ショパン ノクターンop-20 by ピアノ曲のMIDI                                  戻る

 斑鳩の地名について

 この地に多く飛来した鵤(いかる)という鳥に由来する。鵤は斑鳩(まだらばと)のことで、鳩より小さく、体が灰白色で頭、翼、尾羽が黒っぽい鳥のことである。
 聖徳太子はこの地に斑鳩宮(いかるがのみや)を造営し、推古天皇十三年(605)、飛鳥から移り住んだ。
今の法隆寺東院伽藍がその跡地になるらしい。
以下聞き慣れない言葉が出てきますので一言。

  アルカイックスマイル:古典的な微笑み(なんのこっちゃ)
  エンタシス:円柱のように真っ直ぐな柱は中程が細く見えるので逆に中程を太く加工して安定しているように
         見せる柱だそうですが、当時そのことを意識していたか私は疑問に思う。


法隆寺 (拝観料1,000円は高いと思う。秘宝展500円、隣の中宮寺500円、合計2,000円必要)

久々の法隆寺です。もう言いたいことがいっぱいあって何から書いていいのか迷ってしまうのですが、今回は非常識なことに敢て挑戦してみます。
法隆寺を建てたのは誰だ。(大工さんなんて言わないで下さい。)

607(推古15)年、聖徳太子の創建ということになっている。正式名は法隆学問寺という。
国宝38件、重文151件をはじめ、膨大な寺宝を有する古刹で、境内は世界最古の木造建築で知られる金堂(国宝)、五重塔(国宝)のある西院、夢殿(国宝)を中心にした東院に分かれている。                   

西院(さいいん)
伽藍の話になると必ず出てくる法隆寺伽藍。中門(国宝)から左右に回廊(国宝)がめぐり、中に五重塔と金堂が並立する。
回廊の外側には東西の僧坊を配し、北西に鐘楼、北東に経蔵があり、北側後方に講堂(国宝)がある。
建物はエンタシスの柱、人字形割束、卍文字の高欄が特徴である。
金堂は重層、本瓦葺((史跡を10倍楽しむを参照)で、飛鳥建築の代表といわれる建物。
中にはアルカイック・スマイルをたたえた釈迦三尊像(国宝)、薬師如来坐像(国宝)のほか四天王像(国宝)などが安置されている。
五重塔は高さ約32m。初層に塑像群、塔本四面具(国宝)が祀られている。
回廊東に聖徳太子像(国宝)をまつる聖霊院(国宝)、高床式の綱封蔵(こうふうぞう 国宝)、食堂(じきどう 国宝)などが続き、この奥に防災上の理由から建てられた大宝蔵院がある。
大宝蔵院は1998年に完成したもので、百済観音像(国宝)を安置されている。
ここには玉虫厨子(国宝)、夢違観音像(国宝)、橘夫人厨子(国宝)、九面観音像(重文)など諸仏、百万塔(重文)、伎楽面(ぎがくめん 重文)など貴重な宝物が数多く収められている。

東院(とういん)
斑鳩宮跡に建てられた最古の八角円堂、夢殿(国宝)、礼堂(重文)、舎利殿(重文)、伝法堂(国宝)を配している。
夢殿の本尊は救世(ぐぜ)観音立像(国宝)で、この他に東院を復興した行信僧都と道詮(どうせん)律師の像(ともに国宝)が安置されている。


ここから話がややこしくなります。
金堂に安置されている薬師如来の光背銘によると、大王天皇(推古)と東宮聖王(聖徳太子)が用明天皇の病気平癒を祈って建立を発願しました。しかし用明天皇はその完成を待たずに崩御しました。そこで聖徳太子が遺願を継いで607(推古15)年に完成した。と勝手に思っていたのですが実は用明天皇自ら病気平癒を祈って寺と仏像を作ることを誓願したとパンフレットに書いてありました。

本尊の釈迦三尊像ですが、作られた経緯は以下の通りです。
太子の母(穴穂部間人皇女 あなほべのはしひとひめみこ)が熱病にかかり、そのため、太子と妻の膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が看病に当たったが621(推古29)年亡くなっている。
翌年に太子と郎女が発病し病床に臥した。そのとき、他の太子の妃(架空の人物といわれる橘大郎女も含まれる)や山背大兄皇子をはじめとする皇子、諸臣が太子と等身の釈迦像の造顕を発願した。
膳菩岐々美郎女、聖徳太子と相次いで薨去(こうきょ)し、623(推古31)年に釈迦像を仏師・鞍作止利に造らせたと伝えられます。

さてここで、720(養老4)年完成した『日本書紀』の記述を見てみます。
太子の死亡の日時ですが621(推古29)年2月5日となっているが釈迦像の光背銘は622年2月22日となっている。
また止利仏師の仏師であるがこの言葉についても使用されだしたのは734(天平6)年以降である。
次に薬師如来の光背銘(607)の天皇ということばですが674年に初めて中国で使われ日本に伝わり、689年飛鳥浄御原令で正式に採用された言葉である。
東宮という言葉についても皇太子のことであり、689年以降と考えるべきである。

また、670(天智9)年に法隆寺は一屋も余すことなく焼失したと記述されています。金堂と五重塔を擁する現在の西院伽藍は、天武・持統朝に着工され和銅年間(708〜714)には完成されていたといわれます。
一屋も余すことなく焼失したにもかかわらず、この宝物の豊富さはなんなんだ!
以上の疑問点を持ちつつも一旦疑問とは離れます。


金堂壁画(重文)について、かつて金堂の内部壁面には、外陣の周囲の大小12面に釈迦、薬師、弥勒、阿弥陀の四仏浄土図と八菩薩像、その上部の小壁18面に山中羅漢図、そして内陣の長押上小壁20面には飛天図が描かれていた。
しかし、1949(昭和24)年火災で大半が失われ、解体修理中だったので、飛天を描いた壁面は難を逃れた。
インドのアジャンタ、中国の敦煌の壁画に見られるのと同じ様式で描かれているという。」
この点専門家でないので素直に信じておきます。
「中国では漢代以来神仙系の飛天が活躍したが、やがて西方から仏教系の飛天がもたらされ、南北朝時代を中心に盛んに融合現象を示す。しかし隋唐時代になるとこれまでとは異なる西方系の飛天が新たに導入されて形式は一変した。
敦煌壁画によってこれをみれば、北魏を中心とする南北朝時代は飛天芸術の最も高揚した時期であり、想像力を駆使した変幻自在な表現が認められる。
しかし、隋唐時代になるとこれらの表現は影をひそめ、肉身の写実に力点をおく新しい形式へと一転する。しかしながら、このような写実的表現は概して形式の上で画一化をもたらし、唐末には衰退していった。
飛天の描かれる場所は、南北朝時代では必ずしも特定せず、窟内上部の要所いたるところに現われるが、隋末から唐代にかけては、一つは伏斗式石窟の藻井部の周辺に、他は浄土変(三尊を含む)の土部左右辺等に集約されて行く。法隆寺金堂の飛天の配置はこの両者の位置に対応するものとみられる点で、はなはだ興味深い。」という人もいる。


玉虫厨子(国宝)は飛鳥時代の作で、宮殿部の縁を飾る透彫金具の下に玉虫の羽が敷きつめられていたことからこのようによばれているが現在はほとんど剥落している。


観音菩薩立像(百済観音)(国宝)これも飛鳥時代の作であるが、法隆寺の最も重要な古記録である747(天平19)年の「法隆寺資財帳」などには、この像にあたる記事がないのです。
これも謎です。
江戸時代、1746(延享3)年、良訓が記した「古今一陽集」に「虚空蔵菩薩、御七尺余、此ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ伝ニ異朝将来ノ像ト謂ウ。其ノ所以ヲ知ラザル也」と記されている。
明治になって、金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った宝冠が発見され、像に再び取りつけられました。この宝冠には観音の標識である小さな化仏座像が中央に線刻されていたので、この像は虚空像菩薩ではなく観音菩薩と呼ばれるようになった。
さらに「百済国将来」という伝えから「百済観音」とよばれるようになった。
しかし、作風からみて百済仏とはいえず、また日本で当時使われた樟(くす)材が用いられていることから、日本で造られた像であることは間違いない。  


救世観音像(国宝)同じく飛鳥時代の作になる。761(天平宝字5)年の東院の記録に「上宮王等身観世音菩薩」とあり、聖徳太子と等身の観世音菩薩と伝えられる秘仏です。1884(明治17)年、フェノロサにより開扉され法隆寺の僧ですら見ることがないと言うぐらいの秘仏なのです。


再び先ほどの疑問に戻りますが、法隆寺は607年に建立され、670年全焼(一屋もなく)しています。廐戸王が居所とした斑鳩宮は643年に山背大兄皇子が滅亡したとき消失している。
にもかかわらず、仏像や遺愛の品が多く残っている。いや、残りすぎているのではないか。
本尊の釈迦三尊像は623年止利仏師によって造られている。
この仏師という言葉は734年以降の言葉である。
百済観音は747年の「法隆寺資財帳」には記載がない。
薬師如来と釈迦像の光背銘の文言は後年の捏造くさいこと。
さらに聖徳太子については用明天皇と穴穂部間人皇女のあいだに生まれた廐戸王とされている。
廐戸王が601年28才の時に斑鳩寺を建立したことは確認されているが、廐戸王が行った事柄の事実確認がなされていないという事実は意外と知られていない。
冠位十二階や憲法十七条についても聖徳太子が作成の記述は無いという。
一体「聖徳太子」とは何者だろう。後年何らかの意図(蘇我氏の意図)の元作られた偶像では無いだろうかと思えてきた。



                 



中宮寺


聖徳太子創建七ヵ寺の一つで、太子の母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと、用明天皇の皇后 蘇我稲目の子)の御所を寺としたものと伝えられる。
本尊の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝。寺伝では如意輪観音と呼ばれる。
左足を垂れ、右手指は頬に触れんばかり。
半跏思惟の姿は高貴な気品にあふれ、世界三微笑の一つと称えられるアルカイックスマイル。
妃の橘大郎女が宮中の采女たちと一緒に刺繍した国宝天寿国繍帳は、太子が往生している天寿国という理想浄土の有様を縫いとったものである。

ここで再び疑問、法隆寺のところでも疑問にしていた「天皇」という言葉が天寿国繍帳にも使用されている。それと橘大郎女なる女性であるが、日本書紀には一切登場してこない。聖徳太子と同じくこの人物もいったい何者なのだろうか。

 法隆寺の東院伽藍に接し東隣の「中宮寺」は、聖徳太子の母穴穂部間人皇女の御願によって、太子が西の法隆寺と対照的な位置に、太子の宮居斑鳩宮を中央にして創建された。
創建当時の旧地は、現在の「中宮寺」東方3丁(約550m)の所に土壇が残って居り、昭和38年などになされた発掘調査で南に塔跡、 北に金堂跡が確認され、四天王寺式配置伽藍であった事が判った。
創立年代については諸説あるが、飛鳥時代の瓦が多数出土しているので、飛鳥時代建立と考えられ、それも飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統の瓦で、中宮寺も創建当初から尼寺であった事を伺わせる。
その後、平安時代には寺運衰退したが、鎌倉時代に興福寺の信如尼(しんにょに)が来住して、荒廃した寺を復興し、1274年(文永11年)法隆寺の国宝「綱封蔵」から飛鳥時代に作られた国宝の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅちょう)を発見しました。
 1510年頃(永正年間)寺地が現在地に移されたらしく、1540年頃(天文年間)伏見宮貞敦(さだあつ)親王の皇女尊智女王(そんちのおおきみ)が入寺し、以後は皇女が入寺する門跡寺院になり、中宮寺御所または斑鳩御所と呼ばれている。

本尊の弥勒菩薩半跏像は、例のアルカイックスマイル(古典的微笑)で、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと共に「世界の三微笑像」の1つなんだそうです。



素盞鳴神社

祭神は名前の通り素盞鳴命であるが、神社の由緒沿革を頑張って呼んではみましたが、読み切れず、
おおよそは次の通りです。

抑も当産土大神は人皇第38代天智天皇の御宇、天渟中原興真人王子(天武天皇の幼名)○○し給いし祭神にして当時○殿を興富領地に造作され邸内奉祀しが、後、現在の位置に社殿を設け、素盞鳴之命を祭神として庶民の守護神として祀られしが神社の起源なり。その后、人皇第40代天武天皇として飛鳥浄見原宮に即位されるに及び所領○○山林150町歩○を社領として寄進され、以降王子の尊号を賜り、此の地を興富と称せり伝○あり・・・・・
(句点は私の挿入です。上記「富」は現地名から「留」のことか? 浄見原は浄御原のこと)

                 


法輪寺


斑鳩の北の端にあり、土地の名によって三井寺(みいでら)ともよばれています。三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えている。

創建については二説が伝えられている。
ひとつは、622(推古30)年、聖徳太子が病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)、もうひとつは、670(天智9)年の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。

薬師如来は、講堂(兼収蔵庫)に移す前は、金堂に安置していた。
完存する飛鳥時代の木彫如来像としては最大のもので、樟(くす)材の一木造(いちぼくづくり)である。
頭をまっすぐに起こし、施無畏(せむい)、与願(よがん)の印を結び、二重の宣字形台座の上に懸裳を垂下させて結跏趺坐している。
寺伝で、山背王御一族の現世利益を祈願して鞍部鳥(くらつくりのとり)に造らしめた薬師如来、と伝え、薬壷を持たない古い形式をもっている。
2枚の大衣を重ねる着衣形式やうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、衣文が左右対象性を崩していることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。なお、光背は後補のものである。
薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来といい、その浄土は東方瑠璃光世界です。瑠璃光をもって病苦を癒し、寿命を延ばし、多くの災害を除くなど十二の大願を請願されていますが、特に医薬をもたない人々の救済という点が重視され、平安時代以降、薬壷をもつ像が多く造られています。(当寺のHPより)

虚空蔵菩薩立像は本尊の薬師如来とともに金堂に安置されていた。寺伝で虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)と呼んでいる。
姿は左手に水瓶をもち、右手は屈臂仰掌しており、本尊の薬師如来と同じく樟の一木造りで、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に、両足をそろえて直立している。
本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右対称性が崩れていることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。
虚空蔵とは、福と智の二蔵の無量なことが大空にも等しく広大無辺であるという意味で、わが国では8世紀頃から信仰されています。この菩薩を念じて求聞持法(ぐもんじほう)という修法を行なうと記憶力が増すと考えられ、また近世に始まる「十三参り」に象徴されるように智恵の仏様として、また丑年、寅年の護り本尊として篤く信仰されています。(当寺のHPより)

十一面観音菩薩立像は講堂の本尊(当寺の本尊は薬師如来)で、4メートル近い大きな姿を収蔵庫の中央にご安置しています。頭部から台座(請花)までを杉の一材から彫り出し、両肩を接ぎつけています。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強いお顔には、平安前期の特色がうかがえますが、全体に穏やかな作風を示しているところから、10世紀頃のものと考えられます。化仏は、宝髻の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に瞋怒面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂する、十一面観音の一般的なお姿です。光背(板光背)は中世の後補です。かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられ、現在も三井の集落の方々による観音講があります。
なおこの十一面観音について、秋艸道人(しゅうそうどうじん/会津八一)の歌が『鹿鳴集』にあり、当寺境内にその歌碑があります。
観音菩薩は、観世音菩薩あるいは観自在菩薩の略です。観世音とは衆生が救いを求める音声を聞くとただちに救済するという意味、観自在とは一切諸法の観察と同様に衆生の救済も自在であるという意味です。救いを求める者に応じて、千変万化の相に変化して救済するということから、ヒンドゥー教の多面像の影響を受け、種々の変化観音(へんげかんのん)が考えられました。十一面観音はその中でも最も古く代表的なお姿といわれています。 (当寺のHPより)



斑鳩宮

現在の法隆寺東院付近
 斑鳩宮の所在地は現在の法隆寺東院付近に推定されている。
この地は東西に走る龍田道と大和川があり、飛鳥と難波を結ぶ交通の要所と言うべきところである。
廐戸王がこの地を選んだのは積極的に政治に関わろうという意思の表れと、蘇我氏の影響をある程度逃れようとした考えがあったのではないだろうか。
天平宝字五年(751)成立の『法隆寺東院縁起』によると、聖徳太子のかっての斑鳩宮が荒廃する様を嘆いた僧行信が太子を偲んで天平十一年頃に夢殿を建立したという。
 昭和九年の法隆寺東院の解体修理にともなう地下調査で、東院とは西方向に11度傾きを持つの前身の建物群が検出された。この建物群は火災の痕跡があり、皇極二年(643)蘇我入鹿による山背大兄皇子殺害事件の焼失記事とも一致することから斑鳩宮の一部であるとされた。


ここで昼ご飯タイムです。

本日は各自弁当を少な目にして「うどんすき」です。

         



藤ノ木古墳(史跡)

ノ木古墳は、1985年10月、橿原考古学研究所の調査で、朱塗りの石棺や須恵器の器台が埋葬時のまま残されていることがわかり、さらに88年10月の石棺の調査で豪華な馬具などが出土して、一躍有名になった。東へ300メートルにある法隆寺の中世文書に「陵山」と呼ばれ、江戸時代に崇峻天皇陵と考えられたこともあり、被葬者がわかるのでは、と期待され、話題になったのだが、特定には至らなかったようだ。
被葬者は、六世紀後半の政権中枢の皇族クラスの若者と考えられる。墳丘は、北西から伸びる台地の上に築かれた直径48メートル、高さ9メートルの円墳。墳丘南から埴輪片が見つかっている。古墳の前に石棺の復元模型が置かれていた。
石室 西1.5キロの竜田川の石を使った石室は、両袖式で、全長13.95メートル、玄室の長さ6.04メートル、奥壁の幅2.43メートル、高さ4.28メートルの規模で、飛鳥では最大級、床は礫を敷き、石組みの排水溝があった。
石棺は石室の奥から80センチのところに石室の主軸に交わるように、凝灰岩の繰り抜き式家形石棺が安置されていた。石棺は長さ2.3メートル、幅1.26メートル、高さ1.54メートル。
出土品は周囲に鮮やかに朱が塗られた石棺と石室の奥壁との間に、2種の馬具(金銅製1セット、鉄地金銅張馬具2セット)、武器(鉄刀、鉄鏃、盛矢具んど)、玄室入り口に50点の須恵器、土師器、側壁との間に刀や弓矢などがぎっしりとあった。
この古墳の馬具は保存状態もよく、デザイン、技術の上でも例がないほど優れており、特に鞍金具は、龍、象、鳳凰や鬼神像などが装飾され、西アジアの文化の影響が感じられる。
石棺内には2人の被葬者が葬られていた。北側の一人は、20歳前後の男で、身長165センチ、がっしりした体格で3重の金銅製玉類とともに、頭部から背部にかけて玉簾状に小玉を連ねたものがあった。もう一人も成人男性の可能性がある。
棺内から2人の頭部に4面の銅鏡、南側に金銅製太刀4振、北側に太刀と剣各1振、そして西側の足元に金銅製装身具の冠、履2足、大帯、刀子などが置かれていた。2人とも金銅製の中空丸玉の首飾り、金製耳飾をつけていた。ほかに、絹製品や花弁形歩揺850個、円形飾り金具200以上が残っていた。また、太刀は三輪玉や魚佩などで飾られ、伊勢神宮の神宝の太刀に共通する国産品のようだ。

                 

ここで先ほどの「うどんすき」の現場を目撃していた2名の女性と出会った事を報告しておきます。




瓦塚1号墳

 西に法輪寺の塔、東に法起寺の塔が見えるあたりから北へ上がるる。左手に瓦塚池があり、右手の丘斜面に法起寺の瓦を焼いた三井瓦窯跡がある。その丘が瓦塚2号墳、その北側が1号墳、南が3号墳である。
いずれも北からの丘陵の尾根にあり、1号墳は全長97メートルの前方後円墳。1975年、範囲確認の発掘調査が行われ、墳丘は2段築成、上下2段に埴輪列があり、それにそって葺石も検出された。後円部東に敷石があり、形象埴輪片が散乱していた。祭祀の施設と見られている。
出土品 くびれ部から魚形土製品が出土した。5世紀の築造であるが、前方部下段の埴輪列と葺石の間から7世紀前半の須恵器などが出土した。被葬者への祭祀が続いたのかも知れない。



斑鳩大塚古墳


 斑鳩町役場から南300メートル程の水田の中に小さな丘がある。
斑鳩大塚古墳である。墳丘に忠霊碑が建っており、 79年、その建設中に粘土槨が現れて発見となった。
墳丘は径35メートル、高さ4メートルの円墳、粘土槨は、復元すると全長7.5メートル、幅1.5メートル、内部に幅60センチの割竹形木管を安置していた。
出土品は槨の中央から舶載鏡の可能性がある二神二獣鏡、短甲、東端から鋸歯文鏡、管玉、石釧、筒形銅器、西端から工具類が出土した。
四世紀末から五世紀はじめの築造で、斑鳩では最初の古墳とみられている。



龍田神社


祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂、龍田比古大神、龍田比女大神、陰陽二柱の皇神
延喜式神名帳に記載の龍田地主大神です。
我々がよく知っているのは在原業平のうたで百人一首にも選ばれている
     
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
             からくれないに 水くくるとは

                                          でしょう。
 聖徳太子(16才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来て、平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を捜し求めていました。
その時、聖徳太子は、椎坂山で白髪の老人に 顕化した竜田大明神に会い、指示してもらっ た地(斑鳩)を法隆寺建設地とされました。(この話は結構有名です。本HP聖徳太子の謎参照)
 季節もよし、天気もよし、きっとすごいもみじが見られるものと思っていたのですが、(あることはあったのですが)完全に期待を裏切られました。



帰路途中で
 昼食現場を目撃され、藤ノ木古墳で会い、最後は奈良駅のホームでまた出会った女性。
 一緒に記念撮影しました。


           





           第76回(奈良県広陵町)                       第78回(建仁寺)

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