笠置山                                                18年10月28日


 今回、筆者の事情で4回、5ヶ月の記録が抜けてしまいました。 深くお詫びいたします。
さて、今回は笠置町を歩いてきました。
笠置町は京都府の最南端に位置し、府内で一番小さな町だそうです。この町のシンボルは何と言っても笠置山。この山には笠置寺があり、日本一といわれる弥勒大磨崖仏が有名です。
 飛鳥時代のこと、天智天皇の皇子の大友皇子がこの地で狩りを楽しんでいました。すると一匹の鹿があらわれ皇子は夢中になって追いかけましたが、危うく馬ごと岸壁から落ちそうになってしまいました。困り果てた皇子は「山の神よ、お助けください。
そうしてくだされば、岸壁に弥勒仏の像を彫りましょう。」と祈願し、窮地を脱することができたそうです。
 皇子は、祈願した場所を忘れないために笠をそこに置いて帰り、あくる日に約束どおり弥勒仏を彫ろうと再び山を訪れました。笠を探していると、白鷺があらわれ皇子をその場所まで導きました。
 皇子が笠を置いた石を笠置石、山を鹿鷺山と称し、それが今日の「かさぎ」の由来となりました。
(笠木町ホームページより)















笠置の駅前は鎌倉幕府軍と後醍醐天皇軍との戦い(元弘の変)の様子を再現した人形像がありました。(右写真)
 笠置に行くには木津から関西本線で2駅であるが、直通の電車はない。
木津の次は加茂駅(左写真)、電車はここでストップ。ここからは電化されていないのでジィーゼルカーでもう一駅。
笠置はかなりローカルなところだ。




 駅前通りを東へ進むとこの道路標識。
ここにもローカルな雰囲気が漂っている。
柳生とは柳生十兵衛でお馴染みの柳生の里のことです。
ここから南に2kmぐらいでしょう。

ところで、この写真を撮った辺りは、鎌倉時代に笠置山城の大手門があったところで、戦国時代には山城国守護代の木沢長政が笠置山に山城を建て1541(天文10)年に戦いがあったことが「多聞院日記」に記録が残っている。

この時に大手門は焼失してしまったのだろうか?

 17年12月21日の朝日新聞朝刊に以下のような記事を発見。
『鎌倉時代末期、討幕に失敗して都を追われた後醍醐天皇が立てこもったとされる京都府笠置町の笠置山で、当時のものとみられる焼土層を確認したと、府埋蔵文化財調査研究センターが20日発表した。鎌倉幕府が笠置山を焼き打ちしたとされる1331年の「元弘の乱」を裏付けるものとしている。

 調査では、山を貫く自然歩道の両側15カ所で計約500平方メートルを発掘。歩道脇の谷の2カ所で、厚さ20〜30センチの焼土層を確認し、周辺から南北朝期ごろの作とみられる特徴の土器が出土した。「太平記」などに記述されている元弘の乱の際に、大規模な火災に見舞われたことをうかがわせるという。調査地南側では、土塁や堀の跡が確認された。

 この時の資料を見ると

 左の写真の上層は江戸時代の堆積層だったが、下層で焼土面を確認された。
実際には20〜30cmの焼土が堆積しており大火災があったことがことがうかがえるものである。
焼土面には石畳状の石があり、横は硬く叩き締められた状態で、おそらくは建物の土壇であろう。
時期は鎌倉時代後期から南北朝期。

太平記に「岩を切り取って堀とし、石を積み重ねて城壁としている」と記されている。
外敵を防ぐために堀を巡らせたのであるが、山の頂付近であり、水はなかった空堀である。

 左の写真は一時期は空堀で城の防御施設と考えられる。
しかし、写真のように下層に焼土層を確認できた。


笠置寺

 笠置山では弥生時代の有樋式石剣が磨崖仏の前で発見されており、弥生時代からすでに人々との何らかの関係があったことがうからえる。
『今昔物語』などによると、笠置寺が奈良時代に創建され、奈良・平安時代には修験道の聖地として人々に知られていた。
平安末期、末法思想の広がりとともに笠置詣でが行われるようになり信仰を集めていたようだ。
1191(建久2)年、解脱上人(藤原貞慶)が興福寺から笠置寺へ移った頃が信仰の山として全盛期を極めた。

 鎌倉末期になると世の中は鎌倉幕府と後醍醐天皇の対立の構図がはっきりとした形で現れてきた。
1324(正中元)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を企てて失敗している。後醍醐天皇は赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となっていた。

正中の変後、後醍醐天皇は再び倒幕計画を進めたが、これも吉田定房が六波羅探題に密告し計画は事前に発覚する。
そして後醍醐天皇が逃れてきたのが笠置寺だった。

 1331(元弘元)年、後醍醐天皇は笠置山、天皇の皇子である護良親王は吉野で、河内国の楠木正成は下赤坂で挙兵した(元弘の変)。

 しかし、幕府は大規模な軍勢を派遣し、笠置山、吉野、下赤坂城とも陥落したのであるが、この元弘の変で笠置寺は千手堂、六角堂、大湯屋を残してことごとく焼失してしまった。

 笠置寺は1381年、本堂を再建するも1398年に炎上。
現在の本堂(正月堂)は文明年間(1469-87)に建てられたものである。

 戦国時代には山城国守護代の木沢長政が笠置山に山城を建て1541(天文10)年に戦いがあったことが「多聞院日記」に記録が残っている。
 笠置寺は江戸中期より荒廃が進み、明治初期には無住の寺となってしまったが、現在は復興が進み、磨崖仏、巨岩のある行場めぐりなどが整備されている。













     「弥勒大磨崖仏」の前に建つ正月堂

本堂の中には右の写真のように後醍醐天皇の位牌が祀られている。
















笠置寺への参道













寺に入ると上の写真のような巨岩が目を引く













本堂(正月堂)の前に立つ「弥勒大磨崖仏」
笠置寺の本尊で高さ20mの中15mの石面に「弥勒菩薩」が彫刻されていたが、前に建てられていた禮堂が、三度の火災により焼亡。その都度石面も火にかかり仏像は磨滅してしまった。   
そして今は巨大な光背の形だけを残している。 (説明板より)
















 左の写真は17年12月23日の日に和尚さんが大磨崖仏の前で笠置寺の説明をしてくださったときの写真です。              

千手窟


 上の写真の右側を通って行者めぐりに入って行く。
「千手窟(せんじゅくつ)」は1200年来、笠置寺の修行場であり、奈良東大寺の「二月堂」の「お水取り」の行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得されたものである。
東大寺大仏殿建立時の用材は、木津川を利用して奈良へ送る計画を立てたが、日照り続きで水量少なく、計画通り大仏殿の建立が危うくなってきたとき、実忠和尚がこの場で雨乞いの修法を行ない、大雨を降らせ予定通り大仏殿を完成させたという。
この故事から以後大仏殿の修理の折は、必ずこの場で無事完成を願っての祈願法要が執り行われたという。
                            (説明板より)




虚空菩薩

 寺伝では弘仁年間(810-824)、弘法大師がこの岩に登り求聞寺法を修得して、一夜にして彫刻せし「虚空菩薩」といわれている。
彫刻の様式から中国山西省雲崗の磨崖仏に相通じるものがあるところから本尊弥勒磨崖仏と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。
                            (説明板より)

 高さ12m、幅7mで、天衣をひるがえして坐した姿は優雅さを感じさせ、天平時代への思いとロマンを感じさせる秀作であろう。




胎内くぐり

 実際の笠置山の修行場の入口はここであり、行場入りする前には、滝で身を清めるのが普通であるが、笠置山には滝がないため、ここの岩をくぐり抜けることにより身を清めたという。

よく見ると天井石が切り石になっており、人間の手が加えられていると話していたら、説明板には言い訳をするように以下のように書かれていた。
「安政地震で天井岩が落下、以後切り石の天井となった」と。

作者注
安政地震と言うと江戸と思われる方がいらっしゃると思いますが、実は1854年に安政南海地震というのがあって、これはマグニチュード8.6という何とも桁外れに大きな地震だった。
江戸の地震は翌年に起こって、こちらはマグニチュード7.1ぐらいだったという。



ゆるぎ石

説明板には「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていますと書いてあったが、実際、動かしてみても微動だにしませんでした。(笑)

 1331年9月28日(元弘の変の最中)後醍醐天皇が鎌倉幕府軍方から奇襲を受けたところである。
「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石であるが、奇襲が雨の降る深夜だったので使用されることなく、いまだにここに放置されているという。
笑ってしまいそうな話じゃありませんか。
















   右の松を見ていただければ分りますよね。
   散髪?してありました(笑)

 ゆるぎ石のところから見た景色。
最高の眺望でしょう。
ウットリとして眺めていました。

ん? 何か変!?
左の写真ではよく分らないでしょうけど、自然に生えている木々のはずなのに、何故かサービス?なのか真ん中の松だけ手入れされているのですよ。





 岩が光っていました。
ここは笠置山の頂上と言ってもいいようなところ。
景色も360度のパノラマ画面で素敵です。

ただし、この岩の上に登るには運動神経も必要ですし、靴も滑らないような靴底でないと危険ですから自信のない方は止めておいた方が賢明です。















貝吹き岩のある展望台からの景色は右の通り。
なかなか感じがいい。
このあと、写真中央の河川敷でバーベキューをすることになりました。
貝吹き岩

 先程からでてくる1331年の「元弘の変」の折り、後醍醐天皇方の武士が士気を高めるために、この岩上よりさかんにホラ貝を吹いたと言われている。
また、修験者もこの岩の上でホラ貝を吹いていた。
                           (説明板より)


















うかりける 身を秋風にさそわれて
      おもわぬ山の紅葉をぞ見る


                             後醍醐天皇

後醍醐天皇行在所

笠置山最後の目的地は「後醍醐天皇行在所(あんざいしょ)跡」
ここで、鎌倉幕府方50余人が笠置山の北壁をよじ登り、夜襲をかけた。
笠置山には四十九ヶ寺の塔中があったが、この元弘の変で全てが灰塵に帰してしまった。
ついに後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐へ流されてしまう。
その後、1334年の「建武の中興」を打ちだしたのは、2年後のことである。

太子堂



 笠置寺は現在、真言宗智山派(ちさんは)に属しています。
ですから大師堂(だいしどう)があって弘法大師をお祀りしているのでしょう。
この場所は元正月堂があったところだそうです。


 今日の勉強の行程はここまで、後は楽しいバーベキュータイム。
笠置寺をあとにして、東海自然歩道を下り、大手門があった笠置の町の中心地?に向います。
もみじの季節にはまだ早く、夏休みも済んでしまったこの時期、町には人っ子一人見当たらない静かな町でした。


 手ぶらでバーベキュー。
この店で一人1500円の買い物をしてバーベキュー道具一式(炭と金網とトング)を無料で貸してもらえます。

 この河原は1人300円の利用料が要ります。
ゴミの後始末もオバチャンにお願いして、記念撮影、パチリ!

 帰りの笠置駅にて
 地元のおばちゃんが言うには
「ここは不便なとろろでっせ。チョットした物でも隣町の加茂まで買い物に行かんならん!せやのに1時間に1本しか列車があらへんねん」
「甥っ子が○○の郵便局にいて・・・」 「時々は柳生まで散歩にいきまんねん。これが健康の秘訣やな」等、家族や親戚のことや、ご自分の家や今夜のおかずのことまで何でも話してくださいました。
気さくなおばちゃん、ありがとうございました。
今回はここまでといたします。
のんびりとした、秋の一日を自然に抱かれて楽しみ、最後は人情に触れ有意義な時を過ごせました。 (感謝々々)




                第121回 當麻寺二上山へ      第128回 伏見安楽寿院へ


                   歴遊会目次へ               トップへ  






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送