難波宮跡                                            18年3月25日

 難波宮を語るには大化の改新(645年)の「乙巳(いつし)の変」から述べねばなりません。
「乙巳の変」とは皇極天皇のとき中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田らによって時の権力者である蘇我入鹿を暗殺し、天皇の復権を果たした事件です。
この事件により年号を「大化」と改めて皇極天皇は弟の軽皇子を天皇としました。この天皇が孝徳天皇で飛鳥で即位しました。そして中大兄皇子が皇太子となったのです。

そして大化の改新の中心テーマとは
   1.公地・公民(人民や土地は全て天皇のものである)
   2.班田収授の法(戸籍を作成し、公地を公民に貸し与える制度)
   3.国郡制度(日本を国と郡に分割して統治する制度)
   4.租・庸・調の税制度(公民に税や労役を負担させる制度)

孝徳天皇はこの645年の12月に都を難波に移し、難波宮を建設したのでした。遷都したときから難波京は発展して行きました。
冠位十二階から七色十三階のちに十九階に変更しているのは国家体制の進化と制度の矛盾点とかが出てきたからなのだろう。
確実に進展している様子が窺える。

しかし、都城である京域が発見されないことから首都機能はなかったとも言われているが、私はそうは思わない。
このころの大阪は難波津という港があり、大陸との交流の表玄関でもあった。ここに都を移すことはそれなりに意味のあることだったはずである。
650年、年号を白雉と改め難波長柄豊崎宮の造営を始めました。そして652年9月、難波長柄豊崎宮は完成したのでした。

ところがである。653年、孝徳天皇と中大兄皇子が対立してしてしまいました。中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇をおいてさっさと奈良に戻ってしまったのでした。
中大兄皇子に付いて飛鳥に戻ったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子。それになんと孝徳天皇の皇后である間人皇女も飛鳥川辺の行宮へ行ってしまったのです。
そして654年孝徳天皇は病に倒れ10月10日寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去ったのでした。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったのですが、ところが次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚したのです。

 斉明天皇は661年、唐・新羅の連合軍が百済を攻めたため、その百済救済に出兵したが筑紫まで行ったところで急逝したのでした。

(左の写真は福岡県朝倉町の恵蘇八幡宮裏にある斉明天皇陵)


この後は中大兄皇子が天智天皇として即位し、滋賀県大津市に遷都したが、死亡後壬申の乱が起こり大海人皇子(天武天皇)が再び飛鳥を都としました。
宮城としたのが飛鳥浄御原令を発布した飛鳥浄御原(きよみはら)だったのです。
斉明天皇の板蓋宮と浄御原はほぼ同じ場所です。



時は流れて奈良時代。天皇は聖武天皇に代わっていました。
740年、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都する事にしたのです。
そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
ところが、744(天平16)年閏1月、聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまうのです
そして1年でまた滋賀県紫香楽に遷都しているのです。それなのに半年で再び平城京に遷都しているのです。

ということで、難波宮跡は前期難波宮と仮称される孝徳天皇の難波長柄豊崎宮と後期難波宮と仮称される聖武天皇の宮とがあったのです

現在、難波宮跡は元大阪市立大の教授山根徳太郎氏らの発掘により場所の確認がなされ、大阪城の南の法円坂に難波宮史跡公園として整備されています。


 前期難波宮は全ての建物が掘立柱構造で屋根瓦を葺かない建物であったと云われています。

難波宮には南から朱雀門(東西23.5m×南北8.8m)、朝堂院南門(同23.5m×8.8m)、内裏南門(同32.7m×12.2m)。これらが回廊などで囲まれていました。

 朝堂院殿は調査済みだけで14棟というからかなり大きな規模といわざるを得ません。
まだ、2棟が発掘により検出されるかも知れないということらしいです。
ここで政治、つまり政(まつりごと)や儀式が行われました。
しかし、この後に造られた宮城(藤原宮、平城宮、平安宮)では朝堂院は12棟となっていることから、大化の改新以降の孝徳天皇と中大兄皇子の意気込みのようなものを難波宮に感じるのです。

 天皇が住む内裏(だいり)は宮中の奥(北)に配置され、回廊と門で囲まれた区画で、東西185m×南北200以上の大きさです。


 内裏南門の左右には回廊で囲まれた中に、三重の柱列が八角形にめぐる楼閣状の建物が検出されています。
これも以降の宮城には見られない特徴でしょう。
文献がないため用途は分からないものの、8角形というところに着目すれば、古墳時代終末期に突如現れてきた八角墳のように仏教との関わりが気になるところです。


前述したように孝徳天皇は654年に薨去していますが、前期難波宮は686年火災で焼失するまでの間は機能していたのかも知れない。
  財団法人 大阪市文化財協会資料より




 16年2月21日、(財)大阪府文化財センターによる大阪府警察本部棟の新築第2期工事に伴う発掘調査の説明会がありました。
この時は絵馬26点の出土を確認しており、一遺跡での出土数としては群を抜いています。
出土した絵馬は幅24cm前後のものが大半を占めていますが、小振りのものも出土しています。
描かれた絵馬の多くは鞍や障泥(あおり)、鐙(あぶみ)などを表現した飾(かざ)り馬が多く、半数以上が右向きです。
多くの馬は墨で描かれた輪郭や鞍、障泥などが残るのみですが、一部では赤色顔料が残っています。
 これらの絵馬は他の祭祀関連遺物などとともに難波宮に関連する国家的祭祀に関わるものである可能性が高いものと考えられます。
        (大阪府文化財センター当日配布資料による)







 後期難波宮の特徴は瓦が使用されたこと、大極殿などの建物が礎石造りになったこと、それに朝堂院の建物が8棟のみであったことでしょう。






 大極殿は写真のように凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられました。そして平城宮と同じように瓦が葺かれた。
朝堂院の建物が前期は14棟に対して、8棟と減少しているは初めから一時的な宮城として計画していたためでしょうか。

この後期難波宮はたった1年足らずで紫香楽に遷都したため、再利用することになりました。

その再利用されたところが京都の長岡京の宮城だったのです。
そのため長岡宮の朝堂院は8棟しかないのはあまり知られていない話です。


法円坂1丁目の歩道橋はこんな名前でした。

難波宮跡公園をあとにして森之宮方面に歩いていくと
大阪城公園は桜が満開でした。
確か、開花予報が今月末ではなかったかな。満開情報からすればまだ2週間も早いのですが。



こんなに花が咲いているとは知りませんでした。 ということで急遽ここでお花見をすることにいたしました。



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