宇治市街遺跡(里尻36)                         17年9月23日

 新聞で発掘調査の記事を読んだとき何故か場所も確かめずにJR奈良線より南側と思ってしまった。
というのも宇治市街遺跡という名前と平等院が南側にあるからだ。
宇治駅の北側というと市街地というイメージはない。
この発掘現場はユニチカの前身の一つである日本レイヨンの工場があったところだ。
工場といっても木造の建物で、現在のようなコンビナートにあるような工場建物でない。
したがって、地表から1m程地下に埋没していた遺跡は守られたのだった。
今回、この地に病院が立つということで調査が始まった。

 発掘は南北60m、東西50mの広さで、過去20回実施した宇治市街遺跡の発掘では最大規模だそうです。
今回の調査ではこの遺跡は2層に別れることが分りました。
上層が平安時代から江戸時代、下層は古墳時代から奈良時代ということです。それで調査区を南北の地区に分けて、南地区は上層を、北地区は下層まで調査したということです。

南地区



平安時代後期の遺跡が集中している。
左の写真は柱穴や礎石が発掘され大きな建物が建てられていたことを窺わせている。
また写真奥の説明版の辺りは塀跡の柱穴が見つかり、その奥は流路跡が残っています。
これだけを捕えても一般市民の家跡とは云えないでしょう。


下の写真は1辺が1.5mもある大型で緻密な組み立てになっている井戸です。
何度か発掘現場に行っているが、これだけの大きな井戸を見るのは始めてである。

この木枠を作っている板の幅は15cm、太さは5cm(見た感じ)もあり、それが二重構造になっている。


南地区の洲浜の石敷きは見学位置からは見えなかったので北地区の石敷きを写真に撮った。
北地区側は尖った石でできているが、南側の石敷きは丸みのある石で造られている。
これはおそらく、南側はその洲浜の石敷きまで歩いて(散歩?)行くことができるのに対して、北側は泉水を挟んで眺めるためだったからなのだろう。
井川

 太閤秀吉が宇治川の流れを変えて伏見に水を引き、大阪湾から京都までの水上交通を可能にした。
そのため小倉地区には農業用水が必要となったため、江戸時代に用水路を作ったのが井川である。
その井川の跡が今回の発掘現場で現れた。
左の写真は南側から北向きに撮った写真。東西に石組の護岸が見える。
右の写真は東側から西向きに撮った写真。左右の護岸が整備されているのが分る。
幅は約5m、深さ約1.5m。日本レイヨンの工事により大正15年に埋め立てられた。 現在の井川用水路は平等院の東側を取水口として宇治市の地下を通っている。

 平安時代、ここに貴族の屋敷(別業(別荘))があり、鎌倉時代、室町時代に荒廃して江戸時代に用水路が掘られた。
こんなところでしょう。
ところで、今年のNHK大河ドラマは「義経」。その義経が大将として初めて戦った「宇治川の戦い」で義経は多分この辺りに陣取っていたと推測しているのですが。
さてさて、左の写真は何でしょう?
犬の頭大の石が見えますね。それじゃなくて小さな土器の破片みたいなの。いっぱい発見できる。

これがその破片。
 今の時代、1回限りの食器って何だろうと考えたら、紙食器を思いついた。
「かわらけ」ってご存知でしょうか。平安時代貴族の間では宴会で使う食器は1回しか使わなかった。この食器を「かわらけ」という。
現在では「三三九度」、「かわらけ投げ」などにその姿を残している。

 清少納言の「枕草子」第151段に『すがすがしと見ゆるものかわらけ あたらしき鋺(かなまり) 畳にさす薦(こも) 水を物に入るる透影(すきかげ) あたらしき細櫃(ほそびつ)』という文を見ることができる。
「かわらけ」は素焼きの食器だ。一度使うと汚れが落ちないため使い捨てするしか仕方がない。
だから、使うときはいつも新品だ。それを清少納言が「すがすがしとみゆるもの」といったのだ。
それで上の写真は使い捨ての「かわらけ」の破片です。 そこら中からいっぱい出てくる。おそらく何万枚もの「かわらけ」がここで消費されたのだろう。
ということはこの別業邸宅では何度も宴会のようなことが行われた。
寺院であった平等院の発掘ではこのような生活感のある遺物はあまり出てこない。



北地区




南地区と北地区の間には平安時代は園池があった。さらに掘り下げていくと流路があったことが窺える。
したがって園池はこの流路を利用して作られたと考えるのが普通だろう。

流路内から完全形の土師器皿や和同開珎、祭祀に使ったと見られる馬骨、木製祭祀具などが出土したようだ。

南側の建物から北を望むと園池を通して巨椋池、桃山、比叡山が借景ととして雄大な眺望が開けていたのだろう。

こちらも洲浜の下に流れていた流路。

            鎌倉時代の井戸。
上の四角い井戸とは大きさが全然違います。
写真の四角い木枠の1辺は50cmもなかったと思います。

         古墳時代から飛鳥時代の柱穴群。
巨椋池の水辺に集落があったことを示している。宇治に貴族の別業が建ち出すと強制移転させられたのだろうか???

同じく古墳時代頃の竪穴住居跡


出土品
調査範囲が広かったこともあるが、今回は大量の出土品が出た。
地元紙、洛南タイムズでは『10tダンプで運んでも1台や2台ではすまない」というおびただしい土師器皿や素焼きの小皿が土中から現れた』と表現している。

       古墳時代から奈良時代の土師器
とはいえ、かなり精巧なものだ。

          白磁、灰釉陶器、瓦器碗

            平安時代の土師器

祭祀に使ったのか馬の骨であるが、加工痕跡も見られた。
この馬の骨は触ることができなかった。

             温石(おんじゃく)?
これだけでは用途は不明だが、真ん中にあいている穴から想像するに温石ではないだろうか?
火で暖める時には火箸を、湯で温めるなら紐を通していたものと思われる。

            かわらけ 燈明皿?
黒い部分は煤(すす)である。この皿に油を注いで芯を皿の縁まで伸ばし、その芯に火を灯していた。
油が少なくなってしまうと皿の内側まで火が回ったのか?

     人形(ひとがた)?、木球、???
墨書が見られるものの判読は不明。木球はその名の通り木のボールである。
用途は不明であるが遊び道具のような気がした。

この瓦は平等院の瓦とほぼ同じものだ。
平等院の瓦はその荘園である東大阪市(平安時代では若江郡玉櫛荘)で焼き上げられたもの。しかも、この瓦は大阪、奈良では使用された痕跡は無く平等院だけであることをものの本で読んだことがある。
平等院は藤原頼通によって寺院に改変されたもの。
と言うことは今回発掘されたこの瓦は、この建物が藤原氏と深い関係にあることが類推できるだろう。





まとめ
 今回見つかった庭園を持つ南地区の平安期の邸宅遺構は年代的には11世紀後半から12世紀にかけて建てられたもので、おびただしい使い捨て食器の「かわらけ」の痕跡、他に類を見ない大井戸、平等院と同じ玉櫛荘で生産された瓦等を見てみると藤原氏の別業であると考えるのが自然だろう。
11世紀の藤原氏の別業は藤原頼通の宇治殿・池殿、藤原師実の泉殿、藤原頼長の西殿など10別業であるが、これらの内のどれかかも知れないし、また記録に残っていない別業かもしれない。
これを解明するにはもう少し南側の邸宅部分の調査も必要だろうと考えるが、病院が建てば駐車場となり、今後調査がされることは当面ないだろう。
 この他、当日配布資料には巨椋池に面した岸辺と思われた一帯に別荘が建ち並んでいたこと。
しかも、水害に弱い湿地帯であると考えられていたがそうではなかったこと。
別業邸宅群が東西2km、南北700mの広がりを持ち、奥州藤原氏の「平泉」、鎌倉幕府の「鎌倉」に匹敵する大きさであることが分ったことが書かれていた。

                                     (参考 宇治市歴史資料館による当日配布資料)



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