京都市伏見区天皇陵                第114回          17年5月28日



 今回は2年ぶりに伏見の町を歩くことにしました。
というのは、会長さんが足の指を骨折していて長距離を歩けないため、宇治川の畔でバーベキューをすることにしたのでした。
ですから2班に分かれて行動し、最後はバーベキュー場に集合することにしたのでした。

 天皇陵散策班が集合したのは近鉄丹波橋駅。ここから桓武天皇陵、明治天皇陵、乃木神社、大光明寺陵、伏見松林陵と巡ってみました。

桓武天皇陵

              桓武天皇陵参道入り口



 伏見は現在のように宇治川に隣接しておらず、桃山時代までは大きな巨椋(おぐら)池が南側に広がっていました。
 伏見の高台から南を望むと広大な池とその向こうに遠く奈良までも見渡せるゆったりとした景色を見ることができたのです。
桓武天皇はこの景色を好んでいたのでしょう。だからこそこの伏見の地に陵墓が造られたのではないかと考えています。
桓武天皇についてはこれまでに何度か触れたことがありますので、今回は平安京遷都に至る部分に触れておきましょう。


 770(宝亀元)年、称徳天皇の死によって壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶えました。
「日本紀略」には称徳女帝の没後、皇太子の決定にあたって右大臣吉備真備は天武天皇の血統である文室浄三(ふんやのきよみ)を推しました。藤原百川(式家)は左大臣藤原永手(北家)、参議藤原良継(式家)らと組してこれに反対し、宣命の語を書き換えて白壁王の立太子を強行したとあります。

 このとき、白壁王は62歳で、「続日本紀」には『酒を縦(ほしいまま)にして姿を晦(くら)ます』ような人で、決して天皇にはなりたくなかったのかもしれません。
さらに、皇后の井上内親王というともっと気の毒で、5歳の時に卜定(ぼくじょう)により伊勢斎王になることが決定され、26歳の時18歳年上の白壁王の夫人となり、他戸親王(おさべしんのう)をもうけていました。

 ところが、藤原永手が死亡すると藤原百川は永手主導の他戸王の即位が気に入らなかったのでしょう。
百川は光仁天皇を呪ったという「巫蠱(ふこ)の罪」で皇后である井上内親王を捕らえられ皇后を廃位させ、それに連座して息子の他戸親王も皇太子を廃位させてしまいまったのです。
さらに、翌年の773年には光仁天皇の姉である「難波内親王」を呪い殺したという「厭魅(えんみ)の罪」まで着せてしまいました。
そして775年、2人共同日に亡くなってしまいます。恐らく百川の手の内の者による暗殺なのでしょう。

この暗殺により天武朝の血統はほぼ絶えたと言ってよいのです。

光仁天皇には渡来人系の女性「高野新笠」との間に山部親王がいました。
高野新笠が渡来系氏族であったことから山部親王の立太子には反対も多かったのです。
ところがこれも藤原百川らの後押しで皇太子となったのです。
そして781(天応元)年12月、光仁天皇の薨去により山部親王は天皇に即位し桓武天皇となったのです。

 直後、氷川川継(ひかわかわつぐ)の反乱の計画が発覚しました。
氷川川継とは天武天皇の曾孫に当たる人物です。
彼もまた皇位継承者の一人ではあったのです。
彼は計画発覚で伊豆に流されたのです。
この事件で、もう天武朝の有力な継承者は完全に無くなってしまい、以降は天智天皇の血統が続くことになりました。

余談ながら「百人一首」の1番目の歌が天智天皇の歌から始まっているのは、平安時代の天皇系統の創始者であるからだそうです。



 桓武天皇は百川によって強引に天皇になった感のある天皇ですから、反感を持つものも多かったでしょう。平城京には天武派の息のかかった臣下もいたことでしょ。
さらに、道鏡のような人物を生み出す土壌もありました。

そのため和気清麻呂の進言に従い長岡京に遷都することを決定したのです(783)。
長岡京造営の長官は藤原式家の種継があたりました。
長岡京は条坊制と呼ぶ1800尺(533m)を基準とする方眼で割り付けられ、これを坊(街区)とし、坊の境は東西方向に北京極から九条、南北方向は左京右京ともに一坊から四坊までの大路で区画されました。
規模は東西4.3km、南北5.3kmで平城京より少し大きなものでした。


 ところがです。造都の長官である藤原種継が何者かによって暗殺されてしまったのです。
犯人は長岡京の造営に反対する大伴継人(おおとものつぐひと)、大伴竹良(おおとものちくら)と判明し直ちに処刑されます。
しかし、実行犯の2人は大伴家持(おおとものやかもち)らと共謀して暗殺を計画し、その後ろにいる黒幕は皇太子である早良親王だったと言ったのです。
結果、早良親王は捕らえられ「乙訓寺」に幽閉されました。

幽閉された早良親王は無実を訴えながら、身の潔白を証明するため断食をしていましたが淡路島への島流しが決定され、淡路島に護送中の淀川沿いで餓死してしまいました。

その後、桓武天皇の母高野新笠をはじめとする近親者の相次ぐ死、淀川の2回の氾濫、大飢饉、流行り病の蔓延と凶事が立て続けに起こったのでした。


              桓武天皇陵参道

                桓武天皇陵遠景

                桓武天皇陵近景
 当時、こういう状況になるのは「怨霊」や「祟り」の仕業と考えられたのです。
桓武天皇もそう考えたのです。
井上内親王についても他戸親王にしても、そして早良親王に関しても全て桓武天皇が関わっています。
ヒョットして、これらの事件の真の黒幕ではなかったのだろうか?

そこで桓武天皇は怨念の渦巻く長岡京の建設を諦め、心機一転、他の地に移り新都の建設を行うことにしたのです。
今回は、もう失敗は許されません。新都建設に当たっては「風水」を用いて候補地を探しました。
それが、平安京なのです。
風水で吉とされるのは「玄武(北)に 山、青龍(東)に河川、朱雀(南)に湖沼、白虎(西)に大道がある」場所が都を造るのに最適とされています。
平安京を見ると
玄武(北の方角)・・・・船岡山
青龍(東の方角)・・・・鴨川
朱雀(南の方角)・・・・巨椋池
白虎(西の方角)・・・・山陽道
があり理想的だったのです。
桓武天皇についての話はここまでといたします。


次に我々が向ったのは明治天皇陵です。桓武天皇陵とは隣接していますが、その規模の大きさから歩いて15分くらいはかかるでしょう。




明治天皇陵

         延々と続く明治天皇陵の参道

  天皇陵には花は珍しいのですが「カナメモチ」の花です。
 明治天皇は、1852(嘉永5)年9月22日、孝明天皇を父とし、中山慶子(よしこ)を母として生まれました。
1867(慶応3)年1月9日、父孝明天皇が前年の1866年12月25日、35歳で急死したため、第2皇子の当時16歳の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が即位し、明治天皇睦仁(むつひと)となりました。

明治天皇は若年で即位したため、側近の岩倉具視らの主導で明治維新は推進されたことになります。
その結果、1867(慶応3)年、徳川慶喜に大政奉還の勅許を与えましたが、薩長両藩主に討幕の密勅を下して王政復古の大号令を発しています。
新政府を樹立して、1868年3月には五箇条の誓文を発し、1871(明治4)年6月に廃藩置県を断行(274藩が奉還)して中央集権体制を実現しました。
1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布して帝国議会を開設しました。
また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たしました。

               明治天皇陵遠景

              明治天皇陵近景

明治天皇陵から見た宇治、奈良方面



左の階段を下から見たところ
昭憲皇太后陵
明治天皇皇后陵です。
にもかかわらず皇后でなく皇太后なのでしょう。
改めて言うまでもありませんが皇后というのは天皇の后(きさき)
皇太后というのは天皇の母親の意味です。

皇太后と言うのは右のような理由があります。

右は明治神宮公式サイトhttp://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm
から転写いたしました。



昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。すでに明治天皇は崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇が践祚(せんそ)されたので皇太后となられたのでした。崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となったのです。はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。
 このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日(明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達(いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。
しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。その理由として
 1、天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
 2、すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
の二点があげられています。
 時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。



乃木神社
樹齢3千年、幹の直径2m以上といわれる台湾阿里山の檜で造られたと
されている神門



拝殿。 その前には乃木将軍の愛馬(壽号、璞号)が御霊を護って対峙しています。
但し、狛犬の代わりではありません。

本殿は屋根の工事中で見ることは出来ませんでした

受験、病気、スポーツ、勝負、出世、営業?

勝ち負けが絡むことなら何でもこい見たいですね。
この神社や乃木大将を信奉されている方には当然のことなのでしょう。


でも、この下に書いたことは反感を持たれるのでしょうね。

以下の記述の多くはネットのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にさせていただきました。

 戦前生まれの人なら、乃木大将を知らない人はいないでしょう。
私のような、戦後の団塊の世代人間でも多くの人は知っています。
先ず、簡単に略歴を紹介しておきます。

1849年 現在六本木ヒルズになっている江戸麻布長府毛利上屋敷で長州藩士のもとに生まれる。
1858年 10歳のとき父とともに長府に帰る
1866年 第二次長州征伐小倉口の戦闘に参加
1868年 明治維新を向える
1871年 陸軍少佐に任官
1877年 歩兵第十四連隊長心得として西南戦争に従軍、連隊旗を西郷軍に奪われる
1886年 ドイツに留学
1894年 歩兵第一旅団長(少将)として大山巌指揮下日清戦争に参加。旅順要塞を一日で陥落させたが、占領地の虐殺事件で世界の非難の的となる
1896年 台湾総督に就任
1898年 台湾統治失をとって台湾総督辞職
1904年 日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮したが失敗。203高地を占領してからの攻撃に変更し、
      旅順港のロシア艦隊を壊滅させた後、要塞攻略を指揮して成功したが、死傷者5万9千人を出し、自らも二人の子を失った。
1905年 旅順要塞降伏、ステッセル将軍と水師営の会見
1907年 学習院院長として皇族子弟の教育に従事
1912年 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。

 司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』では日露戦争での乃木大将を無能な大将として描かれています。しかし『殉死』では明治天皇を慕う武人としての美学が描かれています。
嶋名政雄氏の『乃木神話と日清・日露』では「攻撃計画は、乃木の独善的な主観に過ぎない。自軍のご都合のみが乃木の脳裏のすべてであり、旅順要塞がどのような実態を備えているかは問題にもしていない。つまり、乃木の脳裏にあつたのは、十年前の日清戦争から一歩も出るものではなく、曾ての上官であった山地第一師団長の華々しい勇姿であったに違いない」と扱き下ろしています。

乃木無能論要点は
・歩兵を人間とは見ず、消耗品のように考え、戦略を立てず単純な正面攻撃を繰り返した。
・旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、
 旅順要塞攻略に固執し、無駄な死傷者を出した。
・日清戦争時に旅順要塞を一日で陥落させたためその成功が忘れられず進歩がない。
 また、芥川龍之介の『将軍』の影響かもしれないが、彼のモノメニア的皇国史観からくる中国・韓国の人々に対する差別的偏見を持っていた。
・攻略戦初期の威力偵察で、要塞近くの203高地から旅順港に停泊している旅順艦隊を観測可能なことを確認していた。
 しかもその時、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず簡単に占領できた。
・その後、ロシア軍が203高地の重要性に気付き要塞化してしまうのを許してしまった。
・児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更した数日後に203高地の奪取に成功した。
・5万9千人もの死傷者を出したにもかかわらず、旅順要塞を最後まで陥落できなかった。
 (しかし、英仏連合軍のセヴァストポリ要塞攻略戦は349日の長期戦(旅順要塞は155日で落城)であり、
  英国軍に3万3千、フランス軍に8万2千の損害を与えた。)


と大体こういったところでしょう。

これに対して擁護賞賛派は違う。
・旅順攻略は、戦前の計画には無かった。海軍からの要請を請け急遽第三軍が組織されたため準備不足があった。
・要塞攻略するための重火器や砲弾の数が圧倒的に不足していた。
・乃木が採用した火砲による準備射撃の後に歩兵が銃剣突撃するという強襲攻撃は要塞攻略の一つとして用いられており、
 その後の第一次世界大戦でも行われている。
 しかし、見方を変えてみれば、フランスのフランソワ・ド・スーグリェ将軍は、「精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心と
 騎士道的な死を恐れない精神力による圧倒的な力の作用の教訓となる印象深い戦例」であると賞賛し、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えた。
 これがきっかけとなったのか、ヨーロッパでは日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられた。
 このため、10年後に起きた第一次世界大戦では、ヨーロッパ諸国の軍司令官たちの脳裏に、日本軍の突撃精神が鮮やかによみがえり、
 突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。
・第一回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第二回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。
・大本営からの旅順攻略戦に対する指揮内容が二転三転した。また大本営から過剰な指揮介入があった。
・児玉源太郎が旅順に来る以前にすでに203高地奪取の方針に転換していた。児玉源太郎に指揮権を委譲しなくても203高地を奪取することはできた。
・観測所設置は203高地以外でも可能であり、また、203高地占領(12月6日)から要塞陥落(1月1日)までは一ヶ月の間が開いており、主要因とは呼べない。
・旅順艦隊は既に戦闘能力を失っており、攻撃による撃沈ではなく、自沈である。
・日本軍には本格的な攻城戦の経験が少なく、しかも乃木と参謀であった伊地知孝介は、野戦向きで攻城戦は不慣れであった。

・旅順陥落が日露戦争の大勢を決めた。
・旅順攻略戦後にロシア側のステッセルとの間で水師営の会見が行われた。そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、
 諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。
 乃木はステッセルらロシア軍幕僚に帯剣を許し従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず
 彼らの武人としての名誉を重んじた。

 乃木大将は独特の武士道と、カリスマ性を持ち合わせている。軍人として明治天皇の厚い信頼を受けていた。
明治天皇も事ある毎に「乃木を呼べ」と言ったらしい。乃木大将が旅順で大敗を喫して更迭が必死になったときも「辞めさせたら乃木は生きておるまい」と言ったとか。

                乃木旧邸
極めて質素な生活をしていたことを偲ばせています。
乃木希典の父は十郎希次といって、江戸麻布毛利邸で槍術の礼法小笠原流の指南番をする禄高150石の武士でした。
1858年安政の大獄が始まると幕府の忌諱に触れ江戸払い減禄2分の1となり、長府に帰ってきました。閉門蟄居の身です。
仕方なく足軽の家を借りてそこに住んだのです。
それがこの写真の家なのです。

このとき乃木希典は10歳だったのです。16歳で萩に従学するまで、ここで過ごしたのです。
希典が11歳の時、親戚の吉田松陰が、安政の大獄で幕府に捕らわれ処刑されています。
希典は松陰の叔父である玉木文之進について学びました。




希典は幼名を無人といい、幼時には3歳年下の妹にさえ泣かされたというほど気弱な性格であった。
しかし、兄弟思いで妹達を守ってやったり、その髪を結ってやったりしたという。
また、針を使って縫物をするという男らしからぬ少年だった。
両親はこのような希典を不甲斐なく思い、その家庭教育考え、毎朝出仕前に必ず一条の教訓を与えて出かけるようにしました。
この写真はその様子を現したものなのです。



1907年乃木希典は学習院院長に就任。
皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。
 乃木神社に佐々木四郎高綱の絵があるではないか。
この人、今放送されているNHK大河ドラマ「義経」に登場してくる宇治川の先陣争いに登場してくる人物なのです。
説明を読んで納得したのですが、この人が乃木大将のご先祖様だったのです。

 1912(大正元)年、明治天皇の大葬当日学習院院長乃木希典は自邸で妻静子とともに「殉死」しました。

    うつし世を 神去りましし 大君の 
           御あと慕いて 我は逝くなり

乃木大将の辞世の句です。
夏目漱石は著書「こころ」の中で「死のう死のうと思って生きていた年が苦しいか、又、刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいかと私は考えました」と書き、哲学者西田幾多郎も「乃木さんの死について、かれこれ理屈を言う人があるが、此の間何等の理屈を容れるべき余地がない。近来明治天皇の御崩御と、将軍の自害ほど感動を与えたものはない」と語って、当時の事件としてはセンセーショナルなものであったことが伺われます。

人間乃木希典が何を想い、何を表したかったのか?
「辞世の句」と「殉死」という形で表現したのだろう。
切腹した上で喉を突いたというから、確実な死を望んでの殉死であったのでしょう。

1877年、歩兵第十四連隊長心得として西南戦争に従軍、連隊旗を西郷軍に奪われるたことが積年の思いとなって殉死に至る大きな要因となったという話を聞いたことがありますが、その程度の失策が「殉死」に結びつくことはないでしょう。
やはり明治天皇に取り立てられ、誠心誠意天皇に尽くしてきたからこその「殉死」であったに違いないと思う。
その行為が前時代的なものであろうとも乃木希典の生き様の美学の最期の表現だったと思うのです。






 88代、後嵯峨天皇以降、北朝となる持明院統と南朝となる大覚寺統が交互に天皇に着いていましたが、後醍醐天皇以降南朝側の天皇が続きました。
というのは後醍醐天皇が光明天皇に渡した神器は偽物であったからという話もあります。
その後、北朝側は光厳、光明、崇光、後光厳、後円融を天皇としたが、崇光天皇のとき北朝の「神器」を南朝方の後村上天皇に渡してしまうのです。
そのため以後、北朝に「神器」は無い事になったのです。





伏見の町並み。この辺りが月桂冠の発祥の地です。



幕末、坂本龍馬が定宿としていた寺田屋はこの近く。

 子供が食べても大丈夫。ノンアルコールのお酒ソフトです。


中世この辺りは舟戸御所があったといわれています。


御崇光太上天皇とは伏見宮貞成親王の事です。





5月28日ともなれば、初夏というより盛夏の感じです。
夏の暑さに負けていては世の中生き抜いて行けない。 この夏を乗り切るためにスタミナをつけよう。




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