山城町 高麗寺  山城町教育委員会 高麗寺跡史跡整備委員会 17年12月23日

  日本最古の寺といえば蘇我氏によって建てられた明日香村の飛鳥寺が思い浮かぶ。
ところがこの高麗(こま)寺というのは7世紀初めに創建されたとされているのだ。
古朝鮮三国の高句麗から渡来してきた氏族である狛(高麗)氏による創建だろう。

昭和15年に国の史跡に指定されており、これまでの発掘調査で、寺域は一辺が約200mと確定され、創建当時、飛鳥寺と同型の瓦が使用されていることなどが分かり、金堂、講堂も発見され仏教の歴史・文化を考える上で重要な寺院であるといえる。


 本格的な伽藍整備は、やはり天智天皇により創建されたと考えられる明日香村の川原寺の創建瓦が使用されており、大津宮遷都(667)前に開始されたものと考えられる。
高麗寺の廃絶については、はっきりしないが、長岡京期(8世紀末)での修理を最後として、平安時代末頃(12世紀代)までには完全にその運命が尽きたと考えられる。
 文献資料では『日本霊異記』に天平年間のこととして高麗寺僧栄常の記事があり、『今昔物語』他にも同様の説話が収録されている。
               (以上黄色字部分は当日説明会資料より引用)

 説明会は午前10時半、午後1時半の2回あったが、午前の説明会に出かけた。
私もそうだが、発掘の説明会というとどうしても年輩の方が多い。
私なんぞはまだまだ若造というのか、「ひよっこ」なのである。


下に伽藍配置図を載せておきました。
金堂と塔が法隆寺と左右逆になっている。
これを法起寺式伽藍という。
中門から回廊が左右に伸び、金堂、塔を囲って講堂まで続いていたようだ。
 この塔芯礎は基壇表面からかなり地下深くにあった。
塔は飛鳥時代のものは地中深くに礎石があり、がっしりと造られていた。
しかし、塔の構造上、中心の柱で建物を支えるのでなく
、回りの柱で支えるようになり、礎石の位置が表面に上がってきた。

建築については素人なのでよく分らないが、地中に柱を埋めると腐敗が避けられないからではないだろうか。
 右の写真が塔の基壇で、塔の南西部の角である。
ここは、昭和13年に一部調査され、昭和62年の調査とあわせて基壇が一辺12.7mの正方形であることが分かっている。
その周囲には約1.65m幅の石敷きが巡らされいる。

説明では、この大きな石の石敷きは白鳳期に敷かれたもので、平安時代初頭にバラス状の小石を5cm程度敷いている。
この様子は下の写真で左側が、白鳳期の石敷き、右側が平安期のバラスがハッキリ分る。
(今回の発掘ではこの様子を見せるため、あえて右側のバラスを残してある)
 奈良時代の寺院の基壇は花崗岩や凝灰岩で作られた石組や化粧石で造られているため今回これだけの瓦が整然と組み込まれているのは実に素晴らしい。


 塔の基壇と金堂の基壇の間の様子は左のように瓦の瓦礫で埋まっていた。
おそらくは金堂か塔が倒壊したことにより、瓦がここに崩落したのだろうか。
狭い範囲に堆積しているのがはっきりと見て取れる。

左の石敷きは金堂基壇の周りの石敷きである。

 左の写真は塔の西側の金堂。その基壇の南東角。
この写真の一つ上の写真の石敷きが、この写真の右側中段部の石敷きである。

写真では分りにくいが、金堂の瓦積基壇は手前に傾いている。
昭和13年の調査時ではこのような傾きは無かったらしく、この70年余りの間に傾いてきたことになる。
埋め戻しの方法に問題があったのだろうか。これは発掘調査のあり方に一石を投じた格好だ。

下の写真の説明の方の前には階段裏込めが発見されました。
ここに階段があり金堂の東西の中央部と想定できる。
この検出した石敷きおよび階段裏込めは、塔跡石敷きでのバラス敷設時期に対応しており、石敷きの改修および階段の設置時期は平安時代初頭ということになる。
この階段裏込めが東西の中央とすると、この基壇の大きさは東西16.0mということになる。
 金堂基壇の西側は昭和10年にこの辺りを平らにするために大きく削り取られてしまっている。
しかし、そのために右写真のように版築の状況がよく見えるようになった。
版築とは、建物を建てる際、土台部を固めるため粘土、砂など質の異なる土を交互に盛り、付き固める工法のことである。

 以上西側から瓦積基壇の様子をもう一度撮ってみた。

今回の発掘とは関係がないが、講堂はこのような形で礎石が露出している。
この下にも瓦積基壇が存在していることは容易に想像がつく。

下の写真2枚は中門東側の南辺回廊部分。回廊内の雨水の排水路だろうか、石敷きの暗渠ともいうべき水路が確認できる。
中門・南辺回廊基壇を構築するための基壇とその周辺に形成された瓦溜りの様子。
上の伽藍配置図の中門のところの斜めの線は現在は細い道路になっている。
したがって中門の大部分はこの道路の下にあり発掘することは出来ない。

出土品の紹介の前に予備知識を入れておこう。
ストゥーパという言葉をご存知だろうか?
ストゥーパとはサンスクリット語で、日本では音読されて卒塔婆、略して塔婆、塔とも言われるようになった。
釈迦が亡くなり荼毘に付されとき、その遺骨(仏舎利)は八つの国の王に分骨された。そして墓が造営され、これがストゥーパなのである。
後にインドを統一したアショーカ王が八分骨されていた仏舎利を回収し、84,000に再分骨したといわれている。仏教がインドから中国に伝わり、当然、ストゥーパも造営された。形状は多層化し、六角形や方形化していく。
日本に伝わってきた頃にはインドのような半球形ではなく、三重塔や五重塔の形状だったと思われる。
 この塔の頭頂部にはご存知のように相輪という細長い棒状の芯が立っている。
この芯を擦管と呼ぶのであるが、今回の発掘調査ではその擦管の一部が出土したのである。


 相輪の上部には水煙と呼ばれる飾りがあるが、下の写真のように今回発見された擦管は水煙の付近のものだそうだ。
表面に金メッキが施された銅製品でこのような形で出土したことは当時の技術の高さには驚かされた。
その他の出土品は丸瓦、軒平瓦、風鐸鋳型などであるが、これらから高麗寺が7世紀初めに創建されたことを裏づけされるのである。






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