せせらぎ BY 『音楽の部屋』様
宇治の花見                                                   17年4月9日(土)


現在の橋は1996(平成8)年に架け替えられたもので、
長さ155.4m、幅25mある。
 本日の集合場所としたのは宇治橋西詰めのこの場所です。
宇治橋は646(大化2)年、奈良元興寺の僧、道登(どうと)によって最初に架けられたと伝えられ、「瀬田の唐橋」「山崎橋」とともに、日本三古橋のひとつに数えられていますと案内には書かれています。
ところが、私の記憶の中に推古天皇の治世のとき摂津の長柄に人柱をたてて橋を造ったという話があります。
多分610年代の事でしょう。

さて、前回の貴船の話の中に出てきた橋姫の話ですが、もう一度書いておきますね。

宇治の橋姫は悪阻(つわり)に苦しんでいました。
それで夫に「七尋(10m)のワカメを海で獲ってきて下さい」と頼みます。ところが海に出かけた夫は美しい龍神(女性)の魅力に虜にされてしまいます。
逢うことも叶わなくなった橋姫は夫も龍神も憎くくて堪りません。そしてここ貴船に参詣し「私を鬼に変身させてほしい、そして憎い龍神を呪いたい」と7日間も祈願するのです。
その結果、貴船の神は「髪を松ヤニで固め5つの角を作り、その先に火を灯し、鉄輪を被って、三本の松明を持ち、宇治川に22日間浸れ」とお告げをしたのです。
そして、顔には朱をさし、身には丹を塗り、5つの角を作り、鉄輪を被って、松明に火を点け、そのお告げの通り22日間宇治川に浸ったのです。
橋姫はそれは怖ろしい鬼になって夫と龍神を食い殺し思いを成し遂げたと伝わります。(橋姫の話は2種類あるのですが、二つの話を合成しました)

 これも中学生の時に聞いた話ですが橋姫は嫉妬深いため花嫁行列は決してこの橋を渡りませんでした。この橋の右岸と左岸の結婚式であっても、遥か4km下流の観月橋を渡ったということです。
昭和時代の中頃までは橋姫の存在が知られていたのですね。
右は橋姫が祀られている橋姫神社の説明板です。

鬼と化した橋姫の話など微塵も感じられないですね。


ここが橋姫神社の祠です。
 源氏物語、宇治十帖の話として橋姫神社には右のような説明がなされています。
そして橋姫神社には何処にも本来の橋姫の切なくも悲しく怖ろしい話を窺い知ることが出来ません。

この同じ境内に立っている説明板を見てわが宇治市の観光行政というか方針のようなものが見えてきますね。

本来無関係の心霊(鬼女)の橋姫と宇治十帖の橋姫を混同させて鬼女のダーティーなイメージを払拭しようとしているように思えるのですが。




平成15年12月に設置された紫式部さんですよ。

 宇治橋に関しては他にもいろいろな話があります。
治承4年(1180)、平家打倒を掲げて後白河院の第2皇子である以仁王(もちひとおう)は源頼政と謀り諸国の源氏に平家追討の令旨を下す。
この令旨の使者は熊野に隠れ住んでいた源行家だった。行家は一旦令旨を持って熊野に戻ったはめ田辺にいた熊野別当湛増の耳に入り計画が露見しました。
(宇治橋の話にここまでは必要のない話なのですが、先週のNHK大河ドラマ「義経」で丁度この話のシーンがあったものでついつい書いてしまいました。)
平氏は兵を源頼政に差し向けたのですが、頼政は以仁王とともに園城寺(三井寺)に逃れ、園城寺と延暦寺に援助を求めたのです。しかし延暦寺には拒絶され、そのため興福寺に援助を求めて奈良に向かううのです。
途中、宇治の平等院で休憩をしていた時のことです。平家物語によれば追っ手の平知盛らに追いつかれ、源頼政軍一千余騎、平家追討軍二万余騎が宇治川を挟んで戦闘を繰り広げたのです。(実際のところは、「五十騎対三百騎」の軍勢同士の戦いだったそうです)
この時、源頼政軍は宇治橋の橋板を外し平氏の進行を止め宇治川を挟んで対峙したのです。
祇園祭の山鉾に浄妙山(じょうみょうやま)というのがあります。この山はこの戦いのとき三井寺の僧兵筒井浄妙が一来法師頭上を飛越えて先陣を切って曲芸的な働きで平氏と戦った様子を現しているのです。
結局、この戦いでは源頼政は自刃、以仁王は奈良に逃げ延びる途中に流れ矢の当たって死亡したのです。

もう一つは義経軍と木曾義仲軍との戦闘における佐々木四郎高綱と梶原源太景季との先陣争いでしょう。
義仲は倶利伽羅(くりから)峠の合戦で勝利を納め、平家一門を京から追放し上洛したのでした。しかし後白河法皇は粗野粗暴の義仲を好みませんでした。
その内、義仲は皇位継承をめぐり後白河法皇と対立してしまったのです。そして法皇の命を受けた頼朝と対立してしまって、1184年この宇治川に陣を張ったのでした。
このときの頼朝側の総大将は源義経、配下にこの戦いで名を上げようとする二人の勇将、佐々木四郎高綱と梶原源太景季がいたのでした。佐々木高綱は源頼朝から拝領した名馬「生月(いけづき)」に乗り、勇猛果敢に川に乗り出し、見事二人の先陣争いに勝利したのでした。



 本日の歴遊会、実はお花見が目的だったのです。
そのため、メンバーが集合すると、先ず最初の訪問地はなんと宇治橋近くのスーパーだったのです。

上の写真は中年おじさん達が買出しをしている姿なのです。
チョット、ん? かなり醜いですね。


 鍋物用食材、バーベキュー用食材、酒の肴、寿司、ビール、お酒、紙コップ、皿等を仕入れました。



買出し後平等院の参道を歩いて塔の島へ向います。
リックの他、手荷物が多くいです。

さすが宇治です。平等院の参道にはお茶屋さんが軒を並べています。

ここから暫くは桜をお楽しみください。

           まだ午前中、人出はあまりありません。



恵心院

              ゆっくり桜の花を楽しめました。

 9世紀初期、嵯峨天皇の弘仁十三年(822年)、弘法大師の開基の寺です。
この寺は初め弘法大師が唐で学んだ青龍寺の地形(裏に山丘、前に大河あり)に似ているということで『龍泉寺』と名付けられたそうです。
その後、種々の戦火に遭い、衰退しましたが、1005(寛弘2)年、比叡山横川の恵心僧都(源信)によって再興され、寺号を「朝日山恵心院」と改められました。
江戸時代に入って、淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされましたが、数度の兵乱に遭い再び衰退しました。
その後、真言宗の一沙門によって中興され、現在に至っています。
 楼門を入ると左手の方に本堂があります。この本堂は1559(永禄2)年造営されたもので往時の姿を残しているものは、この本堂及び楼門すのみとなっています。

この寺のご住職さんがお花が好きでよく手入れされており、花を見るのも楽しみの一つと言えます。

木五倍子(キブシ)

               赤いボケの向こうは本堂

                  桜の向こうも本堂



               白いボケも咲いていました。
 ここで、恵心僧都と往生要集について触れておきたいと思います。
時は10世紀後半の事。釈迦の入滅後、500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代。
以後の1000年間は仏果や仏証を体得した者が皆無となるが、釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代。
2000年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、仏法が衰える「末法」の時代。

平安時代後期は飢饉や日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争が続き、貴族も民衆も危機感を募らせ、末法の到来を実感できたのです。
「末法灯明記」などによれば末法の第一年は1052年(永承7年)に当たるとされ、仏教界のみならず一般思想界にも深刻な影響を与えていました。
多くの人々は末法の到来に浄土信仰を信じ救いを阿弥陀仏に求めたのでした。 ですから権勢をほしいままにしていた藤原頼道は宇治川を挟んだ向かい側に平等院に阿弥陀堂を建立したりしています。

こういった社会背景にあって恵心僧都は985(寛和元)年、「往生要集」を表わしています。
多くの仏教経典や論書などから往生極楽に関する文章を集めたもので、三巻から成り、1厭離穢土、2欣求浄土、3極楽証拠、4正修念仏、5助念方法、6別時念仏、7念仏利益、8念仏証拠、9往生諸行、10問答料簡の十大文に分かれています。
また、この「往生要集」を源として「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「天台宗眞盛派」などが創設されました。いかに大きな影響を与えたか知る事が出来ます。
現在でも、地獄のイメージというと釜茹で地獄、血の池地獄、針山地獄を思い浮かべますが、これも「往生要集」から・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、広く民間に流布したもので、近世になるとこの絵本を基に「覗きからくり」などの民間芸能が生まれました。

往生要集の厭離穢土に「苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こいねが)うこと」というのがあります。
現世の苦しみから離れて、極楽世界に生まれ替わるためには、道俗・貴賎・愚賢の区別もなく、「往生の業は念仏を本となす」の基本的な立場に立って書かれているところです。
念仏といえば、単に「南無阿弥陀仏」と称えることと理解していた愚かな私でも救われて往生極楽できるかも知れません。
しかし、恵心僧都は、念仏三昧により「瞑想状態」に入る「観想念仏」を重要視しています。そのなかで六十万億那由他恒河沙由旬(なゆたごうがしゃゆじゅん)の阿弥陀仏の姿を心に想い浮かべるのです。
(六十万億那由他恒河沙由旬とはよく分りません。とにかく途轍もなく大きさです。恐らく宇宙よりも大きいのです)
その阿弥陀仏から放たれる光は宇宙の隅々まで照らすのです。そのことを想い浮かべるのです。それが観想なのです。そうすれば自分もまたその光に照らされていることを発見するのです。
阿弥陀仏に心を向けることによって、仏の光の中に自分を見い出すことができるのです。
光は、仏の智慧なのです。迷いや嫉妬や羨望の世の中に身を置きながら、この光に触れれば、その束縛から解放され、本当に自由に生きる道が開かれてきます。
恵心僧都の『往生要集』は奥が深くて凡人にはよく分りませんが、繰り返し阿弥陀仏の光を讃え、それに触れることの喜びを感じられるということなのでしょうね。
                                                       参考:『往生要集1』(岩波文庫)




興聖寺
 曹洞宗と言えば福井県永平寺が思い浮かぶ。その永平寺を建てたのが道元と言うのは常識の話。
その道元が宋の留学から戻ってきて最初に創建(1236)したのが京都の深草に建てた興聖宝林禅寺なのです。
その後兵火により焼失しましたが、恵心院と同じく淀城主永井信濃守大江尚政によって1648(慶安元)年この地に再興されました。
この時の開山となったのが万安英種(ばんなんえいしゅ)和尚です。

左の写真は寺の入り口の総門で、この門から山門までは100mほどの直線の坂道が続いています。
この坂道の両側には自然水が絶えることなく流れており、水のせせらぎ音が琴の音のように聞こえるので琴坂と呼ばれています。
私が子供の頃にはこのせせらぎに沢蟹が沢山いたのですが今は見ることができなくなりました。

    琴坂は秋のモミジが美しい。(上から総門方向に撮影)

        中国風の山門となっているのが特徴です。

本堂は伏見城の遺構を用いて作られました。
したがって血の手形が付いた天井が見受けられるという。
中には平安時代後期に作られたといわれる観音像が祀られ、かつて源氏物語宇治十帖の古跡「手習の杜」に祀られていたことから、「手習観音」と呼ばれています。


 三面大黒尊天像

施福神、福徳神、憤怒神
の顔を持っているのだろうか?
 日本の禅宗は曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三宗派に分かれているといっていいでしょう。
元々禅というのはインドで仏教以前から行われてきた修行の一種で、釈迦もこれを修行法として取り入れていたということです。
だから、禅は本来、修行の名称であっって宗名ではありません。
中国では唐、五代、宋にかけて臨済・曹洞・い仰(いぎょう)・雲門・法眼(ほうげん)の五家が分れ、さらに臨済から黄竜・楊岐の二派が出た事実を捉え五家七宗というらしいのです。
 日本では、栄西が中国に渡り天台山や天童山で禅を学び平安時代末期の1191年に日本で臨済宗を開宗しました。
道元は建仁寺において栄西の高弟である明全に師事し、1223年24歳の時に入宋して天童山の長翁如浄(にょじょう)に曹洞禅を4年間学びました。
1227年に帰国したのち、建仁寺において座禅こそ安楽の法門であるとして座禅の方法や心得を説いた「普勧座禅儀」を著述しています。
これが原因になったのか、道元は天台衆徒の反発をまねき、1230年、京都の深草の安養院に隠棲し、有名な「正法眼蔵」の著作に取り組んだのでした。

1236年、この地に興聖宝林禅寺を建て弟子も多く集まり、教団は拡大していきました。
しかし、他宗を激しく排撃したため比叡山や臨済宗の反発を買うことになり、1244年、波多野義重の招かれ、越前国に永平寺を開いて興聖宝林禅寺から去って行ったのです。

深草の興聖宝林禅寺が衰退して行ったのは言うまでもありません。
あとは、前述の如く、永井信濃守大江尚政によって再興され現在に至っています。


さっ!この後は例年の如くお花見とさせていただきます。
例の如く今回も「うどんすき」です。
今日は女手がないもので、小学生が頑張ってくれました。
「うどんすき」というのは関西の方言?なんですね。よく質問があります。

関西ではお馴染みの「うどんすき」、味の付いたダシで煮込むんです。

こちらはスーパーで買ってきた「ズリ」を炒めているところです。

材料は、まだまだ、ご飯物が余ってしましました。この寿司も最後は鍋の中に入って雑炊となってしまいました。

専属のコックさんは機用にも「焼きうどん」の調理を始めました。
味が変わると別腹に入ることに!

歴史ロマンを追いかけるメンバーは人と人のコミュニケーションも大切にしています。
今日も腹イッパイ、知識もイッパイ、酒もイッパイの楽しいひと時を楽しんできました。



                   第112回鞍馬・貴船        第114回伏見の天皇陵


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