淀・八幡市     (第143回)                       平成20年4月5日(土)

 今回の歴遊会の探訪は去っていった冬に別れを告げ、来る春をのんびりと楽しむことにした。
ということで、史跡めぐりはほどほどにして、上の写真のように桜の木の下でバーベキューパーティーとなった。


 京阪電車の淀駅で降りると、そこはかの有名なJRAの競馬場があるところだ。競馬が開催されていると人また人で、大都会の繁華街も顔負けする人の多さだ。
幸いにも?、今日は開催されておらず、淀の町を歩くには支障がなかった。



與杼神社

大阪から来るホームの改札口(2001年3月高架工事完成で東へ200m移転)の前に與杼神社がある。
我々レベルの知識では、読むことができなかったが、案内板を見て、ハッと気が付いた。與(与)杼神社とは「よどじんじゃ」と読む。
なんと、地名そのものではないか。

祭神 : 中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
      右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
      左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)

由緒 : 応和年間(961〜964年)、千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国河上村の與止日女(よどひめ)神社より
      与度日女大神(よどひめおおみかみ)を勧請したと伝わるが、式内社であることから900年より以前から存在していたという
      説もある。勧請したところは桂川右岸の宮前橋の下流の大下津町(乙訓郡水垂村)であった。
      淀姫社、または水垂社とも呼ばれていたこともあり、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていた。
      1649(慶安2)年、社殿を復興。
      明治10年、與杼神社(与杼神社)と改称され、同35年の淀川改修工事により、現在地に移転移築された。

ところが、昭和50年8月5日、花火遊びが原因で重要文化財に指定されていた本殿が消失してしまい、現在の本殿は5年後の昭和55年3月に再建されたものとなった。
この神社の秋祭は10月に行われるが、クライマックスは神輿渡御で、本社から水垂の旧社跡に向けて3基の神輿が担がれていた。当初は船に神輿を乗せて桂川を渡っていた。
しかし、第2次大戦で担ぎ手が不足し、中断を余儀なくされた。 戦後に復活はしたものの、神輿は船渡御でなく、宮前橋を担いで渡るようになり、途中中断はあったものの現在は2基の神輿の巡行が行われている。





国の重要文化財拝殿(1607年建造)






左は奇妙な形の燈籠であるが、調査不足のため
どういう意図で造られたかは不明。        

淀城址

 淀は淀津と呼ばれ、大阪湾から淀川を上って来ることも、大和から木津川を下ってくることもできる古代からの交通の要衝であった。
『西日本から淀川の水運によって平安京に運び込まれる様々な物資は、「淀津」で陸揚げされるのが通例であった。中世には川の中島(現在の京阪淀駅周辺)に「魚市」が存在し、都に運び込まれる塩で加工した海産物や塩の販売を一手に掌握していた。

また、戦国時代には戦闘の拠点として「淀城」がたびたび史料に登場するが、これは現在の納所付近に存在したようである。この古淀城は天正1 7年(1 5 8 7)に淀殿の産所として豊臣秀吉によって修築されたが、伏見城の築城計画とともに廃城となった。

現在京阪淀駅の北西に隣接して石垣と堀が残る淀城は、廃城になった伏見城にかわる新たな京都護衛の城として、古淀城の宇治川を挟んだ対岸の中島に元和9年(1623)から寛永2年(1625)にかけて築かれた。
最初の城主は松平定綱で、寛永1 0年(1 6 3 3)には新たな城主である永井尚政が入城する。この永井藩政時代に木津川流路の移動による城下町の拡張が行われた。次いで、寛文9年(1 6 6 9)には石川憲之、宝永8年(1 7 1 1)には戸田光熈、享保2年(1 7 1 7)には松平乗邑と相次いで城主が変った。しかし、享保8年(1 7 2 3)に稲葉正知が城主となった後は、幕末まで稲葉家が城主をつとめた。

歴代城主はいずれも譜代大名であるが、慶応4年(1 8 6 8)の鳥羽・伏見の戦いでは、敗走する幕府軍を入城させず、官軍側についた。このときの戦火で城下が焼亡した。

調査地は、淀城の「東曲輪」と呼ばれる地域の北端部分にあたる。東曲輪は、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる淀城の主郭部分を囲む堀の外側に位置し、淀藩の高位の家臣の屋敷が所在する地域である。東曲輪は外堀で囲繞され、その外側は町人が居住する町家地域である。この敷地は淀城を描いた江戸時代の各種の絵図に描かれており、淀城期の地割りを踏襲するものと思われる。』

(京都市埋蔵文化財研究所 発掘調査概報 2003-13より)
 淀は淀津と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物を集積する商業地であった。したがって、今も残る納所(のうそ)という地名は、港町独特の倉庫群が立ち並んでいた様子がうかがわれる。

淀城は、淀藩の居城として、江戸幕府主導のもと築城されたものであるが、本来淀城は三つ存在する。

戦国時代の淀城は納所地区にあって中核をなしていた。
この戦国時代の淀城は、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用されたが、応仁の乱でも利用された記録があるから室町時代には存在していたのだろう。

桃山時代に入って、秀吉が側室の茶々(淀君)を住まわせたことはよく知られている。
この城は、戦国時代の軍備が目的の城ではなく典型的な館城であり、この城も納所地区にあった。

第3代とも言うべき、本日訪れた淀城は徳川幕府によって築城されたものである。
1615年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだのち、徳川幕府は、豊臣秀吉の造った伏見城を解体し、京都の南の守りとするべく、淀に城を建てた。
1623(元和9)年、遠州掛川から松平定綱を配置換えして着工、1625年に近世淀城を完成させた。
その後、永井氏が2代、石川氏が3代、松平(戸田)氏が2代、松平(大給)乗邑と城主が代わり、稲葉正知が10万2千石の城主となり、以後明治まで144年間稲葉氏の時代が続いた。

天守閣は五重、他に三重櫓六棟、二重櫓七棟、一重櫓二十五棟を数える立派なものであった。本丸には金張りの彩色絵の「帝艦之間」など豪華絢爛なものであった。
これは伏見城の廃材や二条城の天守などを転用して築城されたことによるのだろう。

1868(慶応4)年、稲葉藩は譜代大名であり、時の城主稲葉正邦が老中についていたにもかかわらず、鳥羽伏見の戦いのとき、藩兵は城内にいて戦況を見守っていた。
官軍側が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府軍に対して門を閉ざして中立を守った為、幕兵は淀藩が寝返ったとみなし、幕兵が城下町に放火して淀は焼け野原と化した。
その後淀城は廃城藩となって壊され、現在に至っている。


淀城を後にして八幡に向う。 前方に桜並木が見えてきた。


背割堤

 桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流して淀川(正確には宇治川の観月橋以下が淀川)と名前が変わる地点にある堤防にたどり着く。
御幸橋から下流にあるこの堤防は1.4kmの長さがあり、約250本のソメイヨシノが一斉に咲き出していた。
蛇足ながら、御幸橋というのは男山の石清水(いわしみず)八幡宮への参道で、朝廷からの使者がこの橋を渡り、御幸道などと呼ばれていたことに由来するのだが、伏見城から豊臣秀吉が御所に参内する時に通った道も御幸町通りという。

 この日はいいタイミングで桜まつりの日だった。

 桜の下はバーベキューをしているグループで満員だった。

 延々と続く桜のトンネル、こんなところを歩くだけで気分的に浮かれてくる。
なかなか素晴らしいと感嘆した。

 1.4kmというのはけっこう長い。桜が250本というのは少ないというような気がしたが、10mおきに1本なら、両側で280本ということになる。
だから、そんなものなんだろう。
よく、何千本とか何万本というけれど、それはどんなものだろう。



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