山科から高台寺へ
 (第140回)                   20年1月26日


 例年のように、1月は新年会も兼ねて京都市東山の将軍塚でうどんすきを食べることにした。
今回は行程の話をする前に、浄土真宗本願寺第8世座主蓮如について話しておきます。



蓮如

 室町時代1415(応永22)年、京都東山の本願寺で生まれる。父は本願寺第7世座主の存如。
1420年、父存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退いた。当時、仏光寺が本願寺より隆盛を極めており、真宗他派から仏光寺へ鞍替えするということもしばしばあったという。
本願寺については、本堂の広さは、三間四面(約十八畳)で、「参詣の人、一人もみえさせたまわず」(本福寺由来記)という有様であった。

蓮如は15歳で得度し、興福寺大乗院経覚について学んだ。二十歳を過ぎると父存如とともに関東、北陸方面へ布教活動を行っていたが、存如が死亡した1457年からは大谷本願寺の留主職に就く。

蓮如の布教活動は「御文章(ごぶんしょう)」を使用するものであった。「御文章」は、「御文(おふみ)」ともいわれ、蓮如が、親鸞聖人の教えを民衆に分かりやすく説明した手紙のこと。
門徒の集会の際に読み上げられ、しかも、一通の「御文章」は、次々に書き写され、数十、数百に増加した。実際蓮如が書いた「御文章」は数百におよぶと言われているから、布教に使われた「御文章」の数は何百万にも膨れ上がっていたものと思われる。

この急激な急激な信者獲得は、他宗や旧仏教の反感をかう事になった。特に、近江に地盤を持つ比叡山延暦寺を大きく刺激し、対立することになった。
そして1465年、延暦寺の僧兵数百が、京都東山に大谷本願寺の襲撃の挙行にでた。世にいう「寛正の法難」。これにより、大谷本願寺は破壊された。
しかし、蓮如は祖像を奉じて近江の国を転々とし、布教を精力的に行った。
1469年、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、長男の順如を住持とする。

1471年、越前吉崎に吉崎御坊を建立。ここで信者を一気に増やし大いに栄えることとなった。
御文章にも「あら不思議や、一都に今はなりにけり。そもこれは、人間のわざともおぼえざりけり。ひたすら仏法不思議の威力なりしゆえなり」とある。
このとき都では応仁の乱の最中で荒廃ははなはだしかった。

応仁の乱の余波が吉崎にも及んだのか、1474年、加賀の国の守護富樫政親と富樫幸千代が内紛を起こし、蓮如は富樫政親に協力し、富樫幸千代らを滅ぼした。
しかし、今度は政親は蓮如の下に民衆が集まる事に危惧を抱くようになる。更に蓮如の弟子である蓮崇が一揆の扇動を行うに至って対立の構図が出来上がってしまった。

翌年、蓮如は吉崎を去り、各地を点々として、1478年、この山科の地に御坊を建設することになった。(御坊の完成は1483年)
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と、当時の人々を驚かせたという。
山科本願寺は、四方土塁をもって固められていた。他宗の攻撃に備えた城郭さながらのものであった。
しかし、こんなことを言う人もいる。「城のような構えをとりながらも法城を護る人々には、真実の利剣、南無阿弥陀仏の名刀がある」と。

1488年、加賀の一向一揆が起こり、富樫政親は滅んだ。
1496年、大坂石山の地に石山御坊を建立。
1499年、山科にて85歳の生涯を閉じる。
1552年、六角定頼(南近江の戦国大名)および日蓮宗徒による焼き打ちにあって焼失する。

以上の知識を持って以下の記録をご覧ください。


東御坊

山科別院長福寺真宗大谷派
京都市山科区竹鼻サイカシ町





1732(享保17)年、真如が東本願寺内の長福寺を移して創建した。





西御坊

本願寺山科別院浄土真宗本願寺派
京都市山科区東野狐薮町






1732(享保17)年、住如が北山別院の旧堂を移して創建。





蓮如廟




京都市山科区西野大手先町

左の写真の門の中に墳墓がある。



土塁




山科本願寺は攻撃から守るためにこのような土塁が築かれていた。




天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ
       をとめの姿 しばしとどめむ
 百人一首でお馴染みの歌。
作者は僧正遍昭(遍照とも)。平安時代の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人。俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。花山(かざん)僧正ともいう。
仁明天皇の寵臣として蔵人・蔵人頭などを務めたが、35歳の時、天皇が崩御すると出家した。
子の素性(そせい)法師は出家前にもうけた息子である。
868(貞観10)年、元慶寺(がんけいじ)を建立し、869年、紫野の雲林院の別当を兼ねた。885(仁和元)年に僧正となり、花山僧正と呼ばれた。
『古今和歌集』の仮名序には「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかける女を見て徒に心を動かすが如し」(歌の風体や趣向はよろしいが、実感にとぼしい。絵に描いた女を見ていたずらに恋心をつのらせるようなもの)と評されている。


子の素性法師の歌も百人一首に登場している。
今こむといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

元慶寺

 さて、その僧正遍昭が建立した元慶寺。
渋谷街道と川田道の交わる辺りにある。
西国三十三所番外札所としても知られている。
寺格も高く多くの寺領で栄えたが、応仁の乱で罹災した。
本堂は江戸時代に再建されたもので、本尊薬師瑠璃光如来と共に、遍昭、花山法皇の像が安置されている。
 というのも、この寺には遍昭の話のほかにも話題がある。それは藤原道長の父兼家が、娘詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)を天皇にしようと、若い花山天皇を元慶寺に強引に出家させたというもの。
それゆえ、花山法皇の宸影が安置されているということだろう。





元慶寺をあとにして一路東山に向けて山登りに入る。
JR東海道線のトンネルの上の急な坂道を登る。





  待てといわばいともかしこし花山(はなやま)に
      しばしと啼(な)かん鳥の音もがな





     山科区北花山(かざん)河原町13










蝋梅も梅より一足早く咲きだしている。



毎年2月11日(祝)午前7時30分から山科区北花山大峰で行われる「阿含の星まつり」会場の設営現場を見た。
20日以上も前からこのように準備がなされている。
神仏両界大柴燈護摩供(しんぶつりょうかいだいさいとうごまく)と言うらしいが、例年50万人を超える参拝者で賑わうそうである。


将軍塚

山頂からの眺め、北のそびえる比叡山は雪化粧だった。

歴遊会恒例のうどんすき新年会。

新年会では初登場の焼肉。

うどんの上にスクランブルエッグ?

急に雪が降り出す。

雪も止み、京都市内が一望に。中央の東本願寺の御影堂工事のスケールの大きさが分る。


霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)



昼ごはんも食べたことで、高台寺側に山を下る。

この神社の祭神は菊理媛神・速玉男命・事解男命であるが、明治元年5月10日、明治天皇により維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔が発せられた。
それに感激した京都の公家や長州、土佐、肥後などの諸藩がそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまり。
靖国神社より早く、日本初の招魂社となった。

坂本龍馬、中岡慎太郎の墓

花束が置かれ、お参りをする人が絶えることが無い。

高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞の墓
筆者はこの来島のオッチャンが好きなタイプである。

桂小五郎の墓


高台寺                                        京都市東山区高台寺下河原町526

 正式名は高台寿聖禅寺。臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は鷲峰山(じゅぶさん)。
豊臣秀吉の正室である北政所(高台院 ねね)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院である。
徳川家康は、北政所がこの寺を建てるにあたり、手厚く協力をしている。創建当時の高台寺の仏殿は北政所の実母である朝日局を祀った康徳寺の堂を移築したものであったが、方丈、茶室などは伏見城から移築した。
しかし、仏殿や方丈は火災で焼失しており、近世に建て替えられたものである。

庭園(史跡・名勝)は小堀遠州作とされ、しだれ桜と萩の名所。JRのポスターなどにもこの庭園写真が使われ、桃山時代の代表的な庭園とされている。

観月台、開山堂、臥龍廊(がりょうろう)、霊屋(おたまや)と並ぶ。

               霊屋(重要文化財)
この建物の中には右に豊臣秀吉の坐像、左に北政所の片膝立の木像が安置されている。

                 開山堂
中興開山の三江紹益の像、北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、高台寺の普請を担当した堀直政の像が安置されている。

伏見城から移築した茶室「時雨亭」

時雨亭内部

伏見城から移築した茶室「傘亭」

傘亭はこの天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名が付いたとされている。


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