花の御所から深泥池へ                   19年5月12日
花の御所

 室町幕府三代将軍義満が1378(永和4)年に造営した邸宅で、室町幕府があった。
邸内の樹木が美しかったので「花の御所」とも呼ばれました。
現在の室町通、今出川通、烏丸通、上立売通に囲まれた東西110m、南北220mの敷地に多くの殿舎と庭園が配置され、室町時代の政治の中心地でした。
しかし応仁の乱で焼失、その後再建されましたが再び焼失しまし、今は室町通、今出川通の角に石碑のみが残っています。

二本松薩摩藩邸
花の御所の東側、現同志社大学の敷地は幕末に薩摩藩邸があった。
京都には錦通東洞院の他、伏見にも薩摩藩邸があった。
ここ二本松薩摩藩邸では1866(慶応2)年1月21日、坂本龍馬立ち会いのもと、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎による薩長同盟が成立したところです。

 敷地の広さは19,000平米もあり、9棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいました。
薩摩藩は鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様の雄藩で、石高は77万石。
幕末に幕政改革に成功してからは、中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開して長州藩と同盟して武力倒幕に転じ明治維新を迎えることになった。

この大きな時代の流れの原点がここにあったのです。
相国寺
西暦 事 象
1351 夢窓疎石、永眠す。
1382 足利義満伽藍を建立
発願。
1386 相国寺を京都五山
第二位となる。
1388 春屋妙葩、永眠。
1392 相国寺、竣工。
1401 相国寺を京都五山
第一位となる。
 相国寺(しょうこくじ)は、臨済宗相国寺派大本山の寺院。正式には「万年山相国承天禅寺」(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)と言います。
室町幕府3代将軍足利義満は、「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを1382(永徳2)年に発願しました。開山は夢窓疎石となっています。
しかし、左の年表を見てください。夢窓疎石が死亡したのは発願の31年前なのです。
その経緯はこういうことです。
 義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に開山(初代住職)となることを要請しましたが、春屋は『先師の夢窓疎石を追請(ツイショウ)して開山始祖とするならば、第二世の住持を掌(ツカサド)ります』とこれを固辞しました。
夢窓疎石は春屋の伯父であり師である人物で、後醍醐天皇から「夢窓」の国師号を賜り、光明天皇からは「正覚」、光厳天皇からは「心宗」、後光厳天皇、後円融天皇、後花園天皇、後土御門天皇から国師号を賜った人物です。
結局、義満は春屋の要求を受け入れ既に死亡している夢窓疎石を相国寺の名誉開山としたのです。さらに竣工した1392年は春屋も死亡してから4年後のことだったのです。
相国寺開山に関してはこのような事情があったのです。

法堂(はっとう、重文)
応仁の乱による焼失後、三門と本殿(仏殿)は再建されることはありませんでした。
近世以降は法堂が仏殿を兼ねている形となっています。
ですから、本尊の釈迦如来はこの中に鎮座しています。(右の写真の真ん中の太鼓の左上)
この法堂、「無畏堂」ともいい1605(慶長10)年、豊臣秀頼の寄進により再建されました。
法堂建築としては最古のもので、天井には狩野光信の筆による鳴き龍の絵が描かれています。この龍の絵は法堂の中で手を打つと反響により龍が鳴いているように聞こえるということです。



 この日は開基足利義満600年忌記念事業として、5月13日から6月3日まで、承天閣美術館において「若冲展(釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会)」されていました。
若冲とは伊藤若冲のこと、江戸時代の京の絵師で、写実と想像を巧みに融合させ強烈な個性で「奇想の画家」と称せられています。

『最高傑作として知られる「動植綵絵」は、もともとは若冲が張思恭の「釈迦三尊像」を模写したものをとりまき、荘厳する目的で描かれたもの。つまり、33幅が揃った姿が完全な姿です。
 しかし、廃仏毀釈などの影響で疲弊した相国寺が、復興のために明治22年(1889)に「動植綵絵」を皇室に献上するにあたり、若冲が寄進したときの「両親と弟、そして自分の永代供養を」という遺志を汲んで「釈迦三尊像」を相国寺に留めたことから、この33点は分蔵されることとなって今日に至っています。
この時からのおよそ120年間、「動植綵絵」30幅が一堂に展示される機会はありましたが、33幅が揃ったことはついぞなく、今を生きる人間でこの傑作の真の姿を見た者は存在しません。』
 (若冲展案内から)


 そのイベントの一環でしょう。
法堂では以前NHKBS2で見たことのある和太鼓奏者の林英哲さんが、若冲をモチーフとした曲を披露されていました。
長い長い演奏でしたが思わず聞き惚れました。
後水尾上皇歯髪塚




江戸時代、後水尾上皇は幕府に対して恨みとも思える感情を抱き続けました。1651年、感情からか突如出家する事にしました。
林羅山は上皇の出家を、親に従わない驕子の行為だと非難しています。

1653年に応仁の乱で焼失した宝塔を再建されましたが、その時の出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納めたということです。
その宝塔も1788年の天明の大火で焼失してしまいました。
歯髪塚はその大塔の跡地に建てられたものでなのです。

宗旦稲荷(そうたんいなり)
宗旦狐の話をしなければならないでしょう。
江戸時代の初め頃、相國寺の境内に1匹の白狐が住んでいた。

その狐は、しばしば茶人、千宗旦(1578年〜1658年)に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には寺の和尚と碁を打つなどして、人々の前に姿を現していた。

宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては、茶を飲み、菓子を食い荒らすことがたびたびあった。

ある時、宗旦狐は、相国寺塔頭の慈照院で茶室びらきがあったとき、宗旦が遅れてきたので代わりに点前を披露した。

驚いたことにその点前は、実に見事なものであったため、遅れてきた宗旦は感じ入ったという。
また、化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し、喜ばれていたということでこの狐が死んだ後、雲水たちは祠をつくり供養した。それが今でもこの宗旦稲荷として残っている。

その伝承のある茶室 頤神室(いしんしつ)は、現在でも慈照院に伝えられている。
茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたため、これを修理したので普通のお茶室の窓より大きくなっているということです。
薩藩戦死者墓

 相国寺の東門を通り抜けると、林光院の境外墓地の薩藩戦死者墓があります。
甲子役・鳥羽伏見戦(戊辰役)で戦死した薩摩藩士が埋葬された墓地です。
林光院は東門内の南側にある相国寺の塔頭の一つで、足利義嗣の牌所であり、もとは紀貫之の屋敷だったところです。
この薩藩戦死者墓は元治甲子(1864)禁門の変と慶応戊辰(1868)の鳥羽伏見の戦いの戦死者72名を葬った薩摩藩戦死者の墓なのです。
大正4年10月に左写真の大石碑が建てられ、その背面には、元治5年から明治5年までの戦死者の戦没地、所属、階級、氏名が刻まれています。


幸神社(さいのかみのやしろ)

            本社

    京都府京都市上京区幸神町


  同志社大学(今出川キャンパス)の
  北東100m程


           御神石




猿田彦大神の依り代とするべきか、道祖神石と考えるべきか。

祭神: 本社 猿田彦大神

幸神社は正式名さいのかみのやしろと言いますが、「 さちじんじゃ」と呼ばれ「幸福を招く」「縁結び」の神社として知られています。
本来、猿田彦は道の神や交通安全の益がある神様ですから「幸」というイメージと天孫降臨の後、天神の天鈿女命(あめのうずめのみこと)と結婚していますからから縁結びにつながったのでしょう。

 桓武天皇が平安京に遷都するあたり、都城の厄除けの守護の1つとして、幸神社をこの地に創建したとか、京都御苑の北東に位置し赤山禅寺と共に、御所の鬼門を守るために創建されたとも、元は賀茂川畔(出雲路付近)に祀られていた道祖神を江戸時代初期に移転したとの話もあります。


阿弥陀寺

        阿弥陀寺山門


本堂


芭蕉句碑
 阿弥陀寺は、織田信長に仕えた僧清玉上人が近江の坂本に創建したことにはじまります。
もとは上京区上立売通大宮東入阿弥陀寺町にありました。清玉上人は、1582(天正10)年、信長が本能寺で自刃した際、いち早く駆けつけ信長等の遺骸を収め、寺に持ち帰って葬りました。その後、寺地は秀吉の都市計画により現在地の寺町に移りますが、墓も同時に改葬され移されました。
境内には俳人芭蕉や蝶夢の句碑があります。蝶夢は塔頭である帰白院の住職で、五升庵と号して俳人でもありました。

織田信長の墓や供養塔と伝えられているところは他に、京都には本能寺(中京区)、大徳寺総見院(北区)、妙心寺玉鳳院(右京区)、建仁寺(東山区)、大雲院(東山区)にありますが、静岡県富士郡西山本門寺には首塚まであるということで、これは驚きです。

「織田信長信忠討死衆墓所」の碑
織田信忠は信長の嫡子で、1577年、松永久秀を信貴山に攻め、武田勝頼との戦いでは、高遠城攻めをまかされていましたが、本能寺の変のでは、信長の救援を果たせず明智光秀軍と戦うが、兵力に差がありすぎ、力尽きて自害しました。



向かって右が信長の墓、戒名は
総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士。
左が信忠の墓、戒名は
大雲院殿三品羽高岩大前条定門。

森三兄弟の墓



左から蘭丸・力丸・坊丸。
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)


         神社正門


        拝殿 本殿


         御輿前面


          御輿側面


御霊祭は明治までは8月18日でしたが、
現在ではこの日を例祭(社頭の儀)として、
5月1日を神幸居祭(しんこういまつり)、
5月18日を還幸祭と定めてお祭りが行なわれます。
本日5月12日は神様がいらっしゃった時なのですね。





この神社は長岡京遷都の際に非業の死をとげた早良親王(さわら)の霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により創建されました。
のちに奈良時代・平安時代初期に不運のうちに薨(こう)じた八柱の霊を合祀し、祭神八所御霊とされました。


 奈良時代の末頃の話です。
怨霊の祟りがまことしやかに信じられていました。人の変死や伝染病の流行、天変地異は間違いなく祟りのせいだったのです。飛鳥、奈良、平安時代は驚くほど多くの人々が政争に巻込まれて殺されています。恨みを持って死んでいった人の祟りが充満しているのです。
だから自分で呪うのみならず巫女を雇って人を呪い殺そうということ日常茶飯事だったわけです。
その代表的な話を紹介しましょう。


 早良親王は桓武天皇が784(延暦3)年、平城京から長岡京へ都を遷しました。
新京造営中のこと、長岡京造宮司であった藤原種継が何者かにより暗殺されるという事件が起こりました。この暗殺事作の首謀者が早良親王と見なされたのです。
 早良親王は、桓武天皇の同母弟です。捕えられて乙訓寺に監禁されました。
幽閉された早良親王は無実を訴えながら、身の潔白を証明するため断食をしていましたが淡路島への島流しが決定され、宮内卿石川恒守らが淡路へ移送する途中、淀川沿いで餓死してしまいました。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬ったということです。
 その後、桓武天皇の母高野新笠をはじめとする近親者の相次ぐ死、淀川の2回の氾濫、大飢饉、流行り病の蔓延と凶事が立て続けに起こったのでした。
これは皇位を廃された早良親王の祟りということで、さっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わして謝罪し、800(延暦19)年、桓武天皇は早良親王に崇道天皇の尊号を贈りました。



 井上(いのえ)内親王は聖武天皇と県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の間に717年に生れた皇女です。
5歳の時、卜定(ぼくじょう 占い)により伊勢斎王になることが決定され、6年後の11才で伊勢神宮に仕えました。
744年閏1月13日26才の時、弟の安積親王が薨じ、喪により斎宮を退下しました。
帰京後、8歳年上の白壁王(光仁天皇)の妃となって、他戸(おさべ)親王をもうけたのですが、二人とも陥れられて、幽閉された後775年4月27日、同日に死亡しています。
 その年の7月から8月にかけて鼠の大群が現れたり、大粒の雹が降り、飢饉となりました。10月6日には地震発生、翌年9月には瓦や石、土の塊が降るという怪異が20日間続き、人々はこれを井上内親王の怨霊の仕業と考えました。
光仁天皇は776年には600人の僧に金剛般若経を読ませ霊を慰め、翌777年、勅使を差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いて祟りを沈めました。



藤原広嗣は不比等の孫で、宇合(うまかい)の子でしたが、天然痘の流行により藤原氏四家の祖が相次いで病死し、政治の表舞台から降りていきました。
その頃のこと、735年に5000巻の一切経や諸仏像を携えて帰国した遣唐使の玄ムという人物がいました。
彼は橘諸兄のもと、吉備真備とともに天平の新風を平城京に吹き込ませていました。
そのため、藤原広嗣は大宰少弐に任じられて大宰府に左遷された。彼はこの措置は玄ム等のせいだと恨を募らせた。そして740年8月、広嗣は玄ムと吉備真備を排除することを要求して、筑紫で反乱を起こしたのである。聖武天皇はその鎮圧のために、大野東人を討伐の将として大軍を率いて九州へ向かわせ、乱はすぐに鎮圧されて広嗣は佐賀県唐津市で斬殺された。
 746年、大宰府の観世音寺落慶法要の日、空高く何者かに抓みあげられて、もと玄ムがいた奈良興福寺唐塔へ、その首が落ちてきました。これは広嗣の怨霊のせいであるとされたのです。



 以上のように、祭神は崇道天皇(早良親王)・他戸親王(光仁の子)・井上皇后(光仁の后)・火雷神(菅原道真)・藤原大夫神(藤原広嗣)・文屋宮田麿・橘逸勢・吉備大臣(吉備聖霊とも)のいわゆる八所御霊を祀っています。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典侍局・小倉季伴、そして若宮に和光明神(菅原利子)が祀られています。それが『八所御霊と申は、むかし謀反をおこして、その心ざしをとげず、或いは又、何事にても恨みを含める霊を祀られたる社なり』ということなのです。

桓武天皇の時代に、各地で疫病が流行し、死者が多く出ました。それはこれら御霊の祟であるとされ、863(貞観5)年5月20日、神泉苑で御霊会が催されました。その時の御霊は崇道天皇、伊豫親王(崇道天皇の子)、藤原夫人(伊豫の母、吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢、文屋宮田麿等で、この御霊会が上御霊神社ならびに下御霊神社の創祀なのです。
現在の上御霊神社を上出雲寺御霊堂、下御霊神社を下出雲寺御霊堂と言って、朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられました。
 1467(文正2)年1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就(よしなり)との私闘が「御霊の杜(もり)」で始りました。
御霊合戦は翌年勃発の応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされています。
正門の南横には右の写真のような石碑が立っています。


 前述のように863年の疫病が流行したとき、時の天皇、清和天皇はいたく心を悩ませていました。
神泉苑における御霊会では煎餅を創製して、神前に供えて疫病よけのお供え物としました。
これを「唐板煎餅」と名付け、広く庶民に授与したのです。
これが唐板の始まりです。それ以来、御霊会は絶えることなく執り行われてきましたが、応仁の乱のため残念ながら絶えてしまうことになりました。
 乱後、現在門前にある水田玉雲堂の亭主は上御霊神社境内に茶店を造りました。
 そしてこの唐板煎餅の由来を聞き、それが廃れてしまったことを大変残念に思いました。そこで、古書を頼りに製法を会得し、再興をはかったところ、その風味が多くの人々に喜ばれ、御霊神社の名物となり、また厄病よけの煎餅としても世に知られるようになりました。
      (水田玉雲堂ホームページより)

小麦粉、砂糖、卵、塩だけで1枚づつ手焼きで焼いた素朴な焼菓子です。
特徴は粉と糖の甘みが鮮やかに香り立つ感じがするところでしょう。


天寧寺




 天寧寺は山号を萬松山と号し、曹洞宗の寺です。
もとは福島県会津若松市東山町にあり、開山傑堂能勝大和尚は楠正成の八男だということです。
1586(天正14)年の天正の変(伊達正宗が侵入)で天寧寺も全焼しました。
再建も不可能となり、焼け残った本尊や法宝等を収拾し、京都のここ寺町に出てきたと言うことです。
1595(文禄4)年に再興となったのですが、1788年2月、京都大火の際、堂宇は全て焼失しました。
1804(文化元)年に庫裡、1812(文化9)年に本堂、1848(天保14)年に書院、1849(嘉永2)年に山門、1899(明治32)年に鐘楼と順次再建を果し今日に至っています。

上の写真2枚をご覧ください。
この表門を通して奥には、比叡山を借景とする素晴らしい眺望 がひろがっているのがお分かりでしょうか?
比叡の霊峰を画いた一枚の絵画 のように見えることから 「 額縁門 」 ( がくぶちもん ) と呼ばれています。
むべなるかな!

本尊は仏師春日作と伝えられる釈迦如来で、観音堂には後水尾天皇の念持仏「十一面観音菩薩」が安置されています。


 本堂南西にあるカヤは、樹高は16.2m,胸高幹周は4.78mあります。主幹は右廻りにねじれながら直上しています。独立木であるため、樹冠は南北方向18m,東西方向17mもあります。主幹北東側の地上6mのところには傷痕があり、1788(天明8)年の大火で本堂が類焼した時に受けた傷痕が見られ、頂部は落雷を受けて折れています。
たくましさを感じるカヤの木で、京阪沿線歴史街道『我が心の名木シリーズ40』に指定されました。



上善寺
 1591(天正19)年、豊臣秀吉は、京都の都市改革に着手しました。京の町中に住む人たちを身分や職業ごとに地域を定めてそこに住まわせることにしたのです。
平安京の条坊制の正方形の町割を短冊形の町割りに作り変えました。そして街の周囲を「お土居」で囲みました。この、お土居の東と北の内側に社寺を集めたのです。そのため今も北の寺之内、東の寺町には多くの寺院が残っています。
上善寺もこの時に移動させられた寺院の一つです。

 平安時代の初め小野篁は849年48才の時に熱病を患って死んだのでした。そして地獄に落ちた人々の苦しんでいる姿を見ました。
その時地蔵菩薩が六道の迷いの世界を巡りながら人々の苦難を救っている場に出会いました。
菩薩が言うには「全ての人を救いたいが、縁のない人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめて欲しい」と。
それを聞いて篁は蘇りました。そして伏見の木幡山の桜の木で六体の地蔵菩薩像を刻み宇治の大善寺に納めました。

 平安時代後期、都では疫病が流行していました。後白河天皇はこの地蔵尊像を深く信仰されて皇位長久、王城守護を祈願して、都を往来する旅人たちの路上安全・健康、さらに広く庶民に疫病退散のために、1157(保元2)年に都の出入り口に祀るよう平清盛に勅命。清盛は西光法師に命じ、街道の入口に堂を建て、一体づつ分置したのです。

その、鞍馬口に建てられたのが、右の写真のお堂であり、この上善寺の境内にあります。下はお堂の中のお地蔵様です。
 上善寺は由来書によると、863(貞観5)年に比叡山延暦寺の慈覺大師円仁によって、現千本今出川の地に天台密教の道場として創建され、本尊の阿弥陀如来像は行基作とされています。
約600年後の文明年間(1469〜87)、盛信上人が衰微していた寺を再興し、後土御門、後柏原両天皇の授戒を行ったことにより再び隆盛したと伝えられています。
その後、秀吉の都市改造により現在地に移転し、13世肝誉上人の時、浄土宗に改宗しました。
更に、1712(正徳2)年に松平越前守が当寺を菩提所と定めたことや、境内東の墓地には、今出川家、四条家、冷泉家、鷲尾家など旧華族や越前松平家などの墓の他、幕末に起きた元治甲子の戦い(堺町御門の変)で戦死した長州藩士10名の首塚もあります。

上賀茂神社に向けて鴨川右岸を歩きます。








以下は作成中です。





上賀茂神社


大田神社


深泥池








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