京都市東山区                              18年1月29日

 本日のメインは何だろう?
今回は目玉というようなところがない。 強いて言えば今回は新年会ということもあって将軍塚でパーティーを開くことだろうか。
それ故、集合場所から写真を撮らなければ、このページができないという内容になってしまいました。(照笑)
高山彦九郎像


 本日の集合場所は京阪三条駅の高山彦九郎像前だった。

『♪人は武士  気概は高山彦九郎
  京の三条の橋の上
  遥かに皇居を ネェ 伏し拝み
  落つる涙は鴨の水♪』   (サノサ節で)

 京都では明治中頃にこんな唄が歌われたそうです。
この銅像が無ければ高山彦九郎って誰?ってことになりそうなんですが。
明治時代には里謡に歌われたのだから庶民にもその名が知られていたのでしょう。

それでは、高山彦九郎とはどんな人だったのだろう?
彦九郎は上野国(群馬県)新田郡細谷村(太田市)の郷士である高山正教の次男として生まれた。
自分の先祖が新田義貞の家臣であったことを知ってに感激して、志をたてて上京しました。

「太平記」を読んだのがきっかけだったのか、尊王思想家に成長したのだった。
大名・公卿・学者・豪商・武士・農民との交遊を重ね、三十数ヶ国を歴遊して、議論をして尊王思想を説いて回った行動派の思想家だった。

その交友関係は、前野良沢、頼春水(山陽の父)、藤田幽谷(東湖の父)、林子平、蒲生君平などに及んでいる。
1793(寛政5)年6月27日、筑後国久留米で、その志かなわぬと悟ったのか儒医森嘉膳宅で自刃した。
久留米の真木和泉守、木村重任らをはじめ日本中の幕末の志士達に多くの影響を与えたと言われている。

 この銅像は彦九郎が京都に入るときには、東海道五十三次の終起点である、ここ三条大橋のたもとで、御所に向って拝礼した姿を現したものだ。


三条白川橋
 三条大橋から東に道をとって10分。ここに白川橋がある。その橋のたもとに1本の石碑が立っていた。
正面には『これよりひだり ちおんゐん ぎおんきよ水みち』と書かれてる。
つまり、「左に行けば知恩院、祇園、清水に行けまっせ」と言うことでしょうか。
左横には「京都為無案内旅人立之」(京都に無案内の旅人のために之を立てる)と書いてあった。
1878(延宝6)年の銘があり江戸初期のものですね。

ところで、この石碑。真ん中に継いだ後がある。
車がぶつかって折れたらしいのです。 何ちゅうことをするねん!(怒)






ここ三条白川を南に曲がって次の目的地に向うことにする。
そこは、ここから二筋目を左に曲がったところにあった。




明智光秀首塚

 名前だけなら明智光秀を知らない人はいないだろう。
だが、首塚がここにあることを知っている人は少ない。
本能寺の変があったのは1582(天正10)年6月2日。
光秀は織田信長を本能寺に襲撃した。
13日には山崎合戦で豊臣秀吉軍に破れ、近臣とともに長岡京市の勝竜寺城を脱けだし、深草大亀谷から山科通って坂本に向かう途中、山科の小栗栖で土民の竹槍の前に深手を負った。
元禄時代の話なので信憑性は今ひとつだが、『明智軍記』には、近臣の溝尾勝兵衛に介錯を頼み自刃したとある。



碓井小三郎氏の『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田口の刑場(日ノ岡)に晒された後、栗田口黒谷(西小物座町)に、他の数千の首と一緒に埋められたという。
 1771(明和8)年に光秀の子孫と名のる明田利右衛門が、栗田口黒谷の五人組連中からもらい受けて、石塔を自宅(現在地の東)へ移して菩提を弔った。
明治維新後、現在地に移された。

因みに光秀の胴体は小栗栖小坂町の明智藪に埋められているということで現在は石碑が立っている。


 光秀の首塚というとここだけではない。
亀岡市猪倉 清滝山谷性寺にも首塚はある。
ここは、通称「光秀寺」と呼ばれている寺で、平安時代藤原期の創建になる古刹である。
なぜ、光秀の首塚がここにあるのかよく分らないが、亀岡城の城主であったことや、この寺の本尊の不動明王を厚く信奉していたことからの関係だろう。

 もう一つは、京都府宮津市喜多にある盛林寺である。
宮津には細川忠興に嫁いだ光秀の三女の玉(ガラシャ)がいた。ここに光秀の首が届けられたという。
そして、盛林寺に葬られたとされる。
この話しは一見ありえそうだが、細川家は「本能寺の変」後、光秀には協力せず、ガラシャを謀反人の娘ということで丹後味土野に幽閉している。
だから、この地に光秀の首が届くというのは如何なものだろう。
ただ、宝篋印塔の基礎部分に「天正10年6月13日條鉄光秀居士」と刻まれていることから、全く否定することはできないだろう。他にもこの寺には前日洲条鉄光秀居士という光秀の位牌もある。


 話は元に戻すが、今日のこの首塚には「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれた位牌(左下写真)が存在している。



 この家来というのが溝尾勝兵衛さん、のことだけど、実際に首はどうなったのだろう?
京都市の説明と、上で仙道の調べた話とも食い違っているのもおもしろい。


蛇足!

白川夜船という言葉はよく聞く。
意味は「熟睡していて何も知らないこと」、「知ったかぶりをすること」なのだけど、その言葉の由来は
『京都を見てきたふりをする者が、京の白河のことを聞かれて、川の名だと思い、夜、船で通ったから知らないと答えた』という話からだ。

確かにこの白川には船は通らないだろう。

平安神宮の大きな鳥居を見て反対方向の南に向う。

一路南に向う。

青蓮院の前を通り過ぎて。



青蓮院のシンボルはこの楠木の大木だろう。
花園天皇陵
 ハッキリ言ってこの天皇はよく知らない。
南北朝時代が始まろうとする時期の天皇で、鎌倉末期には天皇家は持明院統と大覚寺統の天皇が交互に天皇に就いていた。
花園天皇は持明院統。第95代天皇で(在位:1308年12月28日〜1318年3月29日)12歳で天皇になった。
天皇である期間は、前半は、父の伏見上皇が、後半は、後伏見上皇が院政を引いたということで、確かにこれじゃ印象もないし、知らないのも当然でしょう。
退位後は、光厳天皇の養育を行ったり、禅宗の信仰に傾倒し、1335年に出家。
1348年、崩御。

歌道に優れ、京極派の重要なメンバーの一人であった。他にも『花園院宸記』と言う日記を残したり、読経・念仏をかかさなかったなど、文人肌で信心深かったと言われている。

この次の天皇は南朝創始者となった後醍醐天皇である。
                                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 天皇は元々、天台・真言の教理に造詔が深く、宗派にこだわらずに僧をたびたび招いて仏法を熱心に学んだ。
しかし、大徳寺開山の大灯国師に傾注して禅の修行に打ち込んだとされる。

 大灯国師没後は美濃から慧玄禅師を向かえ、花園法皇を開基とし、慧玄禅師を開山とする正法山妙心禅寺が開創された。
この寺が現在の妙心寺である。



粟田神社
祭神:建速素盞嗚尊、大己貴尊、奇稻田媛神、神大市媛神、佐須良媛神、八島小奴美神
    五十猛神、大屋彦神、大屋媛神、抓津媛神、須勢理媛神、大歳神、倉稻魂神
由緒:調べてみると諸説があって何が正しいのか不明。


 第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする粟田一族がこの地で、鉱物を穿ち、粟瓜を主食として生活をし、神を祀っていた。

熱田神宮が奉祀されるや熱田の社人として一族もろともに移り、土地の名を残すのみとなった。
粟田の臣の産土と云われている由縁である。 (これは京都市が立てていた案内板にも書かれている)


 876年、第56代清和天皇は、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」とのお告げにより、全国の諸神にお供え物をして、国家と民の安全を祈願した。

この時、藤原興世は勅使として感神院祇園社(現八坂神社)参宮して、祈願すること七日間、満願の夜に一人の老翁が夢枕に立って
「今既に、天皇国家に災変あらんことを聴き、叡慮を痛められる事のないよう、汝すぐに、天皇に伝えよ。
天皇の心を痛められていること、天の神に通じ吾を祭れば、必ず国家と民は安全なり」と言った。


この神は大己貴神で、更に「牛頭天王(ごずてんのう 素盞嗚尊)を祇園の地に迎えよ。祇園の東北に清き処あり。その地は昔、牛頭天王にゆかりある地である。そこに我を祀れ」と言って消えたという。。
これを朝廷に秦上し、ただちに粟田の地に社を建て、大己貴神をお祭りした。



 八坂神社を感神院と言うのに対し、粟田神社をを感神院新宮と言う。 






尚、このページのトップの写真は粟田神社の境内から写したもの。




社殿は応仁の乱を始め、幾たびも焼失しているが、現在の社殿は1823(文化6)年に再建されたもの。

三間社流造の本殿の前に桁行二間、梁行三間で、正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。

拝所の彫刻装飾には時代的特色が見られ、また流造の屋根の前に入母屋造の妻入、さらにその正面に唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観を見せており、江戸時代後期の複合社殿として見応えのある建物である。



蛇足1: 社殿の前にあった「光格天皇御胞衣之松」
      ん?松じゃなくモミジが植わっている?(笑)


蛇足2:胞衣(えな)とは胎児を包んでいた膜や胎盤
     などで、通常は胞衣壷に入れられて埋められた。



尊勝院
尊勝院は、天台宗に属する寺院で、保延年間(1133〜1141)に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青連院三条白川坊の裏に移つされたと伝える。
また応仁の乱により荒廃したが、文禄年間(1592〜1596)に豊臣秀吉によって本堂が再建されたという。江戸時代には、本堂は元三大師(がんざんたいし)を本尊として南面して建っていていた事から、南面大師堂あるいは元三大師堂とも呼ばれていた。
大正4年には現在地へ移転されたが、その際に建物は本堂のみが移された。
(中略)
この本堂は桃山時代まで遡るものと考えられ、その後、幾度かの修理によって大きく改造されているところがみられるものの、内陣は常行三昧堂の形式である一間四面堂の構成で建てられ、また極彩色が施されて桃山時代の趣がよく残されている。
小規模ながら、古式で上質の建物である。
                                               出典:京都市の現地案内板より

本尊の元三大師とは、比叡山第十八代座主であった良源上人の事で、叡山中興の祖と言われ、数々の伝説とともに降魔大師、角大師、豆大師などの異名を持つ。
尊勝院は、比叡山千日回峰の阿闍梨が先程の白川の行者橋(通称一本橋)を渡って修行の報告に来る寺でもある。


遊び人の私は「大三元」と読んで、マージャンの達人が!
アホでした。



右は本堂前の庭から見た景色。
トップの写真からは少し高く上ってきたことが分ります。





 山道を登り将軍塚へ向う。
去年も1月将軍塚で新年会。今年は去年と反対の北側から登ることになった。
こちらの方が距離も半分ぐらいで簡単に登れた。

将軍塚に辿りつく手前で発見。
18年4月に放映予定の土曜サスペンスの
収録が行われていた。

こんな道具もあったのだ。

青蓮院飛地境内にある大日堂

今日は温かな日和で東山山頂公園は多くの人々が集まっていた。

本日のメンバーでの記念撮影

帰り道に寄った知恩院の大鐘楼

さすが日本一の大きさ

明治時代「煙草王」と称された村井吉兵衛の京都別邸として建設された長楽館。
伊藤博文が長楽館の名前をつけている。
外観はルネッサンス様式で、1階部分が石張り、2階3階部分がタイル貼りになっている。
ここには英皇太子ウェールズ殿下、米副大統領フェアーバンクス、米財閥のロックフェラー、伊藤博文、山県有明、大隈重信などが客として訪問していることからも由緒のある建物だということがわかる。





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