吉野                  


今回は桜の季節ということもあり、81回例会に引続き楠木正行ゆかりの吉野にしました。

はじめに吉野の歴史について少しだけ見ておきましょう。
吉野町には吉野川流域で最大の遺跡「宮滝遺跡」があります。
ここからは縄文時代後期の土器が発掘されています。
「日本書紀」には、656年斉明天皇が「吉野宮」を造ると記されています。
671年、壬申の乱の前年に大海人皇子が天皇譲位を辞退し、出家して吉野宮へ移り住むことにしています。
天武天皇の死後、妻の持統天皇が吉野へ32回も行幸を繰返しています(これは謎だ)し、文武・元明・聖武天皇も吉野行幸を行っています。
同じく671年に役行者が蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻んでいます。
698年朝廷が吉野水分峯に馬を捧げて雨乞いをしています。
平安時代は宇多上皇、藤原道長、頼道、師通、白川上皇ら金峯山寺に詣でており、
鎌倉時代前には源義経、静御前が頼朝に追われ吉野に身を隠しました。
1318年後鳥羽天皇が即位しましたが、鎌倉幕府は朝廷に介入する姿勢を強めており天皇家もそれに伴い親幕府派の持明院統と反幕府派の大覚寺統の二つの流れに分裂していました。
後醍醐天皇は正中の変・元弘の変と二度にわたって討幕を計画しましたが、それらは失敗に終わり天皇は隠岐へと流されてしまいました。
しかし、足利尊氏、新田義貞らの味方により鎌倉幕府を倒し建武の新政が始りました。(ただこの新政の方法がまずかった?)
味方だった足利尊氏も後醍醐政権から離反して京都を占領してしまいました。北畠顕家率いる軍勢によって尊氏は一時九州に撤退したが、息を吹返して再び京都に攻上ってきたのでした。(歴遊会81回記録参照)
尊氏は持明院統の光明天皇を即位させたのですが、後醍醐天皇は吉野に逃れて吉野朝廷を樹立し、ここに京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝時代が始まったのです。
1339年、後醍醐天皇崩御、後村上天皇即位。
1347年、楠木正行、後醍醐天皇に別れを告げ如意輪寺に歌を書残す。
1348年、高師直(こうのもろなお) 軍が攻め入つて蔵王堂、仁王門、銅の鳥居などを焼く。
1579年、末吉勘兵衛が桜1万本を寄進する。
1592年、建立後数度焼失した蔵王堂を再建。
1604年、豊臣秀頼が水分神社や奥の院の諸堂を再興。
ざっとこういったところでしょうか。


金峯山寺(きんぷせんじ)

 吉野といえば桜で有名なのですが、修験者(山伏)の修行の地としても有名なところです。
吉野山から山上ケ岳(大峰山)にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と総称し、古くから霊山として崇められています。
白鳳年間(7世紀後半)役行者(えんのぎょうじゃ 名は小角(おずぬ))がこの金峯山で修行に入り、過去・現在・未来の三世に亘り衆生を救済する金剛蔵王大権現を感得し、その像を自ら山桜の木に刻み祀ったのが金峯山寺と大峯山寺の起源です。
以来、修験道の根本道場として栄え、数多くの塔頭がたち並んでいましたが、明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、廃仏毀釈の世の中で金峯山寺は廃寺となりましたが、同19年(1886年)に天台宗の仏寺として復興した経緯があります。



          黒門                    銅の鳥居                       仁王門
黒門
黒門は金峯山寺の総門でいうなれば吉野の山全体の総門と言うことができます。ここをくぐると吉野に来たと感じることができます。
何となく城にあるような門に見えませんか。 そうなんです。こういう門の様式を高麗門といい城郭に用いられています。
昔は、公家大名といえど槍を伏せ下馬しなければ通れなかったという格式の高い門だったのです。


銅の鳥居(かねのとりい)
この鳥居は安芸の宮島の厳島神社の鳥居と大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居の一つと言われています。(鳥居横の説明に書いてありました。)
高さ8mの柱の回りが3mあるそうです。
額束の「発心門」という字は弘法太子の筆であると伝えられていますが、吉野山は度々の火災にあっていますので再建に再建を重ね、今の鳥居は1455(康正元)年に建てられたものらしいです。
もう一つ興味のある話、当初この鳥居は奈良の大仏様を作ったときにに余った銅で作られたということなんです。


蔵王堂

 金峯山寺の本堂が「蔵王堂」です。
正門にあたる仁王門は山裾を向いているのに対して、この蔵王堂は山頂を向いて建てられている。
これは仁王門は下界からお参りに来る人を迎え、蔵王堂は山上ヶ岳から巡礼してきた人を迎えるためだからとという。
現在の建物は1591(天正19)年に再建された室町時代の建物で、高さ約34m、間口約36m、重層の入母屋造り桧皮葺き、東大寺大仏殿の次に大きい木造建築だというのだから驚きである。









さらに、柱は68本ですが自然木をそのまま使用していて、いろいろな種類の木が使われています。(松、杉の他梨、つつじ?も使かわれています。)
木の堅さや乾燥の度合で大丈夫かな?
でも左の写真がつつじの柱なんです。
寺の人に「本当につつじ」と聞いてみたんですが、つつじの原種と言うことでした。
内陣の2本の金箔張り化粧柱や須弥檀は、桃山時代に太閤秀吉が寄進したものといわれています。本尊は金剛蔵王権現像(重文・三体)で、いずれも大きく7〜8mの像です。それぞれ厨子に安置されていますがこれまた大きいものです。







       増長天                   金剛蔵王権現像                        持國天



勝手神社(かってじんじゃ)


創建は不明とされていますが、説明書によれば「一説に、孝安天皇6年(紀元前386年)と伝えられ、
祭神は天忍穂命、大山祇命、久々能智、木花咲耶姫命、苔虫命、葉野姫命の六神」と書いてありましたが、
孝安天皇自体の実在が不明なため、また紀元前386年というのは誤りでしょう。
あくまで、「一説によれば」です。

この神社は大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱の始りにあたって、神前で琴を奏でていると天女が舞い降り、
吉兆を示したという伝説があります。

これも説明書なのですが、1185年(文治元年)暮れ、義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前が
従者の雑色男に金銀を奪われて、山中をさ迷っている処を追っ手に捕らえられ、雅な姿で法楽の舞を居並ぶ
荒法師達の前で舞わされたとあります。

さて、上の写真を見ていただければ分ると思いますが、去年(平成13年9月27日)不審火により焼失しました。
まことに残念なことです。
それで、ちょっと調べてみたのですが、この神社は1604(慶長9)年、豊臣秀頼が改修しているんですが、1644(正保1)年12月に焼失しています。
翌年に再建されましたが、1767(明和4)年にも焼失しています。
そして昨年またも焼失ということです。
     よく焼失するなぁ!
本来ならば三間社流造りで檜皮葺の優美な社が見られたのですが。






吉水神社

 蔵王堂から少し下ったところに吉水神社があります。
吉水神社は役行者が創立したと伝える修験道の僧坊であり寺院でした。後醍醐天皇は京都から逃れ、ここを南朝として行宮(吉水院)を定めたのでした。
ここが現在のように神社となったのは、明治の神仏分離政策によるものでそんなに古い話ではないのです。







造りは書院造で、日本最古のものだそうです。ここは後醍醐天皇ゆかりの場所というだけでなく、源義経がかくれ、豊臣秀吉が花見の本陣ともなっています。
中を見ると義経潜居の間、その隣には弁慶思案の間もあります。あまりに狭すぎて大男(実は知らないのですが)ここに居たとは思えないのですが・・・・・。
そして後醍醐天皇の玉座の間(秀吉により改修)が残さ れていますがこれは立派なものです。






如意輪寺
 以下パンフレットから抜粋ですが、よく分らない話です。
創建は延喜年間(901〜23)と伝えられ、文章博士三好善行の弟で醍醐天皇の帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定め給うや勅願所となった。
1346(正平2)年楠木正行公一族郎党143人と共に参詣の事があった。
正中いらい寺運衰退したが、のち、1650(慶安3)年文誉鉄牛上人きたり、本堂を再興し、真言宗を改めて浄土宗とし、念仏を弘通(ぐつう)し、ひたすら、御陵の守護に任じた。

1339(延元4)年、後醍醐天皇は病床に伏し、
     身はたとへ南山の苔に埋むるとも
         魂魄は常に北闕の天を望まん

と望郷(京)の思いが強かったのですが、吉野に来て4年後に崩御されました。
次帝後村上天皇の正平2年2月27日、楠正行が四条畷で足利軍との戦に出陣の際、この寺の板扉に辞世の歌を鏃で書き残しました。
宝物殿にはこの板扉をはじめ南朝関係の資料を陳列しています。
境内には正行一行の髪を埋めた鬢塚(もとどりづか)もある。
また宝物殿に安置されている蔵王権現像(重文)は鎌倉時代中期、1226(嘉禄2)年の作。


写真は

 かゑらじと かねておもへば 梓弓
     なき数に入る 名をぞとどむる



楠木正行が鏃で掘った直筆の別れの歌です。












後醍醐天皇陵
後醍醐天皇は1288(正応元)年11月2日生れ、在位は1318(文保2)年〜1339(暦応2)年8月16日(崩御)
父:  後宇多天皇
母:  談天門院忠子
御陵: 塔尾陵(とうのおのみささぎ)

後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子として生れ、母は藤原忠継の娘談天門院忠子なのです。
祖父の亀山天皇に養育されましたが、後宇多天皇の第一皇子邦治親王が死亡した為、1308(徳治3)年、持明院統の花園天皇の皇太子となり、1318年に即位しました。
このときは後宇多天皇の院政が幅を利かせ特筆すべきもは見あたりません。
1321(元亨元)年12月にやっと実権を握ることが出来ました。
しかし「皇位継承権は後二条の家系とする」という事に不満を持っていた後醍醐天皇は、自分の子供達に皇位が嗣げるように策を練ったのです。
その一つの対策として鎌倉幕府を倒すことだったのです。


1324年(正中元)、花山院師賢、四条隆資、洞院実世、日野資朝、日野俊基、足助重成、多治見国長らと鎌倉幕府を倒そうと、無礼講と称して密議を行っています。
しかし、土岐頼員や遊雅法師がこの密議を密告したため倒幕計画は失敗に終り日野資朝、日野俊らが捕えられました。(これを「正中の変」という。)

しかし鎌倉幕府倒幕の思いは強く、これも作の内の一つだったのでしょうか、息子の護良親王を比叡山延暦寺の座主に据えています。
1330(元徳2)年3月、各地に行幸を行い東大寺、興福寺の僧兵を味方に付け、翌年再び倒幕を企てました。


しかしこれも幕府の実力を恐れる天皇の側近、吉田定房によって密告され失敗に終っています。
ここにいたって幕府はついにこれを許さず、日野俊基らを捕へ、次に後醍醐天皇を捕えることを検討し始めました。
これに対して天皇は山城の国、笠置山に逃れ兵を挙げ、楠木正成は河内赤坂城で兵を挙げました。
しかし頼みの延暦寺は護良親王を追出し僧兵が幕府側についてしまい、楠木正成は幕府軍の攻勢の前に落城し、後醍醐天皇も捕らえられてしまいました。(これを「元弘の変」という。)

1332(元弘2)年隠岐島に配流されるが、同年中に護良親王は吉野で、楠木正成は再び赤坂で挙兵し、翌年閏2月隠岐を脱出、豪商名和長年に迎えられて船上山に立てこもり、鎌倉幕府と対決していくのです。
そして幕府側の足利尊氏は幕府にそむいて六波羅探題を攻め、関東では新田義貞が幕府の本拠地の鎌倉に攻め込み、5月22日、北条高時は東勝寺で自害し果てることとなったのです。
天皇は6月5日、無事帰京すると光厳天皇を廃すとともに年号を元弘に戻し、平安時代以来の公家政治にもどしたのでした。

翌年、改元し建武とし、真っ先に行ったのは幕府も院政も摂政・関白も否定して天皇親政の政治とすることでした。
さらに天皇は雑訴決断所などを設置し、諸国に守護と地頭を併置し天皇親政の政治機構を整えたのです。
しかし新政府の内部では討幕の功労者足利尊氏と護良親王との対立が激しく、護良親王派の北畠顕家が奥州に陸奥将軍府を作ると尊氏の弟直義も鎌倉将軍府を作ったのでした。
尊氏が勝手に開幕した為、天皇は北畠顕家を鎮守府将軍兼務を命じて対抗、後醍醐天皇は足利勢に攻められたが、北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの活躍で救出され、尊氏は九州に逃れた。
しかし、9ヶ月後尊氏は勢力を挽回し大軍を率いて京に進撃、正成らがそれを阻止すべく湊川に出陣したが敗退し自刃したのでした。
天皇は1336年12月21日尊氏の攻撃の備え吉野へ逃れて南朝を興しました。
天皇の思いは京都に戻ることだったのでしょう。
機動力のある天皇でしたが今回は病に倒れ京都に戻る夢は果せなかったのです。
山陵は円墳だそうですが、天皇の無念を現しているのか通常の天皇陵は南を向いているのに後醍醐天皇陵は北方の京都に向いているのです。





吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)
祭神は水を司る天之水分(あめのみくまり)大神で延喜式にも名を連ねた古社で、大和でも有数の水分社のひとつ。
「みくまり」とは農耕の神様であったのが、みくまりが「御子守」(みこもり)となまって身籠もりの神・子宝の神となったといわれています。(俗に子守さんと呼ばれて親しまれています。)
社殿は豊臣秀頼の再建で、父の豊臣秀吉が水分の神に祈願して秀頼を授かったとされ、本殿、拝殿、弊殿、楼門、回廊からなる桃山時代の建築です。
「水分の神の誓ひのなかりせば これのあが身は生まれこめやも」
本居宣長もこの神の霊験によって生をうけた一人で何度も参詣し歌を残しています。




吉野葛

葛はアジア原産の多年生マメ科のツル性植物なのです。
こう書くと葛は豆から採るのかと思いがちですがそうではなく根から採るのです。
葛の繁殖力は旺盛で他の植物の成育をも阻み、死滅さてしまうとのことです。
茎はつるとなって樹木にまとわりつき枯死させたり、河原などでは他の雑草の生育を許しません。
左の写真に縦てに2本の棒のようなものがあります。
これが葛の根なのです。
この葛根を粉砕し、葛のあくを地下水で何度も精製(根の下側に見える白い部分)して、これを乾燥させると葛になります。


真ん中は甘味を加えて干菓子にしたもので、その下にある豆腐の様に見えるのが乾燥させた葛粉です。
これは無味ですが吉野葛の特徴で口に入れてもすぐに解け、ザラつき感もありません。
粒子が細かいのでしょう。









陀羅尼助


吉野の町を歩いていて陀羅尼助の薬屋さんを見つけました。
私の小さい頃には家庭の常備薬としてどこの家にもあったように記憶しています。

貰ったパンフレットには、「大峰山の開祖である役行者(役小角)が今から千三百年前大峰開山の砌り山中に生え繁る所謂生薬中の黄柏を以って其のエキスを取り胃腸の病をはじめ色々な内 蔵、外傷に薬効のある事を知り、広く人々の病に困りたる人を助けんと、御自分の念持佛である孔雀明王陀羅尼経を唱えてこれを製し「陀羅尼助」と名付けて施薬を行っ たもので再来千三百年間吉野山に傅承制約されて居るものであります」とあります。

右の蛙は薬屋さんの商標である三本足の蛙です。
蛙は四本足で五本の指ですが(筑波山のガマ蛙は四・六らしい?)、この蛙は三本足で三本指なのだ。
 変なの!
明治の登録商標の第十一号という古いものでります。




文句を言いたい。
 今回はメンバー10人で行きました。
この内3人が吉野の駅前で「柿の葉寿司」を買ったのですが、メーカ(お寿司屋さん)は2種類でした。
お昼御飯を食べだして気が付いたのですが、「柿の葉寿司」にのっている鯖があまりにも薄いのです。
向う側が透けて見えるような薄さです。そう、1mmもないのです。それに御飯部分に比べても2/3ぐらいしかありません。
当然に魚の味も僅かになります。
名物に美味いもの無しかと思って他のひとの「柿の葉寿司」を見ると鯖の身の厚さが3mmぐらいあるのです。
それに、身の大きさも御飯部分を全部被っているのです。
「なんだこりゃ」
これはひどいじゃないか!    仙道は怒っているのだぞ!
一つ交換して食べましたが、味は魚の大きい方が少し甘みのある寿司飯で私のは酸っぱいだけの飯でした。
皆さんよく選んでから「柿の葉寿司」を買いましょう。
値段は美味しい方が10個入1200円、まずい方が8個入1000円です。
美味しい方のお寿司屋さんは「ヤマトの柿の葉ずし」の文字が見えています。
まずい方の「柿の葉寿司」はこれより濃い緑色の包紙でしたよ。



               第81回(四条畷)     第83回(安土)


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