平等院

 平等院はどなたでもご存じと思います。
それで、今回はあまり知られていない話も紹介したいと思います。
平等院は1053年に建てられた思われているかも知れませんが、実は800年代に平安貴族たちに別業(べつごう:別荘)として建てられました。
源氏物語のモデルの光源氏(源 融 みなもとのとおる)もオーナーだった時期があるのです。

彰子(しょうし)、妍子(けんし)、威子(いし)の三人の娘を天皇の中宮とし、有名な歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだ藤原道長は、左大臣源重信の妃からこの別業を譲り受けたのでした。
そして道長の子、頼通が1052(永承7)年、これを仏寺に改め、平等院としました。
私が中学校の時、年代を覚えた「平等院にヒトハコミ(1053)」の1053年は阿弥陀仏を祀った鳳凰堂が完成した年だったのです。

当時、末法思想が流行っており、この世(現世)に浄土を実現しようとする平安貴族の考え方が窺われますね。

鳳凰堂といえば定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来像が有名ですが、鳳凰堂の壁に52躯の雲中供養菩薩像があるのをご存じでしょうか。
これも、面白い話があります。
この内51躯が国宝なのです。1躯は偽物なのでしょうか?
実は、国宝に認定するとき、51躯しかなかったのです。
じゃあと1躯はというと国宝認定が済んだあと発見されたといいます。(本物であれば国宝にすればいいのに)

この雲中供養菩薩は鳳凰堂の中にある阿弥陀仏の正面以外の3方の小壁(こかべ)に懸けらています。
各像はいずれも頭光があり、飛雲に乗って様々な姿勢で躍動感があります。
また、様々な楽器を持っており音楽を奏でているのです。これが平安貴族の趣味なのでしょうか。
そして、寺の大きさもとてつもなく大きくて数多くの塔頭(たっちゅう)が建ち並んでいました。

さて、足利尊氏と楠正成の戦いというと、神戸の湊川の合戦を思い浮かべますが、ここ、宇治の地でも1336年に合戦がありました。
このとき楠正成側が宇治に火を放っています。これにより平等院の多くの建物が焼失してしまいました。
しかし有名な鳳凰堂と観音堂は焼失を免れたのでした。

ここで時代を考えてみましょう。
平安時代はとっくに過ぎ去り、鎌倉時代から室町時代に移行しようとするときです。もはや平安貴族がこの寺を維持できる訳はなかったのです。
1200年代前半には宇治で茶が育てられ始めています。それから100年宇治は高級茶の産地としても有名になっており、茶で財をなしえた金持ち達が平等院のスポンサーとなって維持に当たっていたのです。

ところがである。
1698(元禄11)年3月、宇治はまたしても大火に襲われ、このスポンサー達も没落していったのでした。
こうなると、どうしようもありません。
平等院は荒廃の一途を辿ったのでした。

それから200余年後の明治35年に修復が行われました。
さらに1950(昭和25)年から庭園も含めた全体の修復整備されて現在の姿となりました。
平等院の平成10年の発掘調査というのはこの昭和25年の整備の際、庭園など忠実に再現されたのでは無いためだったのですね。


鳳凰堂
 
       鳳凰堂を裏側から撮りました。





藤原頼通が1052年これまでの別荘を寺院に改め平等院としましたが、翌1053年、極楽浄土を夢見て絢爛豪華な阿弥陀堂を建てました。
建物の名前も「阿弥陀堂」であり、「鳳凰堂」ではありませんでした。
鳳凰堂と呼ばれるようになったのは、江戸時代と言われていますが、定かなことは判っていません。
この名前の由来は中堂の屋根の両側に鳳凰像があるからでしょう。また建物が鳳凰が羽を広げた姿に似ているためという見方もあるようですが、この考え方はどうかなと思います。



観音堂
鎌倉時代の創建で貴重なのは鳳凰堂と並び宇治の2度の大火災にも焼けず現在にその姿を残していることです。
現在は、写真のように堂の扉は閉められていますが、以前はここも拝観できました。
堂内には重要文化財の「十一面観音立像」及びその両側に「地蔵菩薩立像」、「不動明王像」がまつられていました。
ここが拝観の対象外になったのは、仏像が鳳翔館に移されたためでしょう。







扇の芝
 観音堂の北側に扇の芝と名付けられたところがあります。
1180(治承4)年、後白河法皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう)によって平氏追討の令旨が発せられました。
源頼政は軍勢を率いて挙兵し、反平氏ののろしを上げたのでした。
ところが、平清盛軍の方が優勢で以仁王と頼政は奈良の興福寺へ逃れようとしますが、平等院の近くで平知盛、平重衡の率いる平氏の大軍に追いつかれてしまいました。
頼政は以仁王を逃がすため宇治橋の板をはずして時を稼ごうとするのですが、平家軍は川を渡って攻め込んできました。
ついに、これまでと見た源頼政は辞世の歌
  埋木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける
と詠んでこの扇の芝で自刃したということです。  墓は最勝院と浄土院の間にある不動堂のところにあります。



最勝院
最勝院は平等院の塔頭の1つで現在入り口が2つあります。
この写真は北入り口から写したもので、一見して唐破風が妙な位置に付いていると思いませんか。
この玄関の上部には藤の花の透板彫が施された欄間があり、伏見城から移されたものと伝えられ立派なものです。










浄土院
浄土院も平等院の塔頭の一つで、1439年創設されています。
写真は浄土院の本堂でここにも阿弥陀如来が祀られています。
この左奥には養林庵書院があり、最勝院と同じく伏見城から移された書院があり重要文化財の指定がされています。
襖絵は「竹垣に梅」、「梅に鶯」、「雪景山水図」で狩野派の画家によるものでこれも立派なものです。
また右側には十六羅漢像が安置されている羅漢堂があります。








鳳翔館 (ほうしょうかん)
 昨年(2001年)3月にオープンした平等院の博物館で雲中供養菩薩像など間近に見られこれはなかなか良かった。




白川金色院
 室町時代の古文書「金色院御堂再興勧進状」によると、白川金色院は1102(康和4)年に関白藤原頼通の娘である四条宮寛子(かんし 後冷泉皇后)によって創建されたと伝承される寺院です。
さらにこの「勧進状」には1460(長禄4)年に盗火により焼失したとされています。
1999年の発掘調査で寺跡はおおむね南北500m、東西250mの及ぶ広大なものであったらしいのですが、江戸中期ころまでは存在していたのは絵地図などで確認が取れていますが現在では写真の惣門を残すのみになっています。







地蔵院
 1555年頃に創建されたと伝えられる寺院で宇治市白川の地にあります。
前出の白川金色院の遺宝が所蔵されていることで有名ですが、1335(建武2)年の年号と金色院の名が刻まれた梵鐘、大般若経563巻、紺紙金泥法華経などが保管されています。










白山神社
白山神社は、790年に疱瘡が流行した時に、その治癒を願って創建されたと伝えらていますが、やがて藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇后四条宮寛子(かんし)の建立といわれる金色院の鎮守社となりました。

 祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)で、木造座像を祭っています。
1102年に建立された金色院は、七間四面の本堂のほか、多くの堂塔や坊舎を誇り、堂塔には金がちりばめられていたと伝えられています。





 現在では白山神社と惣門と寛子の供養塔といわれる九重石塔(サザンカの木が哀れを感じさせるよう)が残るのみですが、同じ白川の地蔵院に保存されている数々の宝物や文化財から、往時を偲ぶことができます。
右の石塔は高さ4m程の花崗岩製で、基礎の背が低く、横長の格狭間(こうざま)が入っている女性的な感じの層塔です。




                      第83回(安土)          第85回(信貴山)


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