左京区岩倉                                      19年10月13日
 岩倉は比叡山の西側に位置する盆地で、田畑の間に広がる住宅街に京都国際会館の落ち着いた雰囲気がこの地の特徴だろう。また平安京造営の折、王城鎮護のため一切経を埋めた地の一つと伝わる歴史ある地でもある。
実相院の北側に鎮座する石座(いわくら)神社では、岩倉の住民に危害を加えていた雌雄の大蛇を石座大明神の灯火で退治されたという伝説にちなむ祭りがあり、暗闇に包まれた午前3時。雌雄の大蛇に見立てた2本の巨大な松明(たいまつ:長さ約12m、頭部の胴回り約5m)に点火される。
燃え尽きるまで約2時間。火柱は10mにもおよぶ。こういった京都市内とは別世界のような土地柄を味わうため秋の気配を感じ始めた日に探索に出かけました。
蓮華寺

 蓮華寺は、今の京都駅付近にあった時宗の古寺で、応仁の乱で荒廃していた寺を、1662(寛文2)年、加賀前田家老の今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提のため、この地に再興した。
山号:帰妙山
本尊:釈迦如来像

 寺の再興の時には石川丈山、狩野探幽、木下順庵、隠元禅師など著名文化人が協力している。

六角形急勾配の笠をつけた
蓮華寺型石灯籠
池の水面に映る鶴島、亀島は仏の世界を表しており、仏が蓮の上に座る姿を表現しているとの説明であった。

祟導神社


 平城京から長岡京に遷都された時のこと、藤原種継の暗殺事件が起きた。
桓武天皇は実弟の早良親王(さわらしんのう)が事件の首謀者として疑いを掛けた。
そして親王を淡路島に流すことを決めた。
そして、親王は淡路島に流される途上、無実を訴えて大山崎の乙訓寺で断食死した。

 その後、平安京遷都するも度重なる災いは消えることもなく、桓武天皇は親王の祟りと決めつけた。


桓武天皇は祟りを鎮めるために早良親王を祟道天皇と追号し、平安京の鬼門であり、交通の要衝(若狭への街道筋)のこの地に祟道神社を建立したという。

 御霊信仰の始まりだが、上御霊神社などとは違い、この神社は崇道天皇のみを祭神としている。

 この神社の裏山から小野毛人(えみし)の墓が発見された。
小野毛人は、遣隋使で有名な小野妹子の子どもで天武朝の官僚、677年に没したとされている。
1613(慶長18)年、石室が発掘されて鋳銅製の墓誌が発見された。その墓誌によりこの墓が小野毛人の墓であることが明らかになった。その後再埋納と発掘をくり返えし、1914年に三たび発掘され、国宝に指定されて現在は京都国立博物館の保管されている。

墓誌の表面には
「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝廷太政官兼刑部大卿位大錦上」
裏面には「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と記されている。

ここでいう丁丑年とは677年のこと。

この地は山城国愛宕郡小野郷にあたり、途中越えから滋賀県大津市志賀町小野の辺まで小野氏の本拠地であったと推測されている。



三宅八幡宮
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」

 小野妹子が607(推古15)年第2回遣隋使として海を渡ったときの手紙である。
遣隋使の目的が新しい文化の取り入れであったのだろうか。
それなら、この国書の書き出しはおかしくはないだろうか。日出づる処の天子と書を日没する処の天子ではどちらが上位なんだろうか。
隋の皇帝、煬帝は気に入らなかったのだろう。本来なら小野妹子を捕え罰するところであったに違いない。
それにもかかわらず、煬帝は返書を作って妹子に持たせている。
ところがである。この返書が帰国途中、百済で盗まれてしまったということになっているのである。


 当然だろう!外交使節が最重要の国書を盗まれるなんてことがあり得る話ではない。
妹子はこの手紙を飛鳥に持って帰る訳にはいかなかったのである。
「日出づる処の天子」に見せられる内容ではなかったからだろう。

 小野妹子は帰路途中に筑紫で病に倒れた。かなりの心労であったに違いない。それで大分県の宇佐八幡宮に平癒祈願したところ病が全快したという。
帰朝後、妹子は宇佐八幡を山城国愛宕郡小野郷に勧請したとされ、それが三宅八幡宮だとされている。
「三宅」が付くのは、後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王の血を継ぐ血統で南朝方の忠臣「備後三郎三宅高徳」がこの八幡宮を尊崇したことからという。
応仁の乱で焼失したが、岩倉の里人たちによって再興された。尚、現代の社殿は明治2年に拝殿、明治20年に本殿が再建されたものである。
祭神は八幡宮というから応神天皇である。
 三宅八幡宮は「虫八幡」とか、「虫除け八幡」とも呼ばれている。
子供の夜泣き、疳の虫に効き目があるとされている。

この神社では鳩が神の使いとされており、左の写真のように狛犬ではなく狛鳩が鳥居の前に構えている。
ただ、宮司さんに聞いてみると、鳩と神社の関係は、実際のところよく分らないということでだった。
この宮司さん、一説には応神天皇が鳩を可愛がっていたからとも言われていた。
それならば全国の何千という八幡社でも鳩との繋がりがあってもいいのだが。


 右は境内で売られている「鳩餅」。
古くから三宅八幡の名物菓子として知られている。

上は舞殿、下は舞殿奥の拝殿、その奥に本殿がある。

高樹院(萩の寺)

三縁寺(池田屋事変殉難烈士の墓)
←実相院に向う途中に立ち寄った寺院
三縁寺は東山区縄手通三条下ルにあったが昭和54年に現在地に移転した。
ここには贈従四位 吉田稔麿(長州)   贈従四位 杉山松助(長州)
     贈従四位 北添佶摩(土佐)   贈従四位 望月亀弥太(土佐)
     贈正五位 石川潤次郎(土佐)  贈従五位 広岡浪秀(長州)
     贈正四位 宮部鼎蔵(肥後)   贈従四位 松田重助(肥後)
     贈正五位 大高又次郎(播州)らの池田屋事変殉難烈士の墓がある。



山住神社








 山住(やまずみ)神社はこの後に行く石座(いわくら)神社が元あったところ。
971(天禄2)年、円融上皇の廟として大雲寺が創建された際、八所明神が建てられ、そこに石座明神の鎮守社が移された。

 明治時代になると、八所明神を「石座神社」と呼ぶようになり、こちらの「石座神社」は「山住神社」と呼ばれ、石座神社の御旅所となっている。

左の写真、中央上部の小さな祠の後ろの岩が御神体である。

ここは社殿はなく山を神奈備山と仰ぎ、巨石を神々の降臨する神聖な磐座としているところが、今も古代信仰の形態が残っているところで貴重な場所なのである。



初秋の風が吹く岩倉川の畔を実相院に向って歩く。




岩倉具視幽棲旧宅



 岩倉具視(いわくらともみ)と言えば、下級公家の家に生まれ、幼名を周丸といい、のち岩倉家の養子となった。
関白鷹司政通を通じて、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始めた。
1858(安政5)年、日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参。
和宮降下の件では公武合体を唱え、幕府と通じ孝明天皇を動かし強引に実現させ、尊攘派に弾劾された。
1862(文久2)年からは官位を辞し、剃髪して、5年間岩倉の地に幽棲蟄居した。


 この邸には大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛、中岡慎太郎、坂本竜馬らが来訪し、王政復古や維新体制の密議が行われた。


邸内の対岳文庫には当時の維新史料文書、具視の遺品など重要文化財及び市指定文化財があり、旧宅とともに公開している。

具視が幽棲していた建物後は以上のような経緯もあって国指定史跡建造物となっている。




岩倉実相院
 実相院は元天台宗寺門派の単立寺院で、本尊は鎌倉時代の作と伝えられる木造不動明王立像である。
鎌倉時代の1229(寛喜元)年、 静基(じょうき)僧正の開山であるが、場所は今の上京区小川通今出川であった。岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるため1411(応永18)年であった。
今も院内には、格式の高い歴史を伝える文化遺産が数多く残っている。例えば、四脚門、御車寄せ、客殿などは、20世門主として伏見宮邦永親王の子、義周親王が入室されていた折、東山天皇中宮であった承秋門院の薨去(1720)に際して旧殿を移築したものである。

 また、江戸時代、寺院としては門跡寺院のみに飾ることを許されたともいわれる狩野派の襖絵も、実相院には京・江戸両狩野派がその技を結実させた124面がその華麗さを伝えている。
                                                          (実相院 拝観資料より)


石座神社(いわくらじんじゃ)
 前出、山住神社のところで述べたように、本来山住神社にあった石座神社が八所明神と名付けられた鎮守社が創建され、997年頃この地に移されたものである。

岩倉という地名は、おそらく石座=磐座(いわくら 神が降臨する場所)から来たものであろう。

そしてこの神社の神が岩倉地域の産土神(うぶすな 産土とは生まれた土地という意味で、その土地を守護してくれる神さま)であろう。
けっして、岩倉具視の「岩倉」から地名がでたのではない。

 このあと、我々は冷泉天皇皇后陵、宝ヶ池、末刀岩上神社、湧泉寺、松ヶ崎大黒天と回りました。






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