信貴山                                                       トップ

 今回は奈良県北西部の生駒郡平群(へぐり)町からの見物です。
平群町は奈良盆地の西に連なる矢田丘陵から信貴山にはさまれた南北に長い谷盆地です。

この地は5〜7世紀に古代豪族「平群氏」が本拠とした地といわれ、町内には70余基の古墳や長屋王墓があるほか、
信貴山朝護孫子寺や役行者の千光寺などの名刹があります。


近鉄「信貴山下駅」で下車して直線的に800mの登り道。
これを過ぎると今度はケーブルカーの廃線跡の登り(左の写真)、
これも800mぐらい。
直線の登りは先が見えるからチョット辛いところです。



名誉会員の元君も頑張って登りました。














信貴の名前の由来はというと、蘇我氏と物部氏が争った際に聖徳太子がこの山で毘沙門天に祈願し、毘沙門天の出現を得て勝利しました。これにより、「信ずべき貴ぶべき山」と言われ信貴山と名づけられたという。

誤解があるといけないのでもう一つ付け加えておくと物部氏との戦いで、太子が霊木とされる白膠木(ぬりで 勝軍木)の木を切って自ら四天王像を彫り、頂髪(たきふさ 髪をあげて束ねたところ)につけて勝利を祈願して、後に建てた寺は大阪の四天王寺である。

また、毘沙門天の出現を得たのが寅の年、寅の月、寅の日であったということから、寅の日が縁日で、縁起物も寅となっています。

境内にある張り子の虎(世界一の福虎というらしい)




話はそれますが、寅の年、寅の月、寅の日というと三寅、何か記憶があるゾ。
そう、鎌倉時代源氏の直系が絶え、4代将軍を誰にするかとなったときに九条頼経が選ばれました。
この人こそ幼名「三寅」で寅の年、寅の月、寅の日生まれかと思いましたが、子の日生まれで寅の刻でした。











信貴山朝護孫子寺(シギサンチョウゴソンシジ)
 信貴山由来の通り毘沙門天が祀られています。


本堂への参道に
あった聖徳太子像













         上と右はは本堂




醍醐天皇が病気だったため、この寺の命蓮上人に病気平癒の祈願を勅命によりさせると、天皇の病が治ったというのである。
天皇は、喜んで朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を贈ったのが名前の由来です。

参道には石燈籠が並び、崖から突きだした舞台の本堂、朱塗の三重塔、霊宝館らが並んでいる。
この霊宝館には有名な信貴山縁起絵巻(国宝)が保管されています。
多分ご存じかと思いますが「偉い坊さんの持ってる鉢(はち)が勝手に長者さまの倉に飛んでいって米をもらってくる」という話。
これは、信貴山縁起絵巻の第1巻「山崎長者の巻」のことで、偉い坊さんこそが醍醐天皇御病気のため祈願した命蓮上人なのです。

絵巻の第2巻は「延喜加持の巻」で、名前の由来の醍醐天皇の病を治した話。
第3巻は「尼公の巻」で、年老いた命蓮の姉の尼公が、弟を尋ねて東大寺に行き、大仏のお告げにより信貴山に登り、弟と共に余生を暮らしたという話です。


             (噂の鉢?)






信貴山城址


松永弾正少弼久秀という人をご存じでしょうか。
戦国武将三好長慶に重用され、右筆(ゆうひつ)となって活躍していました。
右筆とは書道の用語で平安末期からの歴史があり、この時代頃から正式に職制として採用されたようで各種の文書を作成、管理していた。

1542年には三好長慶の部将として京都と奈良の間だの南山城に進駐している。
1553年、久秀は、三好長慶が将軍足利義輝を京都から追放すると、義輝と犬猿の間柄にあった政所頭人伊勢貞孝らと共に勢力を伸ばしている。
1556年、長慶から摂津滝山城を任せられ城持ちとなる。
1559年、長慶から大和方面の軍事を任されて、信貴山城主となり、翌年には天守閣を造営した。
と書けば努力して立身出世の人のように思われますね。

ところが、そうでは無さそうなのです。詳しくは調べてないのですが、どうも、一癖も二癖もありそうな気がします。
前出の伊勢貞孝も同盟関係を突如破られているし、三好長慶が死ぬと在京勢力の分裂を利用しつつ自分の勢力を伸ばしている。
1565年5月、将軍義輝を暗殺して足利義栄を擁立している。(フンフンこれは怪しいぞ)
久秀は新将軍擁立後に急に三好三人衆(三好長逸、政康、岩成友通の三武将)と対立し(思い上がりか?)、大仏殿を焼き払うなどしている。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくるや、久秀は信長にすり寄って家宝の「九十九髪茄子茶入」を献上して降伏し、再起を狙ったのである。

腹黒いと言われようがこれも武将としての実力である。
信長の圧倒的軍事力を背景に畿内の国人衆の反乱の鎮圧にも力を尽くし、その活躍は信長も目に止まったであろう。
浅井、朝倉との戦いの中で、久秀は信長の金ヶ崎からの撤退も先導している。
しかし将軍足利義昭が信長と不和になり、武田信玄上洛の報が届くと、久秀は信長に叛いた。ところが信玄が病死したことを知るや、再度、信長に降伏して大和の地を任されている。
1577年8月、上杉謙信の上洛の報を聞くと、再び信長への裏切りに走っている。

ところが上杉軍が進軍してこなかったため居城の信貴山城に籠城する羽目になってしまった。
こうとなっては信長が「平蜘蛛茶釜」を献上すれば(よほど欲しかったのだろう)許すなどと言っても、もはや信頼関係なんてものは全くない。
久秀は「平蜘蛛茶釜」に火薬を詰め茶釜とともに自爆して、68年の生涯を閉じたのであるが、これが日本で初めての自爆自殺だったのである。

信貴山城址はこのつわものどもの夢のあとなのである。



龍田大社
法隆寺近くの龍田神社と間違えてはいけない。
祭神   天御柱命、国御柱命
摂社   龍田比売神社 竜田比賣大神
      龍田比古神社 竜田比古大神
      龍田恵美須神社 竜田惠美須大神
      枚岡神社 枚岡大神
      白龍神社 白竜大神
      神奈備神社 神奈備大神
      春日神社 春日大神
      住吉神社 住吉大神
      三室稲荷神社 三室稻荷大神
      高望王社 高望王夫人
      皇太神社 天照大御神
      岩瀬杜 岩瀬杜大神
      下照神社 大國魂大神


由緒
 祭神は志那津比古神、志那津比売神とも呼ばれ、またの名を天御柱命、国御柱命とも言います。
いずれも伊邪那岐命、伊邪那美命(イザナギノミコト、イザナミノミコト)の子供ということになっています。
天地の大気を主宰するということで風の神だそうです。
 第10代崇神天皇の時に凶作が何年も続きました。
それで、天神地祇(天の神、地の神)を祭りお祈りをしたところ、夢の中に大神(おおみかみ)が現れ、「吾は天御柱命 国御柱命なり。天下の国民の作れる物共を暴風、洪水に遭いて凶作となり、其他災害の起れるのは、我が心機の平安ならざるものあり。仍て吾宮を朝日の日向う処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に造営して、吾前を鄭重に斎き祀らば、五穀を始め何れの作物も豊穣ならしめ、災禍も自ずと終息して、天下太平の御代と成るべし」と言ったそうです。
そのため直に神の教示に従い、社殿をこの地に造りました。
これが由来と言うことです。
第10代崇神天皇といえば別名は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)である。
この天皇が実在していたとすれば、まさに大和朝廷が大和地方の豪族から国土(領土)を拡大していき古代国家の体裁を取ってきた人物と言えるだろう。
この天皇が造ったというからには実に歴史が古いことになります。



孝霊天皇陵

 古代の天皇の代表格は初代神武天皇であろう。続いて前出の10代崇神天皇が代表格だろう。
それでは孝霊天皇というのはどんな天皇だったのだろう。
はっきり言って何も分かりません。実在したかも疑われています。
欠史八代という言葉があります。「神倭伊波禮毘古」(かむやまといわれひこ)神武天皇と「御眞木入日子印惠」(みまきいりひこいにえ)崇神天皇は同一人物という説もあります。
この説に依れば第2代から第9代までの天皇は、まったくの架空とされています。
そうなれば、7代孝霊天皇は存在しないことになります。
それでも、宮内庁管轄のこの地を訪れておくことにしました。
別名は大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)。
この天皇は8人の子供をつくり、男5人のうち2人が吉備の国を平定したということが古事記に記述されています。
そして吉備の上道臣(かみつみちのおみ)・下道臣(しもつみちのおみ)・笠臣(かさのおみ)という豪族の祖先であるともいう。
別の1人は播磨の牛鹿臣(うしかのおみ)の祖先になったとも記されている。
欠史八代の天皇は系譜的な記事しかないのに対して、少しは詳述されており、注目すべき記述であると思う。
神武天皇が大和を平定して、大和朝廷の基礎を築いたとすれば、孝霊天皇は地方に出、領土拡大を図り、第10代崇神天皇のときに国の体裁が整ったと考えれば古事記の記述にも符合し、古代が面白く見えてくるのでではないでしょうか。





               第84回(平等院)           第86回(葛城古道)


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