真夏の渚 by 音楽の部屋様

京都宇治六地蔵                16年7月24日(土)   第106回


 六地蔵というと六体の地蔵が並んでいる姿を思い浮かべます。
ところが今日行った六地蔵は違うのです。
先ずは大善寺へ。この寺は浄土宗のお寺で、正式名は法雲山浄妙院大善寺といいます。
705年中臣鎌足の子、定慧(じょうえ)によって創建されています。


大善寺東門

小野篁(802〜852)という人をご存知でしょうか。平安時代、嵯峨天皇に仕え学者であり、漢詩人であり、歌人としても有名です。

  わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと
        人にはつげよあまのつり舟


という歌は小倉百人一首に登場してご存知ですよね。
ある日、「無罪善」という立て札が問題になりました。嵯峨上皇は篁に何と読むかと命じました。
篁は嫌がったのですが執拗に読めと命じられて「罪(サガ)無くて善からん」と読みました。
嵯峨上皇は「このようなことが書けるのは篁、お前だろう」ということで篁を罰そうとしました。
このときは「子子子子子子子子子子子子」を「猫の子、仔猫、獅子の子、子獅子」と読んでお咎めを免れたという話は有名です。

 注) 子はコ、ネ、シと読んでいます。



地蔵堂
 さて、なぜ小野篁の話から入ったというと篁は849年48才の時に熱病を患って死んだ?のでした。そして地獄に落ちた人々の苦しんでいる姿を見ました。

その時地蔵菩薩が六道の迷いの世界を巡りながら人々の苦難を救っている場に出会いました。
菩薩が言うには「全ての人を救いたいが、縁のない人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめて欲しい」と。

それを聞いて篁は蘇りました。そして木幡山(伏見城のある山)の桜の木で六体の地蔵菩薩像を刻み大善寺にに納めました。
ですからはじめは普通の六地蔵だったのです。

その後1157年(保元2年)後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀したことから。これらの地蔵を巡拝する"六地蔵巡り"の風習が生まれたとされています。

           (以上大善寺の説明板を参考に加筆)

小野篁作と伝えられている地蔵尊
他の地蔵は現在以下のものといわれています。

地蔵名      寺名         街道名

鳥羽地蔵    浄禅寺        西国街道
桂地蔵      地蔵寺        山陰街道
常磐地蔵     源光寺        周山街道
鞍馬口地蔵   上善寺        鞍馬口街道
山科地蔵    徳林庵        東海道


非常に綺麗なお地蔵さまでまるで化粧をしたような感じです。
地蔵菩薩の左後ろには小野篁の像が祀られています。

大善寺鐘楼
 この鐘楼は明正天皇の安産祈願の成就御礼として徳川2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮東福門院から寄進されたもの。




伊予親王巨幡陵

伊予親王とは桓武天皇の皇子で平城天皇の弟、母は藤原吉子です。
文献によると政治的力量にも恵まれ、管絃の才能もあり、桓武天皇の信頼も厚かったといいます。
しかし桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し、母と共に自殺しています。
これは当時の政界の確執に基づく陰謀事件で、人々はこれを哀れみました。

平城天皇は神経質なところがあり、当時祟(たた)りの思想が隆盛を極めており伊予親王・藤原吉子らの怨霊に悩まされ続けていました。そしてついに弟の嵯峨天皇に位を譲るまで落ち込んでいったのです。
譲位後、平城上皇は奈良に移り自分の皇后の母親である薬子に翻弄されて再び天皇となろうとして薬子の変を起こした人でもあります。

伊予親王は後に無実という事が分かり839年には名誉を回復されました。

この御陵は桓武天皇と同じく木幡山にあり、山頂を挟んで南東にありました。





許波多神社(こはたじんじゃ)
宇治市には「許波多神社」が2社あります。
一つは五ヶ荘にある競馬の神様として有名なJRA御用達?の神社です。
今日私達が訪れたのはもう一つの宇治市木幡にある許波多神社です。

祭神 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
    (まさかあかつかちはやひあまのおしほみのみこと)
    天照大御神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)

創建 大化元年(645)

 皇極天皇が夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神のお告げにより中臣鎌足に詔して木幡荘に神殿を造営したとされます。

天武天皇が壬申の乱の前に当社に柳の枝のむちを社の
瑞垣にさし勝運を祈願したところ柳のむちが芽をふきだし後に天武朝を建てたと伝えられることから勝運を祈願するには最適な神社なんですが。

明治初期に田中神社を合祀したため左の写真の狛犬の後ろの灯籠には田中神社と彫られていました。
 結局のところ、この神社ともう一つの五ヶ荘の「許波多神社」の由来がよく分かりません。
天武天皇が実際戦勝祈願したのはどちらなのでしょうね。
どちらも中臣鎌足が建てた事になっているし?????????




 本日は7月24日、酷暑のさなかです。
史跡めぐりはこれくらいにして、メンバーで納涼バーベキュウ大会で暑さを吹き飛ばす事にいたしました。
こちらが本来の目的だったりして。(猛爆)


暑い暑い暑い一日でしたが、このバーベキュウで体力・気力を付け、この夏を元気に乗り越えいこうと誓い合ったのでした。

8月は例年通り休会といたします。

皆様本当に暑い中ご苦労様でした。




             第105回明日香西部     第107回京都ツーデーマーチ


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