二上山 大津皇子山陵                             18年4月22日



 上の写真が二上山(にじょうざん)。 
右側が雄岳(517m)、左側が雌岳(474m)です。生駒山地と葛城連山の間に位置し、標高こそ低いものの、万葉人に神聖視されて多くの歌が詠まれています。
聖徳太子が斑鳩から上の太子へ向う時などもこの南のあたりを通ったのでしょうね。




 今回我々は近鉄南大阪線當麻(たいま)寺駅で下車。
當麻寺、鳥谷口古墳を経て二上山に向うことにしました。
當麻寺は駅から西に1kmぐらいでしょう。
整備された1本道で迷うことはないですね。





 駅から500m程行ったところに相撲館がありました。
その西に當麻蹴速(たいまのけはや)の碑があります。
この辺のことを日本書紀に見ると以下のような記述があります。


垂仁天皇、七年秋七月、乙亥(七日)
側近たちが天皇に
 『當麻の村に、大変 勇ましく強い人がいてその名を當麻蹴速といいます。
その男は大変な怪力で、動物の角を折ったり、曲がっている鉄棒を引き伸ばしたりします。

そして、いつも人に語るには「生死を問わず力比べをしたいものだ!」と豪語しています。』と申し上げました。

天皇はこれをお聞きになって、多くの臣下に仰せられて、自分は『當麻蹴速という者が日本一のツワモノだと聞いたが、もし誰かこの男にかなうような強い者がほかにはいないだろうか?』と。

一人の臣下が進み出ていうのには『私は出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という力の強い人がいるということを間いています。それでこの人をよびよせて蹴速と力比べをさせてみてはどうでしょうか。』と言った。


 そこで、その日に大和の国の大市(天理市南部附近)の東漢直駒の祖先である長尾市という者を使者として出雲にやり野見宿禰をよび寄せた。
そこで野見宿禰が出雲からやってきたので、當麻蹴速と野見宿禰とに相撲(日本書紀では手偏に角と力)を取らせることになりました。

二人は互いに向いあって立ちあがり、各々の足を高く挙げて蹴り合い、野見宿禰は當麻蹴速のあばら骨をへし折り、また、その腰を踏み析って、蹴速を殺してしまいました。

 こうして蹴速は強さを豪語していたのに負けてしまったのです。そしてその領地を取りあげられて、全部、野見宿禰に与えることに成りました。

そんな事があって、その村には今でも『腰折田』と呼ばれる田圃が残っています。
そして野見宿禰はこの地にとどまって垂仁天皇に仕えすることになりました。

これが日本書紀に見る相撲の始まりということになります。


當麻寺


 上の境内案内図をご覧ください。上方が北ですから正面の仁王門は東端に位置していることが分ります。

寺院の門の多くが南向きであることはご存知の通りです。
さらに説明文にあるように真言宗と浄土宗の2宗を併立しているという珍しい寺院なのです。

仁王門
             東塔と中之坊

 中之坊は當麻寺最古の由緒を伝える塔頭です。
白鳳時代(7世紀末)に役行者により開かれた道場です。

写真右の建物は中将姫(ちゅうじょうひめ)が剃髪した「中将姫剃髪堂」です。

               西塔と本堂

 右端に見える銅像が中将姫の像です。
天平時代、藤原家の娘中将姫は、継母に妬まれ命を狙われていました。
しかし、継母を恨むことなく、万民の安らぎを願い「写経」や「読経」を続けます。
1000巻の写経を成し遂げて、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見たという。
現世の浄土を求めて都を離れ、中之坊にて法如(ほうにょ)という名の尼僧となります。
その後、五色の蓮の糸によって曼荼羅を作りました。それが現在、国宝となって残っているのです。




鳥谷口古墳

 當麻寺を出て道なりに、なだらかな坂道を登っていくと、一本足のお堂である「傘堂」がある。
そこを越えてさらに歩いていくと広々とした公園がある。
鳥谷口古墳はその公園の中にあった。

 石室の中には入れないが、開口部から覗くと左のような石郭を見ることができます。





鳥谷口古墳を越えると、いよいよ二上山の登山道に入ります。
 二上山は前述のように雄岳と雌岳から形成されています。
先ずは雌岳に着いたところで昼食といたしました。


           昼ごはんは「すき焼」でした。




 二上山の麓では凝灰岩が産出されます。
この凝灰岩は近畿地方の多くの古墳の石棺として使用されています。
また、サヌカイトという石器や武器に使われる石も産出されます。下は実際に二上山の麓で発見されたものです。


左の写真は間違ってたらゴメンなさい。
雌岳から写したのですが、石器が発見された屯鶴峰かな?と思っているところです。


 食事が済んで、いよいよ雄岳(右写真)です。
ここには天武天皇の皇子である大津皇子が眠っています。






 左の協力金を払って大津皇子陵墓にお参りをすることにしました。
大津皇子663(天智称制2)〜686(天武15)

 天武天皇(大海人皇子)の第3皇子。母は大田皇女(天智天皇の長女)。
同母姉に大伯皇女(大来皇女 おおくのひめみこ)、異母兄に高市皇子(たけちのみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ 母は鵜野讃良皇女 うののささらのひめみこ)、異母弟に忍壁皇子(おさかべのみこ)らがいます。

 大海人皇子と大田皇女との間に生まれた大津皇子は中大兄皇子の長女の子として寵愛を受けました。
しかし、大津皇子が5、6歳の時、母の大田皇女は死亡しました。
これに伴い父大海人皇子の正妃の地位は鵜野讃良皇女に移ったのでした。
『懐風藻』によれば大津皇子は身体容貌ともに優れ、幼年にして学を好み、博覧にして能く文を綴る。成長して武を好み、多力にして能く剣を撃つと書かれています。
天智天皇崩後、672年の壬申の乱のときは10歳で近江にいましたが、父の大海人皇子のもとに逃れることができました。

 天武天皇の即位後の679年5月天皇一族は吉野に行幸して、いわゆる「吉野の盟約」の儀を行っています。
この時の序列は誓詞の順番と考えて
@草壁、A大津、B忍壁、C河嶋、D高市、E芝基であろう。
この内河嶋と芝基は天智天皇の子供です。
残りの4人の年齢順は高市(26)、草壁(18)、大津(17)、忍壁(?)、ですから母親の序列が大きく影響しているのでしょう。

本来、母の序列といえば大田皇女が鵜野讃良皇女の姉であり、天智天皇の娘であるから、生きていればその子の大津皇子がトップであり、皇太子になるべき人物だったはずです。
鵜野讃良皇女は皇后であり、やはり自分の息子が可愛かったのでしょう。天武天皇に働きかけて草壁皇子を皇太子にしてしまいました。

 鵜野讃良皇女は人望のある大津皇子の存在が不安だったのでしょう。
686年9月9日、50歳で天武天皇が没すると10月2日には大津皇子に謀反の動きありとして捕まえてしまいます。翌3日には大津皇子は自害してしまったということです。
謀反の内容は明らかではなく、この時捕まった30余人の内2人を除いて罪を許されています。
どうも不可解な事件です。これは皇后が自分の子の草壁皇子の地位を磐石にするための謀ではあったと考えるのが自然でしょう。






以上、登場人物の関係が分りにくいので下に家系図を書いてみました。


 大津皇子については万葉集の中の歌で、その人物像を図り知ることができます。
中でも、石川郎女(いしかわのいらつめ)に対する恋の歌が気に入ってます。

      大津皇子、石川郎女(いしかはのいらつめ)に贈る御歌一首
        『あしひきの 山の雫に 妹待つと われ立ち濡れねぬ 山の雫に』 
        「山かげで、佇みあなたを待っていたので、私はすっかり山の雫に濡れてしまいました」

      石川郎女、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首
        『吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山の雫に 成らましものを』
        「私を待ってあなたが濡れたという山の雫に、私はなりたいの」


      大津皇子、石川女郎に竊(ひそ)かに婚(あ)ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)の其の事を
      占(うら)へ露はせれば、皇子の作らす御歌一首

        『大船の 津守(つもり)が占(うら)に 告(の)らむとは 兼ねてを知りて 我が二人寝し』
        「津守の占いに露顕することは前以て分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ」

 博学にして能く文を綴る大津皇子は情熱的でもあったのですね。

 二上山陵の前から南を見ると葛城山、金剛山が見えました。


 流石、聖徳太子も上の太子から斑鳩へ通った土地柄。
こんな建て看板も立っていました。

これじゃ、消防太子ですね。(笑)


今回のお土産は駅前のヨモギ餅を買って帰りました。

中将の謂れについては當麻寺のところを参照してください。

中身は普通のヨモギ餅に「赤福」のように漉し餡がついていました。

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