葛城古道を風の森峠から御所市に向かって歩きました。上の写真は左が金剛山、右が葛城山です。
高天原(たかまがはら)というと九州を思い浮かべる人も多いと思いますが、それは高天原から降りてきたところが高千穂だったからで、ここから大和朝廷東征説が出たりしています。
さて、高天原とはいかなるところなのか?
仙道は天上、つまり空かそれ以上、上の宇宙?にあるのかなと思っていました。



風の森

 なんとロマンチックな名前なんでしょう『風の森』
御所市から乗ったバスをここで降り古代へのロマン街道へ。

街道に入ってすぐ左の祠がありました。
風の森神社といいます。
今回は解説を手抜きして下のような写真にとどめておきます。






高鴨神社(たかかもじんじゃ)

祭神:味治須岐高彦根命(あじすきたかひこねのみこと 大黒主命と多紀理姫の子供)
    下照比売命(したてるひめ 大黒主命と多紀理姫の子供で味治須岐高彦根命の妹)
    天稚彦命(あめのわかひこのみこと 下照比売命の旦那様)



古代のこの地方の豪族、鴨氏の氏神社で、京都の上賀茂・下鴨の
神社の元社にあたるという事です。
この社の建築時期を考えてみよう。
左に写真では分かりにくいのですが先ずは蟇股。
蟇股は植物模様の彫刻が施されており室町期の特徴を持っている
といえる。
続いて
木鼻ですが木鼻は雲形彫刻でやや細かい模様であり鎌倉
から室町期の特徴。
高欄はせり出し部がやや反り上がっており擬宝珠は柱よりも直径
が小さい。高欄自体は平安初期の特徴を持っているが、擬宝珠は鎌倉期の特徴である。
したがって特徴の一番新しい時期、つまり室町期以降の建築物であるといえる。

日本書紀には、八咫烏(=鴨武角命 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく))が神武天皇を熊野から大和へ道案 内したと記されています。
神武、綏靖、安寧の三帝は鴨氏の主長の娘を后にしています。
こういうことがあって、鴨氏は葛城王朝の基礎を造ったと考えられる。
この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配したとも云われていますが、崇神天皇の大和朝廷によっ て亡ぼされました。
天孫降臨の高天原(たかまがはら)がこの葛城の地であるなら、まさにここは神話ロマンの宝庫であり、また日本発祥に大きく関わってきたロマンの地であることでしょう。



高天彦神社(たかまひこじんじゃ)

祭神:高皇産霊神(たかみむすびのかみ 別名高天彦神)
    市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
    菅原道真(すがわらみちざね)
高皇産霊神は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神であるとされています。
神社の背後は白雲峰という山で、この山がご神体なのですが写真のような本殿もあります。



場違い?の菅原道真が何故かお祀りされているのですが、その辺の事情はどこにも説明がありませんでした。










高天原(たかまがはら)


神話では天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と高皇産霊尊の子である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の間だ間に生まれた天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が高天原から日向の高千穂に降臨した。
という神話は年輩の方ならご存じでしょう。

このページの最初にも書いたように天上にあると思っていた高天原が地上にあったとは。


ということは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や天照大神(あまてらすおおみかみ)や神産巣日神(かみむすびのかみ)が住んでいたのだ。
これは大変なところに来てものだ。










橋本院

第44代元正天皇の勅願により行基が開いた高天寺(たかまでら)の塔中寺院が「橋本院」で、縁起によれば、高天寺は南北朝時代に焼き討ちされたため、以前あった場所から本尊の十一面観世音菩薩立像などを移したとされています。
そのときに、橋がそばにあったため、橋本院という名がついたそうです。

初めは奈良の興福寺に属し、後に弘法大師の真言宗に属しました。
また、唐招提寺を開いたことで有名な鑑真和尚も聖武天皇の命により高天寺の住職になっています。

寂れた感じだけど、昔は有名な寺だったんだ。







極楽寺



951(天暦5)年に興福寺の一和(いちわ)僧都によって開基されたといわれており、鎌倉時代後期の林阿上人によって中興されましたが、1614(慶長19)年に焼失しました。

佐田村に隠れ住んできた北面の武士で十河図書行光が、金剛山で狩りをしていたところ、一頭の鹿を見つけ、矢を放とうとしたところ、一人の行者があらわれました。
仏の教えや命の尊さを教え、如来の姿を描いた一巻の巻き物を与えて姿を消しました。
行光は驚き目をあげると、はるか西方の雲の上に行者の姿を見つけ感激し、出家して授かった巻き物をまつりました。
この仏様を天得如来といい、日本三大天得の一つとなっています。




中村邸


中世の吐田(はんだ)の城主吐田越前守の子孫、中村正勝が慶長頃に建てたと推定されています。










右の写真は中村邸の玄関横に吊してあったポンプで、私の記憶では木箱のところに水を入れて火事などの時の火消しに使うものだったと思う。
でも、考えて見れば木箱まで水を運んで入れるなら、直接水を火にかければいいじゃないか?
それとも、かなりの距離まで水をとばせる威力があるのかな?







長柄神社

祭神:下照姫(しもてるひめ)


祭神の下照姫は俗称、姫の宮と言われています。

本殿は一間春日造、檜皮葺で軒の裏板の雲竜の彩画が描かれていると云うことであったがよく分からなかった。











一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)

祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと)

左上は一の鳥居かな?
右上はここから階段
左下は立派な拝殿
右下は本殿なのですが
頑張って写してもこれが限界
殆ど見ることができません。



















願いを一言だけ聞いてくれる「いちごんさん」として地元の人から親しまれているらしい。

雄略天皇が葛城山で狩をしている時、この神は天皇と同じ姿で現れ、天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、
「私は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と。

雄略天皇は恐れひれ伏したが、やがて、共に狩を楽しみ、神は久米川(現曽我川)まで天皇を送って行ったのです。
しかし、続日本書紀によれば雄略天皇と狩の事でいさかいを起こし、四国の土佐に流されたという事です。
神より天皇の方が偉い事になっている。
土佐風土記によれば、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたと記されています。

また、今昔物語では一言主神は顔が醜くかったことになっており、役行者(役小角)は、修行のため、葛城山と吉野の金峯山の間(20Kmはあるだろう)に石橋を架けるのだと、架橋工事をさせますが、一言主大神は顔が醜かったので、昼は働かず夜しか働かなかったのです。
当然石橋は完成しませんでした。役行者は怒って、近くの小川のそばの大木に一言主大神を縛り付けてしまった事が記されています。
何とも凄い行者なのですが一言主大神もちょっと頼り無いではないか。

拝殿横に土蜘蛛塚がありました。
神武天皇が葛(かつら)で作った網で、土蜘蛛をとらえ頭と胴と足を三つに切って埋めたということから葛城の地名ができたともいわれています。
謡曲の土蜘蛛は源頼光に襲いかかって、四天王の渡辺綱(わたなべのつな)に退治されましたが、平安京に現れたのは葛城の土蜘蛛の亡霊の説話を下に作られたものです。



綏靖天皇葛城高丘宮跡


綏靖天皇は、名を神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)といい、
第二代目の天皇
なのですが、その他神武天皇の第三の子と、84歳でなくなった、葛城高丘に宮を営んだというぐらいのことしか知られていません。
しかし、実在すら疑われているのですから実際のところ何も分からないというのが正しいのでしょう。
















九品寺(くほんじ)



奈良時代、聖武天皇の詔勅によって行基が開基しました。
本堂の横に開祖の行基菩薩が立っているのも納得できます
行基といえば朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁止されたりしたが、行基を慕う民衆の威力に、朝廷もこれを利用し、新都建設や大仏建立といった政府の事業を進めたのである。

806年、弘法大師空海が行基の遺跡を尋ねて戒那千坊を建立しています。
1558年、京都知恩院の僧弘誓が浄土宗を広めるためこの地で布教活動を行い、この時浄土宗に改宗しています。

写真右の千体石仏は南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人々が身代わりに奉納したものといわれています。
その数は1700体ともいわれ、現在でも出土しているそうです。



                第85回(信貴山)            第87回柳生街道2




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