の南北道路の東側溝、西側溝とを検出した。両側溝の間隔は80尺(24m)で、朝集殿院の中軸線を介して東西対称の位置にある。
路面上で2条の道路側溝にほぼ平行して並ぶ穴を検出している。穴の間隔は一定しておらず、一部は重複している。同様の穴は、隣接している朝堂院南門、朝集殿院南門のところでも検出しており連続していることが窺える。
この穴の性格については、平安時代に元日朝賀や外国使節団を迎える儀式には朱雀門から大極殿の前に至るまで各所に旗を立てる規定が設けられていることや、奈良時代の資料にも旗を立てた記載があることから、この路面上の穴は儀式の際に旗を立てた穴と考えられる。
重複していたり間隔が一定していないのは旗竿が複数回立てられたと考えるのが妥当だろう。

拡張区
 第370次、第394次調査では基壇下に掘立柱建物がないことが判明している。そこで、興味はこの拡張区に東朝集殿の前身の建物あったのではないかということになる。
結果は、この拡張区には掘立柱建物はなかったということだった。
そうすると、
    A.拡張区南側に広がる未調査範囲に前身建物が存在する。
    B.東朝集殿のさらに東側に前身建物が存在する。この場合、東面築地塀の下位で掘立柱建物が見つかることになるが
      奈良時代前半の東面掘立柱塀の位置から見て可能性は極めて低いと想像できる。
    C.前身建物は存在しない。
      この場合、基壇ないし基壇建物が奈良時代前半から存在した可能性と奈良時代前半には東朝集殿が存在しなかった
      可能性の2つが考えられるが、小生が考えるには後者の存在しなかった方ではないだろうか。


説明会の様子
現場での説明会の様子

中央区全景(南西角から)

中央区西側
青い線が引かれているのが西側側溝。その左側に
旗竿穴列がはっきり見える。間隔は一定ではない。

左の写真は中央区の北の端で発掘された東西溝。
西側側溝と交わっている部分を撮影してみた。
第267時調査で8m隔てて平行する2条の東西溝を検出しているが、その南側の溝である。

南北道路の側溝とこの東西溝とどちらが古いかは、南北溝が東西溝を貫いているという重複関係から東西溝の方が古いことがわかる。第267次の出土遺物からこの溝は奈良時代初頭には既に掘られていたものだろう。

拡張区を西側から撮影

拡張区には建物跡は発見されなかったが、このような小穴群が発見されており、説明会の時点では何の跡か解明はされていなかった。
おそらく敷石が敷かれていたのかも知れないが結論を出すのは時期尚早であろう。



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