大津の探索  (第141回)                          20年2月23日       

湖西から草津方面を望む
 今回はJR大津駅に集合して旧東海道を通って近江神宮方面へ向うこととにしている。
初参加者もいて、面白い趣向が企画しておられたが、これは後ほど紹介いたします。
駅から琵琶湖方面に歩いて5分ほどで京町通りに到着するが、ここが旧東海道。
街道沿い独特の虫籠窓の家並みもあり、江戸時代を思い浮かべる風景である。






この京町通り、明治24年5月11日に日本の司法権を揺るがす事件が起こった場所でもある。
世に言う大津事件である。

 ロシア帝国の皇太子・ニコライはシベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、艦隊を引きつれてウラジオストクに向かう途中、長崎、鹿児島、神戸、京都などに立寄っていた。
歓迎の意図を表わすため、京都では5月に季節外れの五山の送り火まで行われた。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
長崎でのニコライ皇太子(1891年)

5月11日、ニコライと共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオスとともに京都から琵琶湖へ日帰り観光をした。
その帰り道、人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵によりサーベルで斬りつけられた。

 ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んみ、右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。



 事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は新橋駅から汽車に乗車、同日夜には京都に到着し、その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期された。
翌日、天皇はニコライを見舞い、さらにニコライを神戸まで見送った。
小国の日本が大国ロシアの皇太子を負傷させた事件はたちまち日本中うにセンセーショナルに広がった。
その結果、学校は休校、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺した女性も出現した。
 津田三蔵(つださんぞう)とは武蔵国豊島郡下谷に伊賀国上野の津藩士の子として生まれた。
後に三重県伊賀上野に移住。
1877年(明治10年)から西南戦争に従軍、少なからぬ功績が認められ勲七等が授与されたが、大津事件後巡査を免職されると同時に剥奪された。
津田は『西郷隆盛が実は生きていて、ロシアに保護されていたのをニコライとともに日本に帰ってくるのだ』という噂を真に受けて凶行に及んだ。もし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたということか。

動機を裏付ける供述は得られておらず諸説が多い。
ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたと言う記録もある。
他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もある。精神病歴があったともいう。

結果的に無期徒刑の判決を受け、北海道標茶町にあった釧路集治監獄に移送、収監されるが、同年9月29日に獄中で病死した。
死因は急性肺炎で、旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日記があるものの、死因に不審な点があることから政府による謀殺説があるが詳細は不明である。
                  以上、大津事件に関してはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にいたしました。

近松別院

 正式には顕証寺というが、一般には近松別院・近松御坊と呼ばれている。
比叡山の堅田攻めの気配を察知した蓮如は1469年に安全な大津三井寺の境内に坊舎を建立、真影を安置した。
近松別院は、寺院を中心に南・北・東の各町や支院が取り囲むという形の「寺内町」という形態をとっていた。
昭和20年7月、陸軍の命により取り壊され、現在の建物は昭和56年に建立された。





本長寺

 大津代官として江戸時代に活躍した小野、石原両氏の菩提寺で、境内の墓地には歴代代官の墓が並ぶ。
また、松尾芭蕉の門人で、地元大津の医師であった江左尚白の墓もある。


       小野代官像             石原代官像

犬塚と欅


真宗中興の祖蓮如が大津で布教中、他宗門より毒殺を企てられた。


蓮如が毒入り料理を知らずに食べようとしたとき、かわいがっていた犬が身代わりとなって食べて死んだ。


この欅の大木は蓮如が忠犬を弔うため植えたものが育ったと伝わっている。

樹齢は500年。

高観音 近松寺

三井寺三別所と呼ばれる微妙寺、尾蔵寺、近松寺(ごんしょうじ)。
唯一創建当時から今の場所にあるのが「高観音」の名で知られている近松寺である。

 杉森信盛(通称平馬)は公家の一条恵観らに奉公したあと、自分の行く末に悩んで近松寺を訪ねたのは1672(寛文11)年であった。

平馬は武門の家に生まれたが、次男で家を継ぐ必要はなかった。
若くして徒然草も読んだ。詩歌も詠んだ。
その後、三年の間、近松寺で過ごした。

音曲の祖神、逢坂山の蝉丸宮を近松寺が支配下に収めてからは、音曲芸能の免許状の発行をも引き受け、音曲芸能への関連を深めてきたという。

杉森平馬が後に名乗った戯曲家、近松門左衛門の苗字はこの寺の名前によるものだったと考えるのもあながち誤りではあるまい。



三井寺の末寺として栄えた近松寺。
本尊は智証大師の作と伝えられる千手観音菩薩で、園城寺で一番高い位置に祀られている観音で高観音と呼ぶ。

如来堂(上写真奥)には信濃善光寺如来と同一体の閻浮壇金三尊の仏を祀っている。






左写真は近松寺前から大津市街地を見たところ。


大津大神宮







 この案内板、もう読めるような状態ではなく、解説も書けません。

明治11年10月20日、久邇宮朝彦親王の御令旨により、
             天照皇大神宮を奉斎したのが創始である。
明治31年10月20日、豊受大神宮を合祀した。
昭和4年5月、    長等公園内の現在地に社殿を移築し、
             社務所斎館を新築した。



長等神社

 天智天皇が近江大津宮へ遷都(667年)した際、都の鎮護として、 須佐乃男命(スサノオノミコト)を長等山に祀ったのが始まり。
その後、智証大師円珍が日吉大社を合祀し、園城寺(三井寺)の鎮守とした。
1054(天喜2)年、庶民が参詣しやすいように山の上から現在地に移ったとされている。
兵火による焼亡後、1340(興国元)年、足利尊氏によって再建され、湖南の大社といわれた。皇室を始め多くの武将、民衆の崇敬を集めて隆盛きわめた。
楼門は明治38年2月に完成したが、中世の古い建築様式が細部にわたって再現されている。
設計は安藤時蔵、青地安太郎。三間一戸入母屋造、桧皮葺。

本殿は正面五間の構造で類例の少ない社殿である。
大津は京都に入る最後の宿場であったため、江戸時代は旅人も参勤交代も商人も、ここで馬も身を浄めたことから境内には珍しい馬神社もある。
寛永年間、諸国に馬の疫病が大流行し、馬を害する妖怪「馬魔(ぎば)」の仕業だとうわさが立ったことがある。
馬神社が建てられたのは、この疫病を鎮めるためだったという。大津宿の中心地、東海道と北国街道の分岐する札の辻の馬会所裏にあり、旅人の他にも馬持衆らの信仰を集めていた。
神社の「大津東町馬神」と書かれた腹掛けをすると疫病除けになるといわれ、全国から参拝者を集めていたという。

長等神社の楼門(市指定文化財)

楼門内の武者

長等神社中門

長等神社本殿






 長等神社の次は新羅三郎の墓へ向う。
左上の写真は琵琶湖疏水の第1トンネルである。 明治2年の東京遷都によって、政治・経済・文化の中心は東京に移った。
これにより京都の経済産業は衰退の一途を辿ることになる。そのため第3代京都府知事の北垣国道は、水の確保と物資の輸送を目的に琵琶湖疏水の建設を計画した。
そこで、技師として選ばれたのが東京工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎だった。
工事は明治18年に開始され、完成したのは5年後の明治23年だった。
総予算125万円(現在物価で9000億円程度)の巨費を投じての工事に反対する人も多かった。
しかし、この工事のお陰で、水運の利便性が高まった他、発電を通して京都の近代化を実現することができたのも事実である。
左上の水路のトンネルには閘門が設けられている。これは、疏水を作ることにより琵琶湖の水位が下がってしまうとの懸念に対する配慮だったのかもしれない。

 右上の写真は三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護している。この前を通過して山中の道を進むと新羅三郎の墓に辿りつく。





新羅三郎義光の墓

 平安時代後期の武将で河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男に源義光という武将がいた。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖に当たる八幡太郎義家の弟で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称する男である。
新羅三郎は、弓馬の道にすぐれ、後三年の役(1083〜87年)には、兄の義家を助けるために奥州へ出兵し、清原氏の乱を兄に協力して治めた。(案内板資料より)
 八幡太郎義家が清原氏を討つため奥州に遠征し、金沢の棚で陣をはったが戦況不利のため、弟新羅三郎義光は援軍として奥州に馳せ参じる途中、足柄峠において豊原時秋に笙の秘曲を授けた史実はあまりにも有名である。海抜759mの足柄峠にある2m角大の岩石が笛吹き石と名付けられ、往時を偲ぶ唯一の証として残っているが、年々忘れられていくのを惜しみ、南足柄市、小山町の両観光協会は毎年9月の第2日曜日に足柄峠において供養及び笛まつりを実施しており、祭りの中で行われる笙の吹奏、雅楽合奏等は平安の昔を偲ばせる格調高いもので、近隣の善男善女で賑わっている。
この度、笙の秘曲伝授の地より義光公ゆかりの当地を訪れ、墓前においてねんごろに供養し、源家ゆかりの方々との交流が生まれれば幸いとこれを記します。
平成2年6月4日
神奈川県南足柄市観光協会
静岡県駿東郡小山町観光協会
(案内板資料より)

のような案内板のほかにも、また、義光の子孫が、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏と発展していったという話や、日本古来の武術の合気道について、太祖を大和武尊、始祖を新羅三郎源義光として甲斐武田家に代々伝えられ、門外不出の技法とされていたこと。
大和武尊は、一子武田王命に宮廷守護の武術として伝えたのが、清和天皇の第六皇子貞純親王から長子経基を経て源氏へと伝承されたこと。
新羅三郎は、この武術に実戦を基とした研究改良を加え、宮廷に仕え、相撲、合気の道を究めた文武の名将であった。
という風に武術に長けた話は多い。




弘文天皇陵

 古代史が好きな人にとっては天智天皇の第一子、大友皇子が天皇に即位したかどうかは興味のあるところである。
天智天皇の死後、吉野に隠遁していた大海人皇子(おおあまのおうじ)の起こした「壬申の乱」に破れて自害した。
日本書紀には、弘文天皇記の段はなく、大友皇子が即位したという事実は存在させていない。
というのも、日本書紀を編纂したのは大天武天皇(海人皇子)の皇子舎人親王であるからである。もし、弘文天皇が即位していたとすれば、父が即位した弘文天皇を死に追いやって、皇位を簒奪(さんだつ)したことになる。
歴史書とは為政者の都合のよいように記述されるのは当然のことであるからである。
江戸時代の国学者伴信友(ばんのぶとも)もこのことを指摘しているし、水戸光圀の編纂した「大日本史」でも同様の立場をとっている。

この流れにしたがって、明治3年、政府は大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を与え、第39代天皇と認定したという事実がある。

また、信憑性はどの程度のものかは別として、大友皇子は壬申の乱の敗戦後、后や子女を伴って東国へ逃れたとする伝説があり、事実神奈川県伊勢原市には大友皇子の墓まで存在している。


昼食は皇子山公園で

 毎回の如く、手料理の食事会。
この日は春一番が吹き荒れ、寒い一日だった。
広い公園内には、なんと我々1グループだけしか人影はなかった。


今回は優雅さを楽しもうと、昼食の後は野点のお茶会を敢行!

赤い毛氈ならぬブルーシートでいただく抹茶もおつなものでした。



近江神宮

雪の残る近江神宮では結婚式が行われていた。
このあと、琵琶湖まで歩き、本日のお開きといたしました。




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