第100回特別記念例会 16年1月17日
平成6年2月5日に発足した歴遊会も数々の思い出を作ってきましたが、今回は記念すべき第100回目を迎える事が出来ました。
今回は歴史探訪というよりは記念パーティー開催も目的に入っていますので、訪問地は少ないのですがごゆっくり御くつろぎください。
10時JR山科駅に集合、今回は記念例会という事で参加者は16名と過去最大人数(除く 家族同伴バーべキュー会)となりました。
16名が揃ったところで早速天智天皇陵に向けて出発。 天気予報は雪だったのですが、この日は傘をさす必要もないぐらいの小雨模様というところでしょうか。 歩く道は当然ながら歴史街道である東海道です。 東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛さんと喜多八さんも歩いた?道なのです。 ここでいう東海道とは江戸時代に整備された五街道の1つとしての道を指しています。 もう一つの意味は古代において日本は五畿七道という地域に分けられ、五畿は大和・山城・摂津・河内・和泉の五国のこと。 七道とは東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道です。 北海道は明治になってからですよ。 |
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写真の右側は江戸時代を思い浮かべるような武家屋敷のイメージです。 江戸時代の中央幹線道路ですがそんなに広くはありません。 これが山間部に行けばもっと狭くなります。 |
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天智天皇陵 |
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天智天皇は話題の多い天皇です。 和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)といい、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の名は知らない人はいないのではないでしょうか。 父は舒明天皇、母は皇極天皇で蘇我氏を倒して大化の改新を成し遂げたのは有名な話です。 |
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その他、天智天皇の所業を見ますと、日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)作り、班田収受の法を制定して朝廷による中央集権の体制を確立しています。 外交では百済援助の目的で軍を派遣したが、白村江で唐・新羅軍に大敗しています。 また日本の時刻制度を始めに作ったのは天智天皇で大津京に設置した「漏刻」より始まったのです。 そのため、天皇陵の前には右上の写真のように日時計が設置されていますが、「漏刻」つまり水時計にして欲しいものです。 |
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天智天皇陵を後にして東海道を三条大橋に向けて歩きます。 すると途中で山伏が祈祷しているところに出くわしました。 珍しいものでついついシャッターを押してみました。 |
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亀の水 |
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木食正禅養阿上人(1687〜1763年)が心血を注いだ、東海道日ノ岡峠の改修工事は元文三年(1738)秋、三年がかりで完成した。 しかも上人は峠の途中に木食寺梅香庵を営み道路管理と休憩所を兼ねさせたのです。 掘り当てた井戸水を亀の口より落として石水鉢「量救水」(りょうぐすい)に受けて、牛馬の渇きを癒すと共に道行く旅人に湯茶の接待をしたそうです。 写真はその亀と不動尊です。 |
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東海道も日ノ岡あたりのなるとこんなに道が細くなります。下の写真の石碑の向こう側は旧国道1号線です。 |
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日ノ岡峠を過ぎると眺望が開けてきます。 写真は蹴上のインクライン跡です。 |
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京都を流れる疎水は運河利用を目的として作られました。その疎水も蹴上から岡崎動物園までは高低差が大きく、ここの区間のみ軌道を敷き運輸船を乗せてはしらせました。 これがインクラインで、明治23年4月に完成しています。 このインクラインと疎水および発電所は一体として開発されました。 それには以下のような状況と京都人の心意気があったからなのです。 明治2年3月7日、明治天皇は2度目の東京への行幸をなされた。 この頃は版籍奉還に向けての動きがあり、函館五稜郭では榎本武揚、土方歳三らがまだ戦っている時です。 この行幸が実質の遷都となった訳ですが、京都の人間には信じ難いことのようだったのです。 主を失った家屋は急に古び壊れていく定めなのか? 「京都が危ない!」 明治14年、京都府知事になった北垣国道は疎水を作り、物資輸送を盛んにし、発電所を作り殖産興業を思いついたのです。 明治18年に疎水工事を着工したのですが予算は当時の京都府の歳出の2倍以上でした。 しかしこの計画により衰退していく京都の産業は蘇ったのです。 この時できた発電所は日本で一番最初の発電所であり、インクラインの動力になったほか紡績工場、日本初の市電をも動かしています。 |
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これがその時に作られた発電所です。 新しい産業の振興に大きく貢献したのでしょうね。 第1期工事は明治23年2月起工し明治24年11月送電開始したのですが、水車はペルトン水車で120馬力が2台、エジソン式直流発電機80kwが2台だったそうです。 明治45年には4800kwにまでになりました。 |
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このあと平安神宮前を通って、白川を渡って西へと向かいます。 |
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左の写真は朱勝山という店です。 舞妓・芸妓変身体験をさせてくれる店なのです。 変身願望を叶えさせてくれるお店なのですが、 男の私には関係ありそうにもありません。 女性の方はいかがでしょう? 因みに金額は右の通りです。 |
平成16年1月時点 舞妓変身 7,800円 (正装用着物) 12,000円 芸妓変身 7,800円 (正装用着物) 12,000円 (お化粧・着付け・遊歩30分) 追加30分ごと 1,000円 子舞妓変身体験 50.000円 人力車出迎え 3,000円 |
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ここを通過すると東海道の最終地点、三条大橋は目と鼻の先です。 江戸を発った旅人はこの辺りで何を思っていたのでしょうね。 振り返ってみれば東山はこんな感じに見えます。 我々は青山の右後ろから歩いてきたのです。 下の写真は京都市民からは「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれている寺で、三条大橋の手前(東側)にあります。 |
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三条大橋 |
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この橋は東海道五十三次の終着点として当然有名なのですが、写真右端中段は幕府の高札を掲げる制札場があったところです。 1866(慶応2)年、長州藩を誹謗する高札が立てられました。この高札が墨で塗りつぶされたり、引き抜かれ川に投げ込まれたりしています。 幕府は新選組に監視を命じ見張らせたのでした。 これに引っかかったのが土佐藩士8名でした。 斬り合いの末、土佐藩士は2名が死亡、1名は奉行所へ引き渡され、残りは逃亡したという三条政札事件があったところです。 |
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この欄干の擬宝珠には右の説明のように池田屋騒動の時の傷?と言われているそうですが。 2本の傷のほか少し下に同方向の傷もあり、斬り合いの刀傷としてはありえない話であり、かなり胡散臭い話ではないでしょうか。 今年はNHK大河ドラマで新選組が扱われているせいでこういった観光案内版があちこちに立っていますが、これもまた一興と思います。 |
ここはやっぱり東海道の終点ですから東海道中膝栗毛の滑稽話が似合いますね。 橋の西南のたもとには左のような弥次さんと喜多さんの銅像が建っています。 |
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これで今日の目的地にまでは歩いたのですが、100回記念のパーティー会場?宴会場?飲み会場? までの道すがらの写真を少し。 やっぱり今、新選組の人気で幕末が熱いですから。 |
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ここは高瀬川。 写真右手は彦根藩邸があったところ。 幕末話には顔を出しませんが当然佐幕派でした。 その彦根藩邸の向こう側(南側)は土佐藩邸があったところです。 坂本龍馬も脱藩を許されて、ここで謹慎を仰せつかったところです。 その土佐藩邸の南東には本間精一郎遭難の地の石碑が立っています。 本間精一郎は、越後国出身で文武に長じ、尊王攘夷の急進派として清河八郎とともに行動したが、志士仲間の反感を買い人斬り以蔵こと岡田以蔵に斬られたのです。 |
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海援隊京都本部のあった酢屋。 坂本龍馬は暗殺される1週間前までここに居たのでした。 酢屋は土佐藩出入りの材木商で現在の酢屋は一階が木材工芸品の販売二階が龍馬関連のギャラリーになっています。 11月15日の龍馬の命日から10日間は龍馬追悼展が開催されます。 |
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いよいよ待ちに待った宴の場です。 |
ほんの少しだけ写真を載せておきますね。 |
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食べ物か運ばれてくるまでに過去の写真を見ながら 先ず一杯。 飲み助の多いメンバーでした。 |
2次会はカラオケ、 あれ? 一人寝てますね。
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