シューベルト 即興曲90-2 BY 『HIROKO'S HOME』様

新選組の足跡を尋ねて     15年12月20日

 10時、JR京都駅に集合して、今日はここから歩くことにしました。
そのため歴史の流れから見ると逆の流れで新選組を追っかけることになりますが。
今日のメンバーは11名です。


不動堂屯所

           不動堂屯所跡 駅を出て西に歩いて10分の
ところにリーガロイアルホテル
があります。
この前に不動堂の屯所跡の
石碑があります。
戊辰戦争が始まる半年前の
1867年6月15日、西本願寺の屯所からこの地に移ってきたのでした。
しかし正確な屯所の位置は今でははっきりと分からないのです。
記録によれば不動堂村に1町四方の土地と建物を西本願寺が用意して立ち退いてもらったというのが正しいのでしょう。
不動堂村の屯所は大名屋敷かと思わせるほどの立派なものでした。

油小路の変
(あぶらのこうじにへん)

北辰一刀流の使い手で伊東甲子太郎という人物がいました。
彼は近藤勇の路線から離れて行き孝明天皇の御陵衛士となるということで高台寺党を結成した。

これに対して近藤は妾宅に伊東を招待したのである。

左の写真は近藤勇の妾である島原の元 深雪太夫宅があった辺りと思われる。

    今日はこの冬一番の雪の日となり
    歩道橋はご覧のように雪が積もって
    いました

近藤の妾宅からの帰り道、油小路木津屋橋辺りで新選組の刺客によって襲われ、左の本光寺絶命した。

1867年11月18日のことである。
伊東甲子太郎の遺骸は翌日左の写真のところである七条油小路角に放置し、高台寺党に引き取りに来させることにしたのだった。
そして待ち伏せし、高台寺党の壊滅を図ったのである。

ここで藤堂平助、毛内有之助、服部三郎兵衛らが殺されたのである。

この事件を油小路の変という。

  油小路だからなのか油屋さんがありました。
  町屋の風情が残っていました。


天満屋騒動



油小路を上って正面通りを越えると左のような石碑がある。
伊東甲子太郎が暗殺された3日前のことである。坂本龍馬が河原町四条上ルで殺されると事件が起こっている。
さらに、この年の4月23日に紀州藩船明光と海援隊船伊呂波丸が衝突して、伊呂波丸が沈没した事故が起こっている。
この事故は「万国公法」に従って処理するとの龍馬の方針で事が運び、11月7日に紀州藩から7万両に及ぶ賠償金をせしめている。実に龍馬暗殺の8日前なのです。
海援隊の同志は紀州藩の三浦久太郎が龍馬に恨みを抱いての犯行と目星を付けた。
三浦はその時、新選組に警護されてることになり顔合わせということで天満屋で酒席を開いていたのだった。
時刻は夜9時、天満屋に押し入った海援隊(陸奥宗光以下16名)は三浦に斬りかかったのだった。
激しい乱闘となったが灯が消えると真っ暗闇である。誰が誰だか分からなかった。
「三浦を討ち取った!」の時の声で陸奥宗光らは一斉に逃げ去ったのである。
この時の声は新選組の機転だったのであるが。
結果は、十津川郷士の中井庄五郎と新選組の宮川信吉が討死、舟津釜太郎が後日死亡にしました。



西本願寺太鼓楼


     太鼓楼(写真は10月に撮ったもの)
新選組は池田屋騒動(1864.6.5)、禁門の変(同.7.19)の後、入隊する隊士は増え続け130人を超えるようになっていました。そのため壬生の屯所では狭すぎるようになっていました。
そこで目を付けたのが西本願寺だったのです。
交渉に当たったのは土方歳三だったのです。
西本願寺は勤皇寄りといわれており、新選組の申し出を寺側は当然に拒絶したのです。しかし執拗に交渉は繰り返され、ついに暴言と恫喝に屈し、寺は本堂の北にある600畳の北集会所を新屯所に明け渡したのでした。
この北集会場は明治6年に解体され姫路市の本徳寺に移築されましたが、隊士の集合や調練の合図に使われた太鼓楼は今も西本願寺の北東隅に残っています。
新屯所での新選組は拷問、斬首、切腹に加え大小の空砲を打ち鳴らし、鶏や豚を飼い、悪臭が漂い、屠殺される家禽の声が寺中に響き亘ったのでした。
西本願寺も我慢できなかったのでしょう。困り果てて会津藩公用方に改善の要望を出しています。
その結果「市中で発砲の禁止、屯所の移転」の言質を取り付けたのだった。
明日は年末恒例となっている高校駅伝の日です。
雪の降る中、西本願寺の横を練習している高校生がいました。
西本願寺の裏側の大宮通に出る頃には雪が激しくなり、ご覧のような状態です。
写真の建物は龍谷大学です。


島原



  西本願寺から西に10分ほど歩いたところに島原遊郭があります。



   今も当時の面影を残す大門(入り口とは言わず出口という)



             置屋の輪違屋



置屋というのは太夫や芸妓を派遣する店でここは現在でも営業をしています。


             揚屋の角屋
  この日は庇からは降り積もった雪が解けだして湯気がたっていました。



揚屋というのは現在の料亭に当たるもので、上の輪違屋などから太夫や花魁がやっていたのでしょう。

   右上の写真の入り口から入るとこの玄関になります。

玄関のところにある水溜です。
防火用なのでしょうか。

       松の間、なんと優雅な部屋なのでしょう。

  玄関の柱には新選組がつけた刀傷が残っています。
これから行く壬生の八木邸で暗殺された芹沢鴨は殺された夜にはここで酔いつぶれるまで飲んでいたのでした。
ここは不思議なことに新選組が利用していたばかりではなく、久坂玄瑞、武市瑞山、西郷隆盛ら勤皇倒幕派の密会にも使われていたのです。



壬生寺

 991(正暦2)年、壬生寺は園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建された律宗の本山です。
本尊は延命地蔵菩薩ですが1962(昭和37)年本堂を全焼し、律宗 総本山唐招提寺から現在の延命地蔵菩薩立像(重要文化財)が
迎えられたのです。
この寺で有名なのは壬生狂言。正式名は「壬生大念佛狂言」と言い、京都では「カンデンデン」と鐘太鼓の音で表現するのです。
この壬生狂言は鎌倉時代に壬生寺を興隆した円覚上人(1223〜1311)が始めたもので、仏の教えを庶民に分かりやすく伝えるために
考え出された無言劇なのです。
もう一つよく誤解されているが壬生寺が屯所だったと思われていることです。壬生寺で剣や大砲の訓練をしていたのであって屯所とは
なっていないのである。


        東門(高麗門) 写真は15年11月

                 本堂

近藤勇の銅像は時代劇俳優の上田吉二郎さんらが発起人となって昭和46年建てられました。

右の墓は壬生寺の隣にあった八木邸で粛清された
芹沢鴨と平山五郎の墓です。


八木邸、前川邸、新徳禅寺
1853年6月3日、ペリー率いる米国艦隊が開国を求めて浦賀にやって来ました。
これが幕末の始まりでしょうか。
その後10年、幕府は米・蘭・露・英・仏と条約を結び日本各地の港を開いていきました。
この動きに対して世の中は開国か攘夷か、佐幕か尊王か、これまでになく時勢を論じることに盛り上がりを見せたのです。
当時、幕府は攘夷派浪士の扱いに手を焼いており、江戸から彼らを追い払う手立てがないか模索していたのです。
そんな中、山形県庄内出身の浪士清河八郎という男がいました。彼は尊皇攘夷討幕論を打ち立て同志を募って諸国を巡り歩いていた男です。
彼には秘策がありました。その秘策をもって幕臣松平主税之介に献策したのでした。
それは「攘夷派の取り込みと将軍上洛の警護のため」という名目で浪士隊を江戸で結成し京に向かうということだったのです。まんまと幕府に金を出させることに成功し、彼の描いた尊皇攘夷倒幕のため、浪士を率いて上洛することになったのです。
この浪士隊の中に近藤勇、土方歳三、沖田総司らも入っていたのでした。
浪士隊234名は京都壬生村に到着したのは1863年2月23日のことです。
その夜、休むこともなく清河は宿泊先の新徳禅寺に全隊員を集めて演説をしました。
「浪士隊の真の目的は天皇の仰せに従い攘夷の先駆けとなる。将軍の警護ではない」と言い放ったのです。このときの近藤、土方たちの驚きは如何ばかりだったでしょう。当然幕府も驚き急遽浪士隊の江戸復帰を命じています。
しかし、初志貫徹を決め込み江戸に帰らなかった13名の浪士が京都に留まったのです。
それは近藤勇を初めとする8名と芹沢鴨を中心とする5名だったのでした。
彼らが宿舎としていたのが八木源之丞邸であり、今も当時の部屋を見学することができます。
この年の前年、幕府は治安維持と幕権回復のため軍隊とも言うべき京都守護職を置き、会津藩主松平容保を派遣していたのでした。

         15年12月20日の新徳禅寺
    来年のNHK大河ドラマ新選組で観光客が押し寄せて
    来るのを見越してか、木部が綺麗に洗われていました。
近藤ら残留組も生き伸びる術が必要でした。彼らは京で将軍家の警護と京の町の治安を守ることを京都守護職に嘆願し、認められたのは3月10日でした。
この残留組が名を挙げたのは土方歳三がデザインし忠臣蔵をイメージしたあのギザギザ模様の制服を着て徳川家茂の警護をしたことや、公武合体派のクーデター(8.18の政変)で御所を警護して成功したことでしょう。このクーデターの成果により幕府から「新選組」の隊名を授かり、身分も「松平肥後守容保御預」となったのです。
しかし局長は近藤勇・芹沢鴨という変則的な組織だったのです。近藤は「局中法度」を定め規律を重んじたのに対して、芹沢は規律を嫌った無頼漢でした。
芹沢は元水戸藩士というプライドがあり近藤らを田舎剣士と蔑み、局中法度を無視して傍若無人な振る舞いを繰り返していました。
芹沢の市中での横暴な振舞いに松平容保も業を煮やし、近藤らを呼びつけ抹殺を命じたといわれています。
その殺傷事件が起きたのが宿舎として使っていた八木邸であり、鴨居にそのときの刀傷が今も残っているのです。

      15年11月のときはこんな色だったのですが
芹沢鴨らの葬儀はこれまた新選組みの宿舎として使っていた前川荘司邸で執り行われましたが、暗殺を命じた近藤勇は何食わぬ顔で死を悼む弔辞を読んだということです。
現在、前川邸は所有者も代わり見学することはできませんが、「勤勉」「努力」等の文字が墨書された雨戸や池田屋事件の引き金となった古高俊太郎を拷問した器具なども残っているということです。
八木邸の南には壬生寺があります。新選組はこの壬生寺の境内で武道の鍛錬を行っていたのです。阿弥陀堂の横には壬生塚がありここに八木邸で暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓、池田屋騒動で亡くなった奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らの合祀の墓もあります。
またここには近藤勇の遺髪塔や胸像もあり、いつも訪問者が絶えないところです。
前川邸の前にあった写真から写してきました。
「勤勉」「努力」「活動」「発展」等の文字が墨書された雨戸と池田屋事件の引き金となった古高俊太郎を拷問した器具

壬生を出て綾小路通りを東に道をとると光縁寺がある。



光縁寺

山南敬助という男がいました。
彼は浪士隊として京都にやってきて、京都残留組みとなった筋金入りの元仙台藩士だ。
新選組内務担当の総長である。
山南は剣の腕もたった。模範試合ではいつも沖田総司が相手をしていたという。
山南と沖田まるで兄弟のようだったのだ。
近藤の信頼も厚かったが、屯所の西本願寺移転に関して近藤、土方歳三らと対立するようになったのである。
山南は脱藩して大津に潜んでいた。
土方はそこに沖田を走らせた。
沖田でなければ斬り合いになると考えたのだろう。
沖田と共に戻ってきた山南は切腹を命じられ沖田が介錯したのである。
その山南はじめ粛清された隊士の墓がこの寺にあるのです。


さ、今日の工程はここで終了しました。


今回は12月の例会ですので、この後は恒例の忘年会です。わざわざページに載せなくてもという気持ちもありますが、
和を持って尊しとなすです。宴会も重要な目的の一つですから載せますよ。(笑)



           清和天皇陵へ           山科から100記念へ




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