別れの街角 by 「音楽の部屋」様

山の辺の道桜井〜天理                                16年11月3日(祝)

                                                                   磯城嶋金刺宮址地

 第108回目は10月9日の予定だった。ところがこの日は台風の襲来で延期となってしまった。今年は台風の当たり年なのか10個の台風が上陸することとなった年だった。
そのため1ヶ月遅れでの開催であるが今回はこれまでに、何度か行ったことのある山の辺の道を歩くことにした。
近鉄桜井駅を出発点として初参加の人もいるもので、行けるところまで歩いてみようというものだ。


磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)
 第29代欽明天皇といえば天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の名で書紀に記されている天皇で名前から見ても評価の高い天皇だったのでしょう。
その天皇の宮が磯城嶋金刺宮である。
磯城嶋(しきしま)といえば敷島を思い浮かべてしまうように日本の古い国号ヤマトにかかる枕詞でもある。
    『敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山さくら花』    (本居 宣長)
その磯城嶋金刺宮は桜井駅から北東15分くらいのところにあった。(上の写真辺りか?)今は桜井市水道局の中に石碑だけが残っている。

仏教伝来の地


 泊瀬川畔一帯は磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、磯城嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・海柘榴市などの史跡を残し。「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
 そしてこの付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の最終地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。

「欽明天皇の13年冬10月、百済の聖明王は西部姫氏達率、怒●斯致契等を遣わして釈迦仏金銅増一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。

 この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。

また、「推古天皇16(607)年、遣隋使小野妹子が宣諭使である裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬75頭を遣して、海柘榴市(つばいち)の路上で阿部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。
                 (現地 顕彰碑より)

                   ●は口ヘンに利
海柘榴市


  紫は灰さすものそ海柘榴市の八十の巷に会へる子や誰

  たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか
 今日これから行く、大神神社の御神体である三輪山に椿があったことからこの名前がついたという。
古代、この辺りは前述の通り大和川を遡ってくる舟運の終着地点であった。さらに、山の辺の道や上ツ道、磐余の道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあった。
そのため多くの物産が集まり、我が国最古の交易市場でもあった。

平安時代には長谷詣の宿場町と様相を呈しており。枕草子には「市は たつの市 さとの市 つば市。大和にはあまたある中に、長谷に詣づる人のかならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり」との記述を見ることができる。

また、左の説明にある「歌垣」とは男女が歌を詠みかわして、どちらかと言えば結婚相手を見つける会で、現在で言う「合コン」よりは意味合いは深いものと思われる。




左の歌は万葉集にある問答歌。
女性に名をたずねるのは求愛を意味し、これに応えると求愛を受けたことになる。
 蘇我(稲目)氏と物部(尾輿)氏が仏教伝来により、その受容を巡り対立したのは有名な話。
584年のこと蘇我馬子は司馬達等(しばだっと)の娘の嶋、漢人夜菩(あやひとのやぼ)も娘の豊女(とよめ)、錦織壷(にしこりのつふ)の娘の石女を出家させ(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)馬子の邸宅の東方に仏殿を造り礼拝させた。
これが出家の始まりであるが、物部守屋は蕃神(あたしくにのかみ)、他国神として猛反対だった。
疫病が流行ると蕃神を受け入れたたためと敏達天皇に奏上し、破仏が命じられた。
そのため585年、三人の尼は捕えられ、この海柘榴市で法衣を脱がされ鞭で打たれたという史実もある。

金谷の石仏





磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)
 磯城瑞籬宮址は金谷の石仏から歩いて数分のところにあった。
今は志貴坐御県社の形で残っている。

しかし第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の跡地はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物と三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
実際、ここは山の斜面であり、宮殿が建てられるようなところではなかった。
 初代神武天皇の年代を前711年1月1日〜前585年3月11日としているため記紀編纂の都合上、実在の天皇である崇神天皇に先行する8代の天皇は、創作された天皇であるといわれている。(これを欠史八代という)
大和朝廷の創始者を崇神天皇に求めることには特に異論はないが、崇神天皇と神武天皇が「ハツクニシラススメラミコト」と同じように称されているため同一人物であるともいう説もあるが、小生のような知識不足の人間には結論は出しがたい。

神武天皇は九州から東征して、饒速日命を始祖にもつ物部氏を帰順させた天皇で、やはり、初代天皇と見てよいではないか。
崇神天皇は北陸・東海・西海・丹波に四道将軍を派遣し、大和から領土を広げていき国内の統治基盤を整えた天皇と考えたりもしている。

大神神社(おおみわじんじゃ)
 この神社は、これまでに何度か訪れており、記述部分は省略することにします。
左の写真が拝殿で、本殿と言う建物はない。
下の写真が本殿の代わりを成す御神体である三輪山。

大神神社の鳥居は見えないもので、桧原神社の鳥居を貼り付けておく。
この特徴ある三つ鳥居が大神神社鳥居の形式。


箸墓古墳(はしはかこふん)

全長278m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13m。
築造は280年頃と言われている。

 下の航空写真は天理市黒塚古墳資料館の床の写真。
         神婚伝承
 箸墓古墳といえば倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓といわれています。
大神神社の祭神、三輪山の主である大物主命と神婚する女性ですが、「日本書紀」の崇神天皇の条には、次のように記されている。
 百襲姫命は大物主命の妻となったが、大物主命は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができなかった。
ある夜、百襲姫命は夫の顔を見たいと願った。
そこで大物主命は「朝になったら櫛箱に入っているから私の姿を見ても決して驚くなよ」と言いました。
翌朝期待に胸を弾ませ(?)、百襲姫命が櫛箱を開けるとそこにいたのは衣紐ほどの太さの小さな蛇だった。
百襲姫命は驚き叫ぶと、蛇はたちまち若者の姿となると、恥をかかされたことを激怒して、三輪山に消えてしまったのです。
それを見て自分の行為を後悔して百襲姫命は腰を抜かしてしまいました。
そのとき箸が女陰を突き刺って百襲姫命は死んでしまいました。
 魏志倭人伝によれば、三世紀の中頃、日本には邪馬台国という国があり、卑弥呼という女王が国を治めていた。
卑弥呼は「鬼道に事へ、能く衆を惑はした・・・・。男弟有り、佐(たす)けて国を治」めていたのである。
つまり、卑弥呼は巫女的性格の人物で、神がかりして神託を受け、これにより弟に国内を統治させていたのである。
魏志倭人伝の年代の統治者とは前出の崇神天皇であり、その姉とはまさに倭迹迹日百襲姫命に他ならないのである。
箸墓古墳のような巨大古墳が突如現れたのも、なにやら卑弥呼の香りがするではないか?


ホケノ山古墳
箸墓古墳から東へ5分。ここにホケノ山古墳がある。
今は左の写真のような姿になっているが、平成12年3月28日、考古学ファンにとっては堪らないニュースが新聞紙上を賑わした。

当時の奈良新聞によると
 『桜井市箸中、纒向遺跡東南部の前方後円墳、ホケノ山古墳(全長約80m)が、のちの大型古墳につながる要素を持った最古の古墳であることが分かり、二十七日、調査をしていた大和(おおやまと)古墳群調査委員会(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が発表した。棺を保護する木槨(もっかく)に石囲いを施した二重構造の埋葬施設は、弥生時代と古墳時代前期の特徴を併せ持ち、築造年代は出土土器などから大型前方後円墳・箸墓古墳(三世紀後半)より古い三世紀中ごろとみられている。同時代は「魏志倭人伝」に記述のある邪馬台国に女王・卑弥呼が君臨した時期とも重なることから、大型古墳の成立過程を探るだけでなく、被葬者を含めた邪馬台国論争にも一石を投じる資料として注目を集めそうだ』




 『直径60mの後円部の南北方向に設けられた埋葬施設は、内径で長さ約7m、幅約2.7m。木材を並べて構築した長方形の木槨の周囲に石が積み上げられる前例のない形式だったとみられている。積み石は天井部にもされ、高さは1.5mほどと推定。石積み上には、穴が開けられた二重口縁壷(つぼ)が一定の間隔で方形に並べられていたと考えられている。
 木槨内部には長さ約5m、幅約1mのコウヤマキ製のくり抜き式木棺を収納。棺中央付近には多量の水銀朱跡があった。
 棺内からは、中国・後漢末の製作とみられる鮮明な画像の画文帯同向式神獣鏡(約19cm)や鉄剣が出土。周囲からも呪(じゅ)術的色彩を帯びた鏡片や鉄・銅鏃(ぞく)、農工具といった鉄製品、土器などが大量に見つかった。
 同古墳は、コウヤマキ製くり抜き式木棺の使用や副葬品の多さ、壺の方形配列など古墳時代前期の前方後円墳の様式につながる要素を有する。一方で、木槨の埋葬施設や追葬、鏡の出土位置から後の主流の北まくらではなかったことなど弥生時代の墳墓的要素も残している。こうしたことから同古墳は、弥生と古墳時代をつなぐ中間的なものと位置付けられている。
 さらに、当時としては国内最大級の墳丘を持つ古墳とみられることから、同時代に存在した邪馬台国や、のちの大和政権との関連も指摘されている』

 『魏志倭人伝』によると卑弥呼は景初3(239)年、難升米(なしめ)らを魏の洛陽に遣わした。
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する」
そして金印「親魏倭王」を与えるとともに、「銅鏡百枚」を送った。
その他の記述では、卑弥呼は「宮室・楼観・城柵」を構えて暮らし、守備兵に守られて、247年ころに死亡。
亡くなると「径百余歩の大冢(おおつか)」に葬られたという。

 現在、「親魏倭王」の金印は見つかっていない。「銅鏡百枚」は昭和時代に言われていたような三角縁神獣鏡ではなさそうだ。
「宮室・楼観・城柵」は朽ち果てて跡形がない。
最後の期待は「径百余歩の大冢」だろう。
これが箸墓古墳かというと百余歩より大きすぎぎるだろう。
ただし、径百余歩とは伝聞を書いただけで実際の長さを特定するものではないと小生は考えている。
はてさて、邪馬台国は何処にあったのやら?



この後、景行天皇陵、崇神天皇陵、黒塚古墳と回って天理から帰路に着いたのです。




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