月光 BY 『音楽の部屋』様                                                  17年3月12日(土)
鞍馬・貴船

 3月に入り気温も10度を越す暖かい日が続き春の訪れを感じていたのですが、この日はご覧のような雪と霙と雨の日になってしまいました。
家を出るときは晴れ間も見える日だったのですが・・・・。


今日の集合場所と時刻は叡電鞍馬駅に10時ということにしていました。


鞍馬駅はなんとも情緒のある駅舎だった。

さすが鞍馬!駅前には鼻の高さ?長さ?は優に2mはある
大きな天狗が我々を驚かせてくれました。
   
         雪も小止みになってきたので、イザ出発!

   

仁王門からはケーブルカーに乗らず、九十九折(つづらおり)参道を歩いて登りました。
この道は清少納言が「枕草子」の中で「近くて遠きもの、鞍馬のつづらおりといふ道」と記しているように曲がりくねっていて本堂までは500mもあるのです。


 遠藤周作氏の書に「くらまは普通、鞍馬と書く。私の頭には暗山もしくは暗魔の文字が思い浮かぶ」そして「鞍馬は異形なもの、怖ろしいもの、魔のものが住む場所」とし、「人間がみだりに足を踏み入れられぬ山」とイメージされていました。

そのように畏敬の念を抱かせる鞍馬は古へより霊場とされてきたところなのです。

『鞍馬山の信仰の歴史は魔王尊の降臨に始まるという。
650万年前に宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、地球の霊王として鞍馬山上に天下ったのである』

と、ものの本で読みました。



天狗や大魔王尊? げに怖ろしや!

ただ、大魔王尊といっても悪の親玉ではなく、あらゆる魔物を征服し善神に転向させる転迷開悟、破邪顕正の力を授ける大王のことですから誤解のないように。



『天狗については古くから山岳信仰とかかわりがあり、修験者が守護神として祀っていたが、中世以降山伏の堕落もあり、天狗を妖怪や「魔」とみなす風潮も生まれるなど、時代とともに姿やイメージも変遷していった。
本来の天狗とは、山に宿ると考えられる「精霊」で、姿を見せない神秘的存在であろう。
鞍馬、比叡、愛宕、飯綱、白峯、大峯、大山、彦山など全国各地の霊山には天狗伝承があり、また大天狗、小天狗、烏天狗、木の葉天狗などの階層もつけられているが、なかでもここ鞍馬山の大天狗は「僧正坊」と呼ばれ日本各地の天狗たちの総元締めとして、また僧正ヶ谷は総本山ともいえる場所の一つとして語り継がれている』

これは鞍馬駅前の看板に書かれていました。



 左の仁王門は現在地より一段下の民家の近くにあったものを昭和34年に今のところに移されたものです。
三間一戸の楼門で木部は丹塗りとなっている。
この門には湛慶作の仁王像を祀り、俗界と浄域への結界とも言うべきものなのです。


仁王門の前の狛犬
なかなかユニークな顔をしているではないか!!

仁王門を潜って200円の入山費を払って中に入る。
ケーブル山門駅を通過して魔王の滝に行ってみた。
 滝上の丹塗りの祠には魔王の石像が祀られているらしい。


ここが鬼一法眼社
鬼一法眼とは牛若丸に六韜三略(りくとうさんりゃく)の
兵法を授けたとも伝わる陰陽師です。          
牛若丸は鞍馬の天狗に兵法を習い、弁慶との戦いに
勝って、さらに平家打倒に立ち上がったというのが  
一般的な話ですが、この鞍馬の天狗が鬼一法眼であ
るという話も残っています。                  

由岐神社の拝殿
この拝殿は1610(慶長15)年に豊臣秀頼によって
再建されたもので、中央を通路にしたいわゆる割拝殿
となっています。                       

写真でお気付きでしょうか?
急斜面に建っていることから、いわゆる舞台造りとなって
いますが、通路の左側は三間、右側は二間の対称でない
建物になっています。      (重要文化財に指定)



樹齢1000年とも言われている「がんかけ大杉」

由岐神社の本殿
鞍馬の火祭りといえば京都三大奇祭の一つで有名なものです。
その火祭りはこの由岐神社のお祭りなのです。           
創建は940年で祭神は大己貴命・小彦名命です。社名は天災や
騒乱の時に天皇が勅して社前に靭(ゆぎ)(矢を盛る器)を掛けて 
祈られたことからこの名前が出てきたのでしょう。          。


由岐神社を超えて少し歩いたところに源義経公供養塔がありました。

ここは義経が7歳になった時、鞍馬に預けられたのですが、そのとき暮らしていた東光坊跡といわれるところなのです。


義経はここで覚日阿闍梨に師事して、学問に励んだということです。
ところがある日、遮那王(牛若丸)のもとに父源義朝の元家来の正門坊(鎌田三郎正近)が現れわれました。
そして、源義朝が清盛に敗れたこと、兄の源頼朝が伊豆に流されていることなどを教えたのでした。
この時から遮那王は平氏打倒の炎を燃やしたのでした。


そして遮那王は昼間は東光坊で学業に励み、夜が更けると僧正ヶ谷に抜け出して鞍馬の天狗に兵法、剣術を習ったということになっています。

                    (僧正ヶ谷については後述)


左の写真の説明がこの看板ですです。

本殿金堂に着く直前にこの寝殿がありました。

貞明皇后とは大正天皇の皇后様のことです。


右の写真は本殿金堂の写真です。
本殿という言い方は神道、金堂という呼び方は仏教です。
つまり、鞍馬寺は神仏習合の寺なのでしょう。

九十九折坂を登り詰めたところに本殿金堂があります。
昭和46年に落慶供養された鉄筋コンクリートの入母屋造となっています。

この本殿金堂の中には中央に毘沙門天王、東に千手観世音菩薩、西に護法魔王尊像が安置されています。

この三像については、入山案内に『鞍馬山は、いつでもどこにでも存在する尊天の活力が満ち満ちている。「尊天」とは宇宙の大霊であり大光明、大活動体であり、そのはたらきは愛と光と力とになって現れる。愛を月輪の精霊(千手観世音菩薩)、光を太陽の精霊(毘沙門天王)、力を大地の霊王(護法魔王尊)の姿で現し、この三身(さんじん)一体を「尊天」と称する』と書いてありました。
  
本殿金堂前からの景色です。晴れていれば比叡山や京都市中を望むことができるのですが生憎の天気で眺める事が出来ませんでした。
この欄干の手前には大きな敷石が敷かれています。
この大きな石は、もと本殿金堂背後の崖上にあった経塚の蓋石と伝えられているものです。





ここで記念撮影をしました。
鞍馬寺奥の院へ
本堂の西側から細い急な坂道が続いている。この道を遮那王が夜な夜な僧正ヶ谷に向って歩いたのだろうか?

遮那王が修行に通う途中に喉の乾きを潤したという「息つぎの水」

杉の根が地を這うように複雑に絡み合う「木の根道」
白い粒々はフラッシュに輝いた雪で心霊現象ではありません。

下にはふ鞍馬の山の木の根見よ       
  堪へたるものはかくの如きぞ

                   与謝野 寛
大杉権現社 
  
                  大杉権現社

この辺りは魔王尊が降臨したとも言われ鞍馬山の信仰の原点となっています。
魔王尊とは先にも述べたように魔物を征服し善神に転向させる転迷開悟、破邪顕正の力を授ける大王のことです。
この魔王尊については鞍馬山の説明書では「宇宙の中心にいる大元霊である尊天の指令によって650万年前に金星から大魔王尊が派遣され鞍馬山上に降臨した」とあり、
「人類救済の使命を帯び人類が遠い未来において水星に移住する時、人類を誘導してくれる」と結んであります。




大杉権現社裏の大杉

大魔王降臨説の大杉である。
樹齢千年で3本の幹よりなる巨大な杉であった。
昭和25年の台風で折れ、
今は15m程の根幹のみを残している。

背比べ石

      
                   背比べ石





遮那王と名乗って鞍馬山で十年余り修行をしていた義経。
十六歳のとき藤原氏を頼って奥州へ下ることにしましたが、
そのとき鞍馬山に名残を惜しんで背比べをしたという石だそうです。

高さは約1.2m。遮那王がこれくらいの背の高さと考えれば背が低すぎるではないか。

ん? 素直に怪しいと感じました。


この石の表には

「帰り越し帰り来んとは思へともさだめなき世の定めなければ」
と彫られています。

説明板には、「波乱に富んだ義経公の生涯はこの石に始まるといえよう」
と書かれていましたが、あまりピンと来る話じゃないのですが・・・・・。




遮那王が背くらべ石を山に見て
  わがこころなほ明日を待つかな

                            与謝野 寛
背比べ石から僧正ヶ谷に向う道は下の写真のように整備されています。
 


不動堂                                      
 
僧正ヶ谷の不動堂








「吾妻鏡」にこんな記述がある。1195(建久6)年5月3日に
義経を追悼した源頼朝は相模守惟義を使者にたてて鞍馬に
剣を奉納した。                            
なにゆえ、義経ゆかりのこの鞍馬に剣を奉納したのだろう?

その訳は知る由もないのですが、こんな風に考えればロマ
ンじゃないですか。                        
つまり、本来信頼すべき弟の義経を討った懺悔の気持ちか
ら義経に詫びたかったかではないでしょうか。だから使者で
なく頼朝本人に鞍馬に参って欲しかったと思うのは私が義経
贔屓だからでしょうか?                      


 『謡曲「鞍馬天狗」は源義経幼時の武勇、説話を現代物に脚色した曲である。
鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修行中の稚児平家公達や牛若丸を連れて出かけたが、見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。
ただ一人残っている牛若丸の素性を知り憐れんだ山伏は諸所の花の名所を案内し「自分は大天狗である。平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けよう」といい、翌日からの激しい修業の末、約束の如く兵法を授け再会を約して大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。
 僧正ヶ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、老杉高く聳え、巨根地を這って昼なお暗く神秘感を漂わせている。』

                  謡曲史跡保存会による案内板より

     僧正坊大天狗については上の仁王門の写真の横に説明があります。

ただし、「義経記」には天狗の話はありません。これは「平治物語」の中の話で「太平記」や謡曲に伝えられたものなのです。






僧正ヶ谷は杉の大木が立ち並び、深山幽谷の気配が漂っています。
左のお堂は不動堂といい、3間四方、一重、宝形造、本瓦葺で正面に1間の向拝付きの仏堂となっています。昭和9年12月改修ということになっていますが、多分、以前に建っていたという記録もないので新築と言うのが正しいのでしょう。


堂内には比叡山の開祖である最澄(伝教大師)が刻んだと伝えられる不動明王像が安置されています。

最澄が鞍馬山内に籠もって修行していた時、この不動尊を自ら彫ったものとされています。






義経堂
この不動堂の写真右手前には下の写真の義経堂が建っています。

鞍馬では義経を平安末期の武将と見ていないのです。
衣川で死んだ義経を神格化しています。「遮那王尊」として、しかも宇宙の神の脇侍としてお祀りしているのです。
その御堂がこの義経堂なのです。
  



奥の院魔王殿
  








  
時間のスケールの大きさで驚くべきことは、この岩はサンゴやウミユリの化石を含んでいます。
つまり、これらの岩は2億6千万年前は海底だったところなのです。
それが隆起して現在は山の頂になっているのです。
因みにここの標高は435mの高さなのです。
ここの3枚の写真は左上が奥の院魔王殿の拝殿、上が本殿ともいうべき神のおわします盤座(いわくら)、左が盤座の周りの水成岩です。

大杉権現社のところで述べたように650万年前に降臨した魔王尊がここに祀られています。

鞍馬山で最も神聖なところなのです。

魔王尊は降臨した時のまま16歳の若さをもって霊王として活動し、さまざまな姿を現すという。そして地下空洞の支配者でもあるのです。
地下空洞には大都会があり、北欧とヒマラヤと南米とこの鞍馬山が地表に通じる出入り口となっているということなのです。
確かに大杉権現社での金星・水星の話やここでの地球規模の話といいスケールの大きな話ですね。

また、魔王尊の姿かたちは人間と同じですが、身体元素は人間と違って永久に変化しない。したがって永遠に16歳の若さを保っているのです。

魔王尊の姿を描きたいと思った狩野法眼元信は、奥の院で大祈願の末、霊示があり、杉の大樹から垂れ下がった女郎蜘蛛の引く糸をたどって描きあげたという。
この絵は本殿金堂に安置されており、60年に1度丙寅年に限り開扉されています。


          (参考 淡交社刊 古寺巡礼 京都27鞍馬寺)




貴船へ
奥の院魔王殿から一気に150m(距離530m)下ると貴船神社の鳥居のところに出てきます。
貴船といえば川床料理。5月から9月までの期間のお店が多いようですが、問題は金額。
私のようにバカ飲みする人間は昼間のちょっとした料理でも1万円は要るでしょう。 これはかなり痛い!
ただ、真夏の暑い期間でも、ここ貴船は涼味たっぷりで一度は食べてみる価値はありそうです。
   




貴船神社

京都市の説明板によると貴船神社は

『水徳神タカオカミの神祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治四年(1871)以降「貴船」と改められた。
延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。
弘仁九年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。
平安時代には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以降独立した。
 本殿、拝殿、権殿などがあり、本殿は文久3年(1863)に改修された。
川に沿って上ると奥宮がある。また、
境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石といって船の形に積んだ石塁がある。』


となっています。


残念な事に久々にいった貴船神社ですが、左のように社殿の建て替え中で、本殿、拝殿等は見ることが出来ませんでした。

御神木

貴船は古くは「気生嶺」「気生根」とも書かれ、大地のエネルギー「気」が生じる山、「気」の生じる根源という意味でした。

左の木は「桂」で、樹齢400年。樹高30m。
根元から幾つもの枝が天に向って伸び、上の方で八方に広ががっている。
これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、貴船神社の御神徳を象徴し、御神木と仰がれる由縁である。







絵馬について

古来より雨乞は馬が神に奉納されていました。貴船神社では、歴代天皇により日照りには黒馬、長雨には白馬又は赤馬をその都度献げて祈願されていました。
その後平安時代には木製の「板立馬」が生き馬に代わって奉納されるようになり、やがて絵馬となりました。

下の銅像はこの馬を形どったものなのでしょう。



貴船神社から奥宮までは約500m町並みや貴船川の様子を楽しんでください。

雨も止み薄日も差してきたのですが、このあとまたまた雪が!


夏場はこの川の上に床が出て川床料理を頂けます。



相生(あいおい)の杉(ご神木)
 同じ根から生えた二本の杉。 樹齢千年。高さ35m
 相生は「相老」に通じ、夫婦 共に長生きの意味。



貴船神社奥宮

この説明にケチを付ける訳ではないのですが、玉依姫のところに(神武天皇の母)となっていますね。神話の世界だから年代を特定する事に意味はないのですが、神武天皇はBC711年1月1日生まれ、BC585年3月11日126歳で死亡となっています。
18代反正天皇の時代とはAD406年1月2日〜410年1月23日ですから1000年ぐらいも離れていることになりますね。

「タマヨリ」とは、「霊依」あるいは「魂憑」からきたもので、神の依り憑く女性、あるいは神霊が憑依する女性のことで巫女的な特別な女性と考えるべきではないのでしょうか?
玉依姫は、大概の場合、水の神を祀る巫女だったり、水神(龍神)の娘であったりする。この説明板にある神武天皇の母も海神(わだつみ)の子供です。

歴史は素人ながら、ここに登場する玉依姫というのは下鴨神社の祭神になっている賀茂建角身命の娘の方が妥当ではないのでしょうか。

ここが入り口に当たる門

舞殿

本殿 一間社流造り・柿(こけら)葺き

本殿

これが奥宮のトップで話題にした玉依姫が浪速から乗ってきた
黄船がこの中に隠されていると伝わる船形石。         
最も先程の方の貴船川の写真を見ていただければ、浪速から
ここまで船で昇って来るのは不可能な事は分かっていただける
でしょう。伝説上のお話のことでしょうね。             

船形石の大きさは長さは8m幅は3m、高さ2mぐらいでしょうか。

これは単に私の勘なのですが多分江戸時代に作られたものでしょう?


 奥宮にはこんな話しもあります。
【その前に鉄輪とは何? ご年配の方なら説明の必要も無いかも知れませんが、炭火を使っていた頃ですが、各家庭には火鉢というものがありました。勿論、中心には炭火ををいこしています。
この火のエネルギーを暖房だけに使うのは勿体ない。そこでヤカン等を炭火の上に置いて湯を沸かしたものです。そのヤカンを置く台がカナワなのです。
普通3本足の鉄製の鋳物(五徳)だったんですよ。】


「鉄輪」伝説のテーマは「呪い」と考えます。
京都に住む貧しい夫婦の夫が他の女性と不倫関係に陥る訳です。
捨てられた妻は恨みをこめてこの貴船神社に参詣したところ、貴船神社のお告げによって鬼女となり夫に復讐しようとするのです。

全く持って私は当然のこととしてこの女性を支持いたします。

ところが元妻の丑の刻の呪いをかけられたこの夫は卑怯にも?安部清明=陰陽師に相談し、身代わりの藁人形をもって元妻から逃れます。
元妻は鬼となって夫を襲いますが、藁人形をつかみ虚空へと消え去ってしまいます。
これにより、呪いが解けたのです。
安部清明さんはカッコ良過ぎるのではないでしょうか?

ところが、橋姫の話になるともっと怖ろしいのです。
ストーリーは同じようなものです。

「宇治の橋姫」伝説はこうです。
宇治の橋姫は悪阻(つわり)に苦しんでいました。
それで夫に「七尋(10m)のワカメを海で獲ってきて下さい」と頼みます。ところが海に出かけた夫は美しい龍神(女性)の魅力に虜にされてしまいます。

逢うことも叶わなくなった橋姫は夫も龍神も憎くくて堪りません。そしてここ貴船に参詣し「私を鬼に変身させてほしい、そして憎い龍神を呪いたい」と7日間も祈願するのです。
その結果、貴船の神は「髪を松ヤニで固め5つの角を作り、その先に火を灯し、鉄輪を被って、三本の松明を持ち、宇治川に22日間浸れ」とお告げをしたのです。
そして、顔には朱をさし、身には丹を塗り、5つの角を作り、鉄輪を被って、松明に火を点け、そのお告げの通り22日間宇治川に浸ったのです。
橋姫はそれは怖ろしい鬼になって夫と龍神を食い殺し思いを成し遂げたと伝わります。(橋姫の話は2種類あるのですが、二つの話を合成しました)


丑の刻参りがここに始まったように思われがちですが、実際は江戸時代の作り話だったのでしょうね。併せて藁人形や5寸釘の話も江戸時代に作られたのです。


貴船にはこのほか和泉式部の復縁の話など歴史的には面白い地域です。




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