奈良県広陵町
百済寺(くだらでら)
 舒明天皇は飛鳥岡本宮、田中宮に移り、続いて馬見古墳群の東に639年、百済川(曽我川)と葛城川に挟まれた地に宮を遷した。
これは中央集権が整い蘇我氏の影響を脱するために飛鳥からここに政治都市を求めたためと考えられる。
『日本書紀』には「詔して曰く、今年大宮及大寺を作らむ。百済川の側を以て宮処と為す。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。即ち書直県(ふみのあたいのあがた)を以て大匠(おおたくみ)と為す。」と記されている。
舒明天皇は詔を発し、皇后とともに大寺を建立した。これが百済寺である。
聖徳太子創建の学問所である熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を百済川畔に移築したもので、由緒ある寺。現在では本堂と重要文化財の三重塔(鎌倉時代作)が残るだけです。
百済寺は九重の塔が威容を誇ったと伝えられますが、後に飛鳥に移されて大官大寺となり、更に平城遷都の際、奈良に移されて大安寺となりました。
三重塔(重要文化財)
現在の三重塔は鎌倉時代に建久年間、源頼朝が熊谷直実(くまがいなおざね)の長子小太郎直家を造寺奉行に命じ三重塔を建立させたと伝えられる。
大織冠(たいしょくかん)と呼ばれる本堂は、談山神社の本殿を移築したもので毘沙門天像、馬頭観音像をまつる。また、弘法大師が掘ったと伝えられる梵字池が境内に残る。

百済野の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと
 居りし鴬 鳴きにけむかも

                      山部赤人・巻八 − 一四三一
尚、百済寺は桜井市で吉備池廃寺が伝承地として発掘調査がされています
新木山(にきやま)古墳(陵墓参考地)
 先ず規模ですが前方部を東に向ける全長200mの前方後円墳で、後円部径117m、同高19m、前方部幅118m、同高17m、くびれ部には造り出しが付き、墳丘の周囲には周濠、外堤が伴う。周濠は後円部で幅20m、外堤部で幅25m、外堤部は幅20〜22mで高さ3m以上あったと考えられています。古墳の築造時期は円筒埴輪から5世紀前半と考えられる。三吉陵墓参考地のため、中には入れないが、墳丘に葺石があり、墳丘上に径20センチ前後の円筒埴輪がある。埋葬品の勾玉、管玉、棗玉は宮内庁に保管されています。
新木山古墳の陪塚
規模は全長45メートル、後円部径41.4メートル、前方部の長さ7メートル、幅22メートルで帆立貝式の結構大きな陪塚です。広陵町の広報には『三吉石塚古墳は、中段のテラスと墳頂、外堤の−部に埴輪が並べられていました。古墳全体で370本もの埴輪がめぐらされていたと推定されます。埴輪の大部分は円筒埴輪で6本に1本の割合で朝顔形埴輪がたてられていました。 埴輪列の復元は、墳頂部の形象埴輪をのぞいて、磁器で製作した埴輪をたてています。』となっていました。


讃岐(さぬき)神社
 竹取物語は誰でも知っていると思いますが、翁の名前が「讃岐造(みやつこ)」であることは忘れてしまっている。
同物語は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷であるとされており、讃岐一族が大和朝廷に仕えるため、竹の豊富なこの地に移りすみ竹取物語が生まれたと考えられています。
つまり、地名・人名とも物語と一致しておりこの地が竹取物語の舞台であるとされていますが、ここも百済寺と同じく桜井市の伝承地と重なっています。
さて讃岐神社ですが延喜式神名帳に記された神社で、由緒書では『当社の祭神は(三代実録)元慶七年の条に正六位上散吉大建命、散吉伊能城神と見えるが当社伝では大国魂神と倉稲魂神、大物主神を奉祀するといふ。別に広瀬大明神と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因る。
慶長十九年(1611)正月火災後の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄十六年六月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。』となっていますが、実のところ創祀、祭神は不詳ということです。
竹取公園
公園内に竪穴式住居と高床式倉庫を復元した古墳時代の遺構である。
竪穴式住居は一辺約4mの方形居住区に台形の土堤を築き、4本の支柱で棟木、垂木を支え茅を葺く。高床式倉庫は、3×6mの平面規模で6本の掘立柱で上屋を支える。上屋は切妻造りで茅を葦<。

巣山古墳
規模は全長204メートル、後円部径109メートル、高さ25メートル、前方部幅94メートル、高さ21メートルで、築造時期は5世紀始めとされている。
馬見丘陵の中央部に位置(馬見丘陵公園の東南部に接する)する北向きの大型前方後円墳で、左右のくびれ部には造り出しを設けるとなっているがあまり分からない。
周囲には今も水を湛えた周濠と外堤があり、平成9年4月に行ったときには一周することができたが、今回は立入禁止になっていた。季節によっては竹の子が顔を出すが持って帰ってはいけない。
埋葬施設は後円部中央に竪穴式石室が2基、さらに前方部にも石室が造られている。
出土品は、勾玉、管玉、棗玉等の玉類と鍬形石、車輪石、石釧(いしくしろ)等の石製品、滑石製の勾玉、刀子、斧、鏡、冠、銅釧であり、4世紀末葉の大王墓の一つと考えられる。
墳丘は3段築製、葺石や円筒埴輪列が置かれ、外提の西と南側に、外提と同じ幅の周提帯があり、その外側に円筒埴輪列があったことも確認されている。



馬見丘陵公園
広陵町、河合町にまたがる丘陵の馬見古墳群の中央群にあり、古墳を保存するため奈良県が広域公園を建設している。公園内には帆立貝式古墳で最大規模を誇る乙女山古墳をはじめ、円墳の別所下古墳等が保存されている。
公園館では、古墳の出土遺物や模型、映像で馬見古墳群をわかりやすく紹介されている。
特に復元整備した前方後円墳のナガレ山古墳は墳丘全面に葺石が葺かれ、円筒埴輪・朝顔形埴輪の埴輪列が巡っており、墳丘鞍部へも登れます。



牧野(ばくや)古墳

丘陵の奥部にある直径約50mの大型円墳で、墳丘は三段築成(北側は二段)となっている。二段目に横穴式石室が開口している。この石室は、壁面はいずれも1メートルを超す花崗岩と輝石安山岩の巨石を使っている。その全長は17.1m、両袖式の玄室は長さ6.7m 、幅3.3m 、高さ4.5m、羨道の長さ10m余り、幅1.8m。玄室は羨道から1段下がった床には小さな礫が敷かれている。

玄室内には刳抜式の家形石棺と組合せ式の家形石棺が置かれているがともに大部分が破壊されていた。

副葬品としては、装身具類は金環と金銅製梔子(くちなし)玉・ガラス小玉・粟玉が、馬具は鏡板、杏葉、雲珠、辻金具、鞍金具、花弁形飾り金具、革帯飾り金具、本心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)などで、中でも障泥(あおり)縁金具は始めて全体像が復元できるとして注目されていた。武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があった。

築造時期は、多数出土した須恵器などから、6世紀末に近いと推定されている。

その規模や豊富な副葬品などから、被葬者は、延喜式に「大和国広瀬郡の成相(ならい)墓」と記載されている敏達天皇の第1皇子で舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が有力とされている。

百済寺の入り口神仏混淆の後か、春日若宮神社の鳥居があった。
三重塔(重要文化財)
新木山古墳(西側から撮影)手前に整備された古墳が見える。
新木山古墳(北側から撮影)
周濠か、溜池か
巣山古墳(南側から撮影)
馬見丘公園内にあるナガレ山古墳
牧野古墳(東側から撮影)
石室への入り口
石室内の石棺 2棺あるのだが、これ1棺が残されている。
  第75回(大原)                       第77回(法隆寺)


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