あなたに降る雪by blue moon rain様

近江安土町                         
 今回は織田信長が居城し、「平安楽土」から「安土」の地名が付いた滋賀県湖東方面の探索に出かけました。
 安土町
  面積      24.30km2
  人口      12,388人
  世帯      3,631世帯

 安土町は、弥生時代の農耕集落「大中の湖南遺跡」、古墳時代の滋賀県最大の前方後円墳「瓢箪山古墳」、万葉のころ数々の詩に詠まれた「老蘇の森」、室町時代の日本最大の山城「観音寺城跡」、安土桃山時代の名城「安土城跡」など、各時代を代表する史跡が点在する町です。
   また、琵琶湖八景のひとつにも数えられる琵琶湖最大の内湖「西の湖」をはじめ、織田信長ゆかりの「安土山」、聖徳太子や近江源氏佐々木六角ゆかりの「繖山(きぬがさやま)」・「箕作山」などが連なり、豊かな田園風景が広がる、水と緑に恵まれた風光明媚なまちです。

                             (安土町のホームページの町長挨拶から抜粋)
                      
          写真は駅前の織田信長像と駅裏の土俵


安土は相撲発祥の地ということでこの土俵櫓のモニュメントがあるのですが、相撲といえば垂仁天皇7年〈紀元前23〉7月7日、当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の話があり奈良県桜井市と當麻町が相撲発祥の地とされているではないかと疑問を持ちました。
安土が相撲発祥の地というのは、 1570(元亀元)年信長が条楽寺において催した相撲興業が起源で、近代相撲の発祥といわれているそうなんです。
「近代」という2文字が付いているのですね。




沙沙貴神社

   祭神    少彦名神(すくなひこなのかみ)                        神社の楼門
          大毘古神(おおひこのかみ)
          仁徳天皇(おおささきのすめらみこと)
          宇多天皇(うだのすめらみこと)
          敦實親王(あつみのみこ)

 この神社は『延喜式』神名帳に其の名が見える延喜式内社で歴史は古いものです。
現在の神社の主な建物は佐佐木氏に縁を持つ四国丸亀藩主、京極家により、江戸時代に再建されています。
由緒を見れば「神代の昔、少彦名神の御霊跡に起こり、社号の「沙沙貴」は少彦名神に起因するといわれています。」




定かではないのですが、大毘古神の末裔、沙沙貴山君の一族の氏子として祀られ、以来、宇多天皇・敦實親王の末裔にあたる、佐々木源氏の一族祖神として引き継がれてきました。
京極家・黒田家・三井家・佐々木家、佐々木高綱の末孫である乃木希典大将が祖廟として本神社を崇敬されたことは有名であります。
現在も「沙沙貴十二座神事(ささきじゅうにざのしんじ)」、「神輿三社の神事(みこしさんさのしんじ)」、大松明の奉納神事」という沙沙貴祭りが継承されています。
 佐々貴山君(ささきのやまのきみ)について一言、律令体制下で蒲生・神崎の郡領(郡の長官)を世襲していたとみられる名門氏族で、続日本紀には紫香楽宮周辺に発生した山火事の消火に功績を残したと記されています。

また明治29年6月28日乃木希典(当時将軍)の植樹の折り小学生に向かって以下のように話された。
「私はこの沙沙貴神社は度々参詣するが、私のお祖父さん、そのまたお祖父さん、まだもっと先のお祖父さんが祭ってある。
この村の方々、皆さんのお父さんやお兄さんは、お宮のお祭りを盛んにして下さるので、私は非常に喜んでいる。
吾々人間は、先祖が本である。その本を忘れてはならぬ。本乱れて末治まるものはない。
先祖の大恩を忘れるようではだめである。
是非、先祖を敬うようにしてほしい。この爺が言ったとよく覚えて貰いたい。」
非常に解りやすい話です。この言葉が石碑になっていました。

なんじゃもんじゃ

沙沙貴神社の境内で「なんじゃもんじゃ」の木があります。こりゃ、なんじゃもんじゃと調べてみますと、正式名称は「ヒトツバタゴ」といい雌雄異株のモクセイ科の木で成長すると高さは30m、幹の直径は70cmになるそうです。4枚に裂けたような細い花びらが重なりあい遠くから見ると雪をかぶったように見えます。
日本では対馬と木曽川沿いにしか見られないそうです。
花びらが4枚に見えますが、1枚の花びらが裂けたものです。
2002年5月18日現在左の写真の通り花は有りませんでした。

ウラシマ草


さらに「ウラシマ草」も自生しています。「ウラシマ草」といってもどんな花でしょう? 
花から長く伸びるひげを浦島太郎が使っていた釣竿と見て、ウラシマ草という名前がつけられましたということです。
左の写真はすでに枯れていますが、釣り竿が見えるでしょうか。


花の落ちたあとの実。






瓢箪山古墳

 古墳時代前期の古墳で、自然の山を利用した前方後円墳です。
瓢箪山古墳は前述の佐々貴山君の墓でないかとみられています。
滋賀県で最大級の大きさで、400年頃(古墳時代前期)に作られています。
前方部に2基、後円部に3基の石室があり、特に後円部の中央石室からは鏡2面をはじめとして、鍬形石・車輪石・石釧・刀剣・短甲などが出土しています。








桑実寺(桑峰薬師)
この寺は、標高432.7mの繖山(きぬがさやま 別名観音寺山)の山腹にあります。
繖とは貴人の付き人が竹の柄の付いた笠を後ろから斜めに差して、その頭上を覆う傘で衣笠・蓋・衣摺・衣撒・衣繖も同一の意味です。
で、この繖に似た形の山から名付けられています。
 寺は繖山の西麓にあり、西国薬師霊場の第四十六番の札所である天台宗寺院。
奈良時代の前期、天智天皇の勅願により建てられたと伝えられており、藤原鎌足の長男で、中国より桑の木を持ち帰り、養蚕を教えたことでも知られる定恵和尚が開山しました。
薬師如来を本尊とする寺院で、山号を繖山といいます。

寺の由来は紙本著色桑実寺縁起(重要文化財、土佐光茂筆)によると、
昔、海上に生えた桑の巨木に3粒の実がなっていました。
実は落ちてその1つは桑実山となり、他の2つは夫々日光菩薩・月光菩薩の垂迹(すいじゃく 衆生を救うためにとる仮の姿)となりました。

天智天皇(626〜671) の御世に、大津宮に病が蔓延したことがありました。天智天皇の皇女、阿閉皇女(あへのひめみこ。後の元明天皇)もその病に伏せていました。
ある夜のこと、皇女は「琵琶湖の方から波の音が聞こえ、その音は『妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間恩 是故須常念』というお経のようでもありました。そして瑠璃色の光がさしてきました。」と言います。

定恵和尚は「皇女の夢想は病気平癒の瑞相である。」として天智天皇に説明しました。
そこで天皇は七光寺を建立し、定恵和尚に命じて琵琶湖に向かって法会を行わせたところ、湖底が光り始め、生身の薬師如来が姿をあらわしました。
如来から放つ光は皇女の病床にも挿し込み、たちまち皇女の病気は平癒したということです。
この薬師如来が降り立った桑実山に定恵を導師として堂舎を建てたのが始まりということです

したがって、本尊は薬師如来で、我国最古の秘仏とされていますが、俗に「桑峰薬師堂」とも呼ばれ桑実寺創建の時より難病救済の霊像として親しまれています。

元亀年間(1570-73)になるとしだいに荒廃しましたが、1576(天正4)年、織田信長によって再建保護されました。
本堂はその後1792(寛政4)年に大修理が行われて今日に至っており、室町時代初期の建築様式がそのまま残っています。




観音正寺

 西国33ヶ所巡りの第32番札所ということでお参りの人も多い観音正寺です。
開基については、聖徳太子が人魚の哀願によって寺をひらいたと伝わっています。
この伝説にちなんだ人魚のミイラがあったのですが、平成5年に本堂が焼失してしまい、本尊の重文・木造千手観音立像と共に焼失してしまいました。
この寺は、標高432.7mの繖山(きぬがさやま 別名観音寺山)の山腹にあります。
繖とは貴人の付き人が竹の柄の付いた笠を後ろから斜めに差して、その頭上を覆う傘で衣笠・蓋・衣摺・衣撒・衣繖も同一の意味です。
で、この繖に似た形の山から名付けられています。
寺伝によれば、往古、聖徳太子がこの地に来臨された折節、太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されました。
以来、太子が近江国に創建された12箇寺中の随一の寺院として、湖東地方に勢威を振るってきました。
そして鎌倉・室町時代は、近江国守護職佐々木六角氏の庇護を受け大いに隆盛し、三十三院の塔頭を擁したと言われます。
 ところが、応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、守備上の障害として山麓に移されたりするなど、一転して苦難の路を辿ることとなりました。その後、永禄11年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長2年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなりましたが、往時を偲べくもなかったようであります。
現在「奥の院」のある山頂には巨岩があります。ここは原始信仰では神が降臨すると考えられた聖域であり、この山に対する信仰があったと考えられ、奈良時代末から平安時代にかけて、多くの僧が、神の宿る神聖な山中で修行すれば、より強い霊力が得られると考え、これらの山に立て籠もって修行したということです。



観音寺城址

 観音寺城は築城年は分かっていません。守護職として中世近江国を支配した佐々木六角氏が居城していましたが、南北朝時代には既に存在していたということです。
繖山のほぼ全山を城域として、いたるところに石塁・土塁を構築した中世山城としては大規模な城です。
昭和44・45年に風土記の丘整備事業の一環として中心部分の発掘調査が行われ、礎石や側溝・暗渠・石段・井戸等の遺構と、多量の遺物が出土し、往時の盛大な姿の一部が明らかにされた。
 




風土記の丘・文芸の郷・セミナリヨ (安土町の紹介から)

歴史深い安土の風土を生かして、新たに文化・芸術を創造し、発信する拠点する意気込みが感じられる新たな地域です。
風土記の丘は繖山の麓にある歴史公園で、安土城考古博物館は滋賀県内の遺跡からの出土品を常設展示しています。

1754(宝暦4)年に建てられた宮地家住宅は湖北地方に特有の様式を持つ民家です。


明治9年に建てられたベランダ付校舎の柳原(りゅうげん)学校校舎は県内で現存する最古の校舎です。

左側は洋風建物、右側は和風の建物で、中の様子も洋風と和風の両方になっていました。

明治18年に建てられた安土巡査駐在所は洋風建築。

文芸の郷は1992年スペイン・セビリア万博の展示物として原寸大の安土城天守(5・6階)が展示された「信長の館」があります。















また、国際文化交流都市であるポルトガル・スペイン・イタリアをはじめとするヨーロッパ文化をモチーフにした「文芸セミナリヨ」、「あづちマリエート」や「スペイン広場」があり、異国情緒ただようスペースとなっています。西欧の聖堂を彷彿させる文芸セミナリヨは高さ約11メートルのパイプオルガンが設置された文化・芸術ホール。音楽や演劇、各種創作活動、の発表の場となっています。また、あづちマリエートは、イベント交流体育館として広く利用されています。

セミナリヨとは1581(天正9)年にイタリア人でイエズス会宣教師オルガンチノによって建設された日本初のキリシタン神学校のことで、安土城が炎上したときに焼失しました。
現在は石碑が建っているだけですが、生徒たちの奏でる西洋音楽の調べに、織田信長も耳を傾けたと伝えられています。



ハ見寺

安土城跡本丸南西部にある寺院で、鈴鹿山の江雲寺を移して建立した臨済宗妙心寺派の寺でです。
開山は座元禅師ですが、この人は織田信長の従兄弟あたります。
創建当時は仏殿・通閣及び三重塔・鎮守社・拝殿・鐘楼・書院・庫裏・楼門などの立派な建物でした。
これらのうち、仏殿・三重塔・鎮守社・拝殿・鐘楼が江雲寺から移されたものと伝えられ、信長の死後はこの仏殿にその像が祀られました。
しかし、残念ながらこれらの多くは江戸時代後期に焼失してしまったということです。



安土城跡
        写真の真ん中の峯に安土城が建っていた。

 1576(天正4)年、天下統一を進めていた織田信長は、安土に居城を作ることにしました。
3年の年月をかけて五層七重の天主閣を持つこれまでの城とは破格の城郭だったのです。
ここで、安土城関連の年表を確認しておきましょう。
    1576   正月中旬、安土城の築城を開始する
    1577   安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
    1579   完成した天主に信長が移り住む
    1582   ハ見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
          本能寺の変で信長死去、安土城の天主・本丸等が焼失する
    1585   豊臣秀次の八幡城築城に伴い安土城は廃城となる
    1592   秀吉がハ見寺に寺領百石寄付の朱印状を与える
    1604   豊臣秀頼、ハ見寺三重塔を修理 書院・庫裏を寄進する
    1617   徳川秀忠、寺領を二百二十七石に加増、ハ見寺に安土山の支配権を認める
    1682   信長百回忌が行われる
何と城が完成してから焼失するまでには3年間しかなかったのです。

織田信長が、安土の地を天下統一の拠点に選んだの何故でしょう。
先ず、日本の中心で東西に陸路が発達していて交通の要諦だったことでしょう。第2番目としては朝廷を監視するにはそれほど遠くなく、また故郷の尾張からも近いことではないでしょうか。

誰に命じて城を作らしたのでしょう。
丹羽長秀です。長秀は東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員し、いわゆる「天下普請」で3年間を乗り切ったのでした。
設計は尾張熱田社出身の岡部又右衛門父子です。そのほか京都・奈良・堺の名工たちを集めて細部にわたり手の込んだ細工、飾りを施しています。
石垣については穴太(あのう)の戸波一門、襖絵などを描いたのは狩野永徳父子、金工の鉢阿弥一門など当代随一の職工が当たりました。
天守閣の5階は部分は正八角形で室内の柱や天井はすべて朱色に塗られ、壁や天井には昇り龍や降り龍などの極彩色の絵が描かれました。
6階は四方がすべて金色に彩られ障壁画が描かれていたと伝えられています。
この部分は文芸の郷で複製ではありますが見ることはできます。
この城は信長にとって天下統一の壮麗な象徴だったのでしょう。



大中湖南遺跡

「大中の湖干拓事業」の工事のときに発見された遺跡で、弥生時代中期の農耕集団の遺跡です。
奈良県唐古遺跡(弥生前期)、静岡県山木遺跡(弥生後期)、静岡市登呂遺跡(弥生後期)とともに、我が国の4大農耕集落遺跡のひとつに数えられています。
遺跡から出土した木製農具、その他木製彫像、人形(ひとがた)、土師器かまど等は近江風土記の丘資料館 に展示されています。


                    第82回(奈良県吉野)     第84回(京都府宇治)


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