長岡天満宮

天満宮といえば思いつくのは菅原道真と牛と梅の3つぐらいしか知識がありません。
菅原道真は55歳で右大臣となったが、2年後大宰権帥に左遷された。
このとき、この地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜み、自作の木像をお祀りしたのが長岡天満宮の始まりといわれています。ということは北野天満宮、太宰府天満宮、文子天満宮よりも先の天満宮なのだろうか。
話は飛びますが、文子天満宮といえばご存じ無い方も多いと思います。道真の死後39年後の942年、西京七条二坊に住む多治比文子(道真の乳母説と童女説がある)の夢枕に道真が建ち、北野の右近馬場に祀るよう命じる。しかし、文子の家は貧しく、代わりに自分の家の庭の隅に祠を建て、道真を祀ったということで、「天神信仰発祥の神社」と書かれている。(場所は東本館寺の庭「渉成園」の前の道を北へちょっと歩いていけるところ)
についてはよく知りません。逸話に道真が左遷になって太宰府に向かう途中、笠原宿禰等が後を追って切りかかったとき、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出てきて宿禰の腹を突き刺した。よく見ると道真が都で可愛がっていた牛で、道真は「都にて流罪極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と喜んだということです。これにより牛に乗って太宰府まで行ったことになっている。
については、菅原道真はその邸宅が紅梅殿・白梅殿と呼ばれたように、梅をこよなく愛していた。
道真が太宰府へ出発の時、京都の紅梅殿の梅に「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」と歌を詠むと、後にその梅が太宰府の道真のもとに飛んできたという話は有名。
この歌で「春な忘れそ」じゃないかといわれる方も多いと思いますが、勅撰集「拾遺和歌集」には「春を忘るな」となっています。「春な忘れそ」と記すようになるのは、「宝物集」「十訓抄」など後世の話からです。

さて、長岡天満宮ですが社殿の前に「八条が池」という池があります。この池は1638年に八条宮智仁親王によって築造され、霧島ツツジが多数植えられた。長岡京市の人々にはこのツツジは誰でも知っているほど有名なものになっている。
現在の工事中の社殿は昭和16年に京都の平安神宮の社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築している。



土御門天皇

土御門天皇は1195年12月2日に生まれ2才で即位している。在位は1198年1月11日から1210年11月25日までの12年間です。いってみれば子供の間だけなのです。
御陵は長岡京市にあり金原陵 (かねがはらのみささぎ)という。
1221(承久3)年,後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を奪回しようとしておこした戦いが「承久の乱」である。
上皇は北条氏の独裁を苦々しく思う御家人たちの同調を期待しての挙兵であったが、執権北条義時が送った大軍の前に大敗した。
乱後,幕府は「後鳥羽上皇」を隠岐に「順徳上皇」を佐渡にながした。「承久討幕の議」は、後鳥羽上皇と順徳天皇の共同謀議であり、土御門上皇は関与していなかった。父や兄弟が流刑され、、自分一人が都にとどまるのをためらい、自ら進んで土佐へ流刑という形をとった。その後幕府により、阿波へ移され没するまでここですごす事になった。今も阿波には火葬墓が残っている。没後、ここ金原に御陵が築造される。


                             





            第64回(大阪府堺市仁徳天皇陵)              トップ



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