史跡および名勝笠置山             平成17年12月23日
                                                    (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター

 発掘の話に入る前に笠置山の歴史に触れておきます。
笠置山では弥生時代の有樋式石剣が磨崖仏の前で発見されており、弥生時代からすでに人々との何らかの関係があったことが窺える。
『今昔物語』などによると、笠置寺が奈良時代に創建され、奈良・平安時代には修験道の聖地として人々に知られていた。
平安末期、末法思想の広がりとともに笠置詣でが行われるようになり信仰を集めていたようだ。
1191(建久2)年、解脱上人(藤原貞慶)が興福寺から笠置寺へ移った頃が信仰の山として全盛期を極めた。

 鎌倉末期になると世の中は鎌倉幕府と後醍醐天皇の対立の構図がはっきりとした形で現れてきた。
1324(正中元)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を企てて失敗している。後醍醐天皇は赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となっていた。
正中の変後、後醍醐天皇は再び倒幕計画を進めたが、これも吉田定房が六波羅探題に密告し計画は事前に発覚する。
そして後醍醐天皇が逃れてきたのが笠置寺だった。
1331(元弘元)年、後醍醐天皇は笠置山、天皇の皇子である護良親王は吉野で、河内国の楠木正成は下赤坂で挙兵した(元弘の変)。
しかし、幕府は大規模な軍勢を派遣し、笠置山、吉野、下赤坂城とも陥落したのであるが、この元弘の変で笠置寺は千手堂、六角堂、大湯屋を残してことごとく焼失してしまった。

 笠置寺は1381年、本堂を再建するも1398年に炎上。現在の本堂(正月堂)は文明年間(1469-87)に建てられたものである。

 戦国時代には山城国守護代の木沢長政が笠置山に山城を建て1541(天文10)年に戦いがあったことが「多聞院日記」に記録が残っている。
笠置寺は江戸中期より荒廃が進み、明治初期には無住の寺となってしまったが、現在は復興が進み、磨崖仏、巨岩のある行場めぐりなど周回コースが整備されている。
17年12月21日の朝日新聞朝刊に以下のような記事を発見。

『鎌倉時代末期、討幕に失敗して都を追われた後醍醐天皇が立てこもったとされる京都府笠置町の笠置山で、当時のものとみられる焼土層を確認したと、府埋蔵文化財調査研究センターが20日発表した。鎌倉幕府が笠置山を焼き打ちしたとされる1331年の「元弘の乱」を裏付けるものとしている。

 調査では、山を貫く自然歩道の両側15カ所で計約500平方メートルを発掘。歩道脇の谷の2カ所で、厚さ20〜30センチの焼土層を確認し、周辺から南北朝期ごろの作とみられる特徴の土器が出土した。「太平記」などに記述されている元弘の乱の際に、大規模な火災に見舞われたことをうかがわせるという。調査地南側では、土塁や堀の跡が確認された。

 現地説明会は23日午後2時、JR関西線笠置駅の南東約600メートルにある笠置山駐車場に集合』


ということで高麗寺発掘に引き続き笠置に出かけた。

 笠置山というのは標高288mでそんなに高い山ではないが、景色はこんな感じで山奥であることは分っていただけるでしょうか?

 右と下2枚の写真は第11トレンチの写真。
笠置寺の主丘陵から伸びた幅広い尾根上に柱穴を確認。
ここは鎌倉後期に整地したの建物を建てたようだ。
右の写真は北東から撮ったもので、下の写真は南西から撮ったもの。

建物のラインも東西南北の正方向に建っているのではなく、おそらく六角堂の方向に向けて建てられたのではないだろうか?


第4トレンチです。
平坦面は山を削り人工的に造成されている。

 ここには上の写真のように、五輪塔のうち火輪が転がっている。
おそらく戦乱のあったときに壊されたものだろうか。
この一辺は約60cmの大きさ。

左の写真は少し離れたところにあった、同じく五輪塔のうちの水輪があった。


説明
五輪塔は「宇宙の五大要素」を象徴しており、それぞれ上から空・風・火・水・地を表している。
この辺りは墓地として使用されたほか周辺で完成品を含む土師器皿が多数出土し、土釜もあることから生活場所として機能していたようだ。
時期は鎌倉時代後期から南北朝期。



第2トレンチ
ここには土塁と空堀とが現存していて、山城の出入り口である虎口部分に相当する。
このことは太平記に「岩を切り取って堀とし、石を積み重ねて城壁としている」とされていることに関係がありそうだ。

左の土塁は上部が削平されているものの、こんな感じではっきりと分ります。


ここでは古瀬戸碗が出土したことから戦国期に使用された土塁と空堀であろう。
第3トレンチ
 ここの空堀は深かった。
説明では、先ず、幅4m、深さ2.5mの大きな空堀が掘削され、一時期使用されたものの1mほど埋め立てられた。
そして戦国期に当初の半分の幅で掘り直されたということだった。

堀跡はV字型の尾根の頂点に設けられており、自然の地形を利用した防御装置だったといえるものだ。



第6、第7トレンチ
 上層は江戸時代の堆積層だったが、下層で焼土面を確認された。
実際には20〜30cmの焼土が堆積しており大火災があったことがことが窺えるものである。
焼土面には石畳状の石があり、横は硬く叩き締められた状態で、おそらくは建物の土壇であろう。
時期は鎌倉時代後期から南北朝期。


第9トレンチ
 ここも一時期は空堀で城の防御施設と考えられる。
しかし、写真のように下層に焼土層を確認できた。



 最後にご住職さんに案内していただき、笠置寺も拝観させていただきました。





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