八尾     (大聖勝軍寺) 平成19年9月23日

 古代においては旧大和川が河内湖に注ぎ込み肥沃なデルタ地帯を形成した。
古墳時代には多くの豪族がこの地一帯に勢力を維持し、生駒山麓に数多くの陵墓を造築し、その多くが現在でも古墳として残っている。
飛鳥時代には、一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされているが、物部氏は物部守屋のときに蘇我馬子とこの一帯で戦い敗れたために滅亡した。
物部氏傍系一族の弓削氏、来栖氏、矢作連などは引き続きこの一帯で勢力を維持し、特に弓削氏から出た道鏡は称徳天皇のもと、奈良時代後期の日本における実質的な最高権力者となっている。




光専寺
 近鉄八尾駅で降りて、八尾神社に向うがユニークな鐘楼が目に付いた。
思わず、シャッターを押したけど、由緒由来は未調査。
どうも、八尾市は浄土真宗の寺が多いようで、光専寺も浄土真宗本願寺派の寺院でした。

八尾神社
祭神は宇摩志麻治命
   (うましまじのみこと)
この地を本拠とした物部氏の一族、栗栖連が住地として、その祖神をまつったものであろう。
もと栗栖神社と称し、西郷、木戸両村の氏神で、明治41年に八尾神社と改めたものである。






 八尾は、古くは矢尾・矢生・箭尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれ、また尾先が八枚に分れた鶯の名所であったことから地名となったとも伝えられる。
                                        (境内石碑より)
左は社殿の後ろの「矢尾城址」碑。
八尾城(やおじょう)は、河内国に南北朝時代から安土桃山時代にあった城。
この地一帯を城町と呼び、東方に字木戸がある。八尾別当顕幸の拠城と伝え、楠木正成の戦死後は、ほとんど北朝方に占拠された。
1337(延元2)年に南朝方の高木遠盛らの軍勢が八尾城の奪還のため猛攻をかけたが、その際に城内の学舎、仏閣、矢蔵、など建設物は悉く焼失した。
その後、八尾城は再建され、戦国時代末期には織田信長の家臣となった切支丹武将の池田丹後守教正の居城していた。



常光寺
山号は初日山。臨済宗南禅寺金地院の末寺で、本尊は「八尾の地蔵さん」と呼ばれている地蔵菩薩。
この地蔵像は小野篁の作とされているが、同じく小野篁の作とされている京都の六地蔵とは作風が異なり、室町前期のもの考えられている。
寺は行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。とされているが、これは摂津河内地方に存在する行基信仰から出たもので信用度は低いという説もある。
南北朝の戦乱で焼失したが、八尾の商人、又五郎太夫藤原盛継が再興し、足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いたとされている。
 大阪夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実験をし、今でも血天井として残されている。
寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。

 八尾は河内音頭発祥の地とされていますが、特にこの常光寺で伝えられている「流し節・正調河内音頭」は、その原型とされているもので、毎年八月二十三日、二十四日の地蔵盆は名高く、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。

本堂

ほほえみ地蔵(本尊ではない)

八尾天満宮

天穂日命は、出雲で大蛇退治をして、高天原に帰ってきた素箋鳴命が、天照大神と天の安河原で誓約した時に、天照大神の右の角髪に巻いた珠から化生した神様。



そして、この神は、菅原道真の先祖の土師氏の遠祖ということです。

八尾寺内町の鎮守で、『八尾の天神さん』といわれる。
祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)と菅原道真で、慶長年間に片桐且元が創建したと伝えられている。

中門は、八尾市寺内町の木戸門を取り壊しの際に移築したものと伝えられている。
また、境内には八尾寺内町開発者の森本行誓の6代目の孫房吉(ふさよし)寄進の高燈籠や、大信寺呉服講中寄進の石燈籠がある。
近年では境内に恵比須神を祀り、1月8日には例年「八日戎」として賑わうと説明がありましたが、普通「十日戎」じゃないのかな?
八尾市だからこそのお祭なのでしょうか?
大信寺(八尾御坊)
 浄土真宗東本願寺に属する別院です。慶長11年(1606)久宝寺村の森本七郎兵衛貞治ら17人衆は、徳川家康により本願寺が東西に分立させられるに際し、東本願寺に属したことから、村を出て、八尾庄に四町四方の地を与えられて移住。八尾御坊を建立したのが、大信寺の創始でである。寺内町をつくり、八尾発展の基を築いた。

 万治3年(1660)現地に移建され、天明8年(1788)に京都の本山が焼けたときは、この本堂を移築して、仮御影堂に代えて使用し、10年後に再び返され旧に復した。
昭和28年3月3日に本堂の棟がくずれたことから、全面的に改修され、現在のように、建物はコンクリート造になった。
境内には河内県庁跡があり、お逮夜市(おたいやいち)で賑わう。






 河内県庁は、明治2年1月20日、
大阪市鈴木町に設置され、4月22日、
大信寺に移され、対面所が役所にあてられた。

しかし、この役所はわずか8ヶ月で、河内県は堺県に合併され、出張所として残ったが、同年9月7日、廃止された。
久宝寺緑地にて食事

  ちょっと早いけど、昼食タイムといたしました。


アレチヌスビトハギでしょうか?
フリマが開催されてました。

子供服が1着50円。 う〜ん、安い!
真観寺


 寺伝によれば、1394(応永元)年管領畠山尾張守満家の発願で、叔父の南禅寺大業徳基を開基として創建された臨済宗南禅寺派の寺院。その後も畠山氏の庇護が厚かった。
大坂夏の陣で焼失したが、江戸幕府のブレーンで京都南禅寺の金地院崇伝により再興されて隠居寺となった。


 境内にある三好長慶の墓(右前側)とその甥、義継(左)の墓がある。
長慶は父元長の討死により十一歳で家督を継ぎ、近畿管領細川晴元の執事になった。三好宗三(政長)を討ち実権を奪う。
しかし嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に失意のうちに病死した。
義継は長慶の嫡子義興の死後の1563(永禄6)年、養子となり、長慶の死後、三好家の家督を継ぐ。
三好三人衆や松永久秀らと結び、13代将軍足利義輝を殺害した。
1572(元亀3)年、久秀と共に織田信長に反逆し、足利義昭を河内若江岩田城にかくまった。
翌年の1573(天正元)年、信長の将佐久間信盛に攻められ自害した。


長慶ですが、その墓は真観寺・京都市大徳寺聚光院・大阪府堺市南宗寺にの3ヶ所にあり、その内、この真観寺の墓はその葬儀の頃に建てられたもののようで、他の2つは、三好家の縁者によって建てられたという。


 お彼岸の中日といえど、本日の気温は31℃
ヤッパリ、相当暑い。脱水症、熱中症に気をつけながら、1500年前の物部氏、蘇我氏、聖徳太子、用明天皇、推古天皇の時代に思いを馳せる。

ん? 右の写真は某大物歌手の自宅兼事務所かな?
大物と言うだけあって、自宅も体(?)も大きい(背は低いかも)。




さて、ここで1500年前の歴史をひもといてみよう。
●仏教伝来と蘇我・物部氏

 日本書紀によると552(欽明13)年10月、百済聖明王が釈迦如来像1体と仏殿の飾り幡蓋、及び教典をもたらした。
聖明王は「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、日本に伝える」というのである。
                                    (上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起は仏教公伝を538年)

 当時、既に渡来人が仏像を安置して礼拝を行っており、仏像を「大唐神(おおからのかみ)」と称していた。

 日本人の祀るべき神は天照大神を初めとして穀物の霊、水、山、火、雷の神である。
そのため、欽明天皇はその取り扱いについて群臣に問うた。
蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているものを、我が国だけがどうして背けましょうか」と積極的に受け入れる姿勢をみせた。

これは稲目がかねてから、東漢(やまとのあや)氏や西文(かわちのあや)氏など渡来系豪族と接触し、朝鮮半島や大陸の事情に明るかったためだろう。

これに対して、物部尾輿や中臣鎌子は反対だった。
「天皇は古来から天神地祇を祀るべきであって、蕃神(あたしくにのかみ)などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定である」というのである。

これも鎮魂儀礼の祭祀に当たっている物部氏や神官の家柄である中臣氏としては当然の帰結であろう。

 そこで天皇はこころみに稲目に仏像を与えて礼拝させた。稲目は飛島の向原の家を寺としてこれを安置し、これがのちの豊浦寺の前身で、日本で最初の寺院である。

ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出た。「異国の神をまつるからだ」と、物部尾輿と中臣鎌子らは仏像を難波の堀江(明日香説と大阪説がある)に捨てるとともに、向原の寺を焼いてしまった。



●蘇我氏と物部氏の対立

時は流れて、欽明天皇は敏達天皇に、そして蘇我稲目・物部尾輿・中臣鎌子の時代から馬子・守屋・勝海の時代となる。

崇仏・排仏論争はやがて政治権力闘争へと発展していく。いや、政治権力闘争が内在していて崇仏・排仏論争という形で現れたのかもしれない。

 馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝し、司馬達等の娘ら三人(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を尼とする。
585(敏達14)年、馬子は大野丘の北に建て舎利を安置した。そうしたところ、またもや疫病が流行した。

守屋はこれを追及。敏達天皇は仏像の破却を命じ、守屋も仏像を焼き堀江に捨てている。また三人の尼を海石榴市(つばいち 山辺の道の南端辺り)に監禁したりしている。
馬子は仏像・寺・尼を守りきることはできず、この時点では守屋の方が実力は上だったのだろう。

この事件の後も疫病の猛威は収まることはなく、逆に仏像を焼き、尼を罰したことが一層流行らせるという風評が支配的となり、敏達天皇も破仏の非難の対象となったのではないだろうか。
この後、馬子も敏達天皇も疫病にかかったが、馬子は快癒し天皇は崩じた。

このことがあって、排仏派と崇仏派の政治的勢力が逆転してしまったのである。
敏達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し橘豊日皇子を立てたのである。

これが蘇我・物部の武力衝突への道を歩み出すことになったのである。

次期天皇は用明天皇(橘豊日皇子)となったが、この段階ではまだ公的な仏教受容は認められていないのである。

用明天皇は在位2年目にして病床に着いた。きっと弱気になっていたのだろう。馬子の快癒したことが頭によぎる。私的ながらも仏法に帰依する意志を示してしまった。

 こうなると群臣は二派に分かれることとなったのである。
587(用明2年)年七月、崇仏派と排仏派との戦いの火蓋は切って落された。

この戦いの渦中には、崇仏派の中心である蘇我氏一族として参加していた14才の聖徳太子の姿もあった。
皇子軍の先頭に立ったのは、泊瀬部皇子(後の崇峻帝)、ついで炊屋姫(後の推古天皇)の子である竹田皇子である。

守屋はこの戦いにおいて木に登り雨のように矢を射ったため蘇我氏側は三戦して三敗であった。

 このとき、太子が霊木とされる白膠木(ぬりで 勝軍木)の木を切って自ら四天王像を彫り、頂髪(たきふさ 髪をあげて束ねたところ)につけて勝利を祈願し、馬子と共に他の豪族に守屋討伐を鼓舞した。
その結果、4度目の攻撃で迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢で撃ち抜かれ守屋は戦死し、物部軍は崩壊した。


この話を何処まで信用するかは自由である。
古代の話はどうしても記紀に依らざるを得ないところが多くあるが、天皇家の正統性を強調することや書き手の意志が働いているため、ここのところを差し引いて読まなければならないのである。

聖徳太子14才これは満年齢で13才、今で云うと中学1年生である。こんな子供を戦場に狩り出したりする事も異常であるが、指揮官並の働きをしたり、都合よく白膠木があったりで、やはり脚色部分が多い。


大聖勝軍寺
(たいせいしょうぐんじ)

真言宗・神妙椋樹山
(しんみょうりょうじゅざん)


聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。

 聖徳太子が、危うくなった時に、太子がふとこの椋(ムク)の木の傍によると幹が割れていてその身をかくまわれて危難を免れたという。
その椋の大樹の空洞に太子像が安置されていた。

 守屋を討って、秦河勝がその首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」が門前にあったが、水は枯れていた。

物部守屋の墓







 「何背国神敬他神也」


 何故、国つ神に背き、

 他の神を敬うや
鏑矢塚



物部守屋の墓から国道25号線を隔てたところに鏑矢塚と記した碑がある。

守屋を射ぬいた鏑矢が落ちたところ。
その矢を記念として埋めた所と伝えられているが、その場所が分らない。

それもそのはず、実際は上の写真のごとき状態ですからね。

地元では、どうも名の知れた史跡ではないようだ。
弓塚


こちらは守屋を射抜いた鏑矢を放った弓を埋めた場所と伝わる弓代塚の石碑。

ここは鏑矢塚から南におよそ100mのところ。
幅7〜80cmの通路を通らないと入れず、地元の人でもどこにあるのか分らないようなところでだった。







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