●建仁寺

 臨済宗建仁寺派大本山で禅寺としては京都最古の寺です。創建は鎌倉時代1202(建仁2)年、開基は源頼家、開山は栄西(1141〜1215)で諸堂は修行先の宋・百丈山を模したものである。
寺号は年号を賜ったものと伝えられている。
室町時代の最盛期には塔頭寺院が60以上もあり、法華経に基づく天台教学、天台宗に伝わる密教、天台宗での座禅修行である止観、所謂、円・密・禅の三宗兼学の寺である。
また、京都五山の第三位で学僧を輩出したが、応仁の乱、文明の役で荒れはて、大部分は江戸時代に復興した。
境内には勅使門、三門、法堂、方丈が一直線に並んだ禅寺独特の配置になっている。
この配置が何故か落ち着きを感じさせるのですね。
先ず、勅使門(重文)は鎌倉末から室町初期に建てられた銅板葺きで切妻造りで、平重盛の館門を移建したものだそうです。扉に矢の跡が残っていることから矢立門とよばれる。
三門は三間の二重門で望闕楼の扁額がかかっている。階上には観音菩薩像と十六羅漢像が安置されているのも禅寺の特徴の一つでしょう。

法堂は江戸時代1765年の再建で、瓦葺き重櫓の禅宗様仏殿様式ですからお寺のイメージの花頭窓が特徴です。
方丈は銅板葺き単層入母屋造り。1599(慶長4)年、安芸の安国寺から移建したと伝えられる。
本尊は東福門院ゆかりの十一面観音菩薩像。襖絵はもとは海北友松作であったが、再建時に京都国立博物館に寄宅され、現在は橋本関雪(1883ー1945)の「生々流転の図」が納められている。
この他、建物で触れておきたいのは東陽坊で草庵式二畳台目の茶席。日本茶は栄西が宋から持ち帰ったのが始まりである。
建仁寺で最も有名なのは俵屋宗達作「風神雷神図」(国宝)であろう。
「風神雷神図」は俵屋宗達作であり建仁寺にあるのだが、もう一つ東京国立博物館所蔵ののもがあるのをご存じだろうか。
尾形光琳作の紙本金地著色風神雷神図二曲屏風と紙本金地著色風神雷神図二曲屏風がそれである。
俵屋宗達の名作を極めて忠実に模したもので重文にしていされている。
上が建仁寺にある宗達作。











下側が東京国立博物館所蔵の光琳作です。

●八坂塔
(法観寺)
 
 霊応山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
寺伝に依れば聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより
建立し、往時には延喜式七ケ寺の一つに数えられ、隆盛を極めたが、現在は八坂塔と太子堂、薬師堂の二宇を残すのみである。
八坂塔は本瓦葺き五層、方6m、高さ46mの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。
創建以来たびたび災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永亨12年(1440)に足利義教によって再興されたものである。
塔内には本尊五智如来像五体(大日、釈迦、阿シュク、宝生、弥陀)を安置し、須弥壇の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた三重の凹孔が残っている。
寺宝としては塔を中心に当時の社寺を描いた紙本着色八坂塔絵図の他、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。
というように説明されていました。


ここを通りすぎ、清水寺の方へ向かい、途中から脇道にそれ、故、山村美沙、西村京太郎氏の家の前を通って霊山護国寺に着きました。
ここには、坂本龍馬、中岡慎太郎やその他 勤王の志士らの墓があります。
ちょっとお参りしようとして立ち寄ると左の写真を見て下さい。
自動改札で300円がいります。
あまりの無粋さに入る気もなくなり素通りしました。
ここは遊園地じゃないぞ!








 護国寺のとなりは霊山観音で写真だけ掲載しておきます。
英霊が祀られているところです。

















●高台寺

 話を進める前に豊臣家の崩壊過程を見ておこう。
1598(慶長3)年8月18日、秀吉は63歳にして伏見城で病死した。この時、朝鮮出兵の最中であり、秀吉の死は極秘とされた。
そして徳川家康により12月18日、秀吉の死を公表され、神として祀られることになった。
翌1599年9月24日、北政所は大坂城を立ち去り、京都三本木(京都御苑内南西)に移り住むことにした。
そして、家康は勢力をますます伸ばし、関ヶ原の戦いへと進んでいくのである。
1600年9月15日、関ヶ原の戦いで徳川家康は東軍を率いて勝利を収めるが、形式上は豊臣秀頼の命を受けて反乱軍を征伐したということだけであった。
つまり、天下を取るには秀頼を倒さなければならないのであるが、今ここで行動を起こせば東軍の豊臣系の武将が黙っているはずがない。
従って、家康は懐柔策を採るのである。
1603年、家康は征夷大将軍に任命されることによって、豊臣側は家康に対して警戒心を持つ。そのため孫の千姫を秀頼に嫁がせ、翌年には秀頼の官位を内大臣から右大臣に昇格させているのだ。
一方、北政所の動きを見ると、大坂城に居る秀頼をたとえ一大名としてでも、残したいと願っていたのだろう。
この年、北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を勅賜される。 
北政所には兄家定と妹ややがいた。1604(慶長9)年、家定は臨済宗建仁寺の塔頭常光院を改修建立したのである。
家定の所業を見た高台院は、秀吉の菩提を弔う寺院(高台寺)の建立を思いついたのだろう。
翌年、高台院の高台寺建立の動きを知った家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ、懐柔策と気付かれないようにしてお金も含めて協力していったのであると思う。
家康の野望はとどまるところを知らず、1614年8月、徳川家は豊臣家が再建した方広寺の鐘の銘文に難癖を付ける。
あの有名な「国家安康」、「君臣豊楽」の二つである。「国家安康」は家康を分断するものであり、「君臣豊楽」は豊臣家を君として繁栄を楽しむというのである。
そして冬の陣、1615年、毛利勝永・真田幸村活躍で有名な夏の陣へと進んでいくのである。
ついに1615年5月8日豊臣家は滅ぶのであった。

こういったことで高台寺は、1605年、北政所(ねね)が豊臣秀吉の菩提を弔うために創建したものです。正式には高台聖寿禅寺という。
寺は家康の懐柔策のお陰で?壮麗をきわめていたのですが、江戸時代たびたびの火災にあい焼失してしまっている。
当時をしのぶ建物としては開山堂、表門、観月台、秀吉と北政所を祀っている霊屋(おたまや)、利休の茶席で伏見城から移建された傘亭、時雨亭等で国の重要文化財に指定されている。
霊屋をはじめ、高台寺に残る北政所の調度品等には蒔絵が施されており、その特長は簡潔で無駄のない簡素な技法で、これらを総称して高台寺蒔絵と呼ばれている。






●将軍塚

 将軍塚といえば京都では昔から京都市内を一望の下に見渡せる場所として、また夜景が素晴らしいと言われている場所です。
将軍塚は、桓武天皇の延暦13年(796年)に都を長岡から京都に遷都した際、長くこの都を守るようにとの祈りを込めて、高さ2.5m程の武将像を土で作り、これに鎧甲着せ、鉄の弓矢を持たせ、平安京を向かせて埋めたことから名付けられた。
場所は東山ドライブウェイの頂上から北へ百メートル程行ったところに青蓮院の大日堂があり、ここが将軍塚です。この地は青蓮院の飛地の境内なのです。
さて、この将軍とは坂上田村麻呂(758〜811)のことで苅田麻呂の子供です。
桓武天皇の蝦夷征伐において、武将として801年征夷大将軍に任じられ四万の軍を率いて、胆沢の地を攻略し蝦夷計略に多大の功績を残している。810年の薬子の変では嵯峨天皇の命で、東国に逃れようとした平城上皇らを捕えている。
翌年死亡後従二位を贈られている他、清水寺を創建したことでも知られている。


   第77回(法隆寺)                             第79回(奈良県五條市)


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