難波宮跡 18年3月25日
難波宮を語るには大化の改新(645年)の「乙巳(いつし)の変」から述べねばなりません。 |
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斉明天皇は661年、唐・新羅の連合軍が百済を攻めたため、その百済救済に出兵したが筑紫まで行ったところで急逝したのでした。 (左の写真は福岡県朝倉町の恵蘇八幡宮裏にある斉明天皇陵) この後は中大兄皇子が天智天皇として即位し、滋賀県大津市に遷都したが、死亡後壬申の乱が起こり大海人皇子(天武天皇)が再び飛鳥を都としました。 宮城としたのが飛鳥浄御原令を発布した飛鳥浄御原(きよみはら)だったのです。 斉明天皇の板蓋宮と浄御原はほぼ同じ場所です。 |
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前期難波宮は全ての建物が掘立柱構造で屋根瓦を葺かない建物であったと云われています。 難波宮には南から朱雀門(東西23.5m×南北8.8m)、朝堂院南門(同23.5m×8.8m)、内裏南門(同32.7m×12.2m)。これらが回廊などで囲まれていました。 朝堂院殿は調査済みだけで14棟というからかなり大きな規模といわざるを得ません。 まだ、2棟が発掘により検出されるかも知れないということらしいです。 ここで政治、つまり政(まつりごと)や儀式が行われました。 しかし、この後に造られた宮城(藤原宮、平城宮、平安宮)では朝堂院は12棟となっていることから、大化の改新以降の孝徳天皇と中大兄皇子の意気込みのようなものを難波宮に感じるのです。 天皇が住む内裏(だいり)は宮中の奥(北)に配置され、回廊と門で囲まれた区画で、東西185m×南北200以上の大きさです。 内裏南門の左右には回廊で囲まれた中に、三重の柱列が八角形にめぐる楼閣状の建物が検出されています。 これも以降の宮城には見られない特徴でしょう。 文献がないため用途は分からないものの、8角形というところに着目すれば、古墳時代終末期に突如現れてきた八角墳のように仏教との関わりが気になるところです。 前述したように孝徳天皇は654年に薨去していますが、前期難波宮は686年火災で焼失するまでの間は機能していたのかも知れない。 |
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財団法人 大阪市文化財協会資料より | |
16年2月21日、(財)大阪府文化財センターによる大阪府警察本部棟の新築第2期工事に伴う発掘調査の説明会がありました。 この時は絵馬26点の出土を確認しており、一遺跡での出土数としては群を抜いています。 出土した絵馬は幅24cm前後のものが大半を占めていますが、小振りのものも出土しています。 描かれた絵馬の多くは鞍や障泥(あおり)、鐙(あぶみ)などを表現した飾(かざ)り馬が多く、半数以上が右向きです。 多くの馬は墨で描かれた輪郭や鞍、障泥などが残るのみですが、一部では赤色顔料が残っています。 これらの絵馬は他の祭祀関連遺物などとともに難波宮に関連する国家的祭祀に関わるものである可能性が高いものと考えられます。 (大阪府文化財センター当日配布資料による) |
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後期難波宮の特徴は瓦が使用されたこと、大極殿などの建物が礎石造りになったこと、それに朝堂院の建物が8棟のみであったことでしょう。 |
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大極殿は写真のように凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられました。そして平城宮と同じように瓦が葺かれた。 朝堂院の建物が前期は14棟に対して、8棟と減少しているは初めから一時的な宮城として計画していたためでしょうか。 この後期難波宮はたった1年足らずで紫香楽に遷都したため、再利用することになりました。 その再利用されたところが京都の長岡京の宮城だったのです。 そのため長岡宮の朝堂院は8棟しかないのはあまり知られていない話です。 |
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法円坂1丁目の歩道橋はこんな名前でした。 |
難波宮跡公園をあとにして森之宮方面に歩いていくと 大阪城公園は桜が満開でした。 確か、開花予報が今月末ではなかったかな。満開情報からすればまだ2週間も早いのですが。 |
こんなに花が咲いているとは知りませんでした。 ということで急遽ここでお花見をすることにいたしました。 |
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